なんでも日本の学校、大学を秋入学にする議論が活発なようです。
さっきネットで「親」がこどもに「高校卒業から大学入学までの間に、こどもに何をして欲しいか?というアンケートを見ていて、1位2位3位がほぼ同数で「ボランティア活動」と「語学の習得」と「資格の習得」だというのを見て、「お寒いな」と感じました。
結局のところ、日本では大学の卒業証書というのは、「免許と同じで就職へのパスポートにすぎない」のだな、との思いを深くしました。
その間にボランティアをやっていれば就職の面接で有利?どういうボランティアかの説明がない状態でのこの答えではそう考えるよりほかしかたがない。
このブログでたびたび書きましたが、「大学」は「大学」であって「大学校」ではない。「校」には「おしえたわめる」の意味がありますが、大学は「いまだ答えが出ていないものを研究に自主的に学びにゆくところ」なわけです。
その専門分野での「外国語での説明能力」としての語学は、半年の語学学校への入学程度でどうにかなるものではない。たとえば、ごくごく単純な文章。
「自転車のハブのフランジを大きくすると、スポークとハブの円周の位置関係が、スポークが円周の接線方向に近付くため、スポークの首部分への応力が減り、破損が少なくなる利点がある。これはまた単位当りのスポークの長さの変化とリムの移動量との関係でも有利になると思われる。」
こういう文章を英語でスラスラ喋れるように語学を習得させてくれる「半年でできる習得場所」があるのか?ありません。
何度でも言いますが、「抽象的な外国語の語学力」というのは存在しない。
アレックス(M博士)はピニンファリーナと仲がよかった。彼の初期のモデルのカウリングはピニンファリーナのデザインです。
「アレックス。コミュニケーションはどうやっていたのかな?イタリア語はできるの?」
「それが、思いがけないことだったんだが、ワシは古い教育を受けているので、ラテン語をやっていた。まあ、イタリア語の古語じゃから、イタリア語への移行はなんとなく参考になった。こちらが書くとむこうもなんとなくわかった。こっちも同様だったな。ワシもまさかラテン語がいくらかでも役に立つとは学生時代、考えもしなかったナ。」
私も漢文が好きだった関係で、かつて日本語を教える仕事を頼まれた時、まったく日本語が話せない生徒とは漢文でコミュニケ-ションをとっていました。ただし、私の書く漢字は彼らには100%わかるのですが、彼らの字は単純化された革命文字だったので、私にはわからない。ただし台湾の人とは双方「旧漢字」なのでコミュニケーションできました。
むしろ小学校からの英会話などやらず、学術的なカッチリした英語を高校と入試でやらせ、漢文と古文をやったほうがのちのち伸びると思う。
世界のトップで通用している日本の人たちはそういう背景ではなかったのか。語学の習得が「日常会話のぺラリッシュ」のことなら、そんなに志が低く、軽薄なことはない。
英語が第二外国語でありながら、英語を母国語とする人を論理的に追い詰め、やりこめ、ぐうの音も出ないまで議論して交渉する。工業力・技術力・勤勉さもさることながら、そういうことが出来る人が一部にいたから日本は世界第二の経済大国までなれたと私は思っています。
アメリカの名門ハーバード大学は、「新大陸で本がなくては勉強も出来なくてたいへんだろう」と英国のケンブリッジ大学の有志が不要の本を集めて寄贈したのがもとですから、さまざまな制度も英国・ヨーロッパが本家です。
そのヨーロッパではメイボールの舞踏会と卒業式で夏休みに突入。学生たちは夏の休みには、自分の学んだこと、古典の舞台を実地で検分するため「グランド・ツアー」という大旅行をしたものです。ギリシャへ、フィレンツエへ、トルコへ、ローマへ。
私のゴッドサンの父親はイスラエルへ、古代遺跡の発掘へ行っていました。
夏の前に卒業して、秋から入学という背景には、そうした、自主的に紙の上での研究を、現場へ夏休み期間に確認に行くという作業を前提としたカリキュラムであったことを忘れてはならない。
それなくして、秋入学にしても、最悪、合格した安心から、半年間ですべての試験内容が頭から抜け、居酒屋でアルバイトして親から買ってもらったごほうびのクルマで遊びまくるだけ、という「ゆとり教育の失敗」ならぬ「ゆとり入学の失敗」になる可能性もあるかもしれないな、とぽや~っと思います。
さっきネットで「親」がこどもに「高校卒業から大学入学までの間に、こどもに何をして欲しいか?というアンケートを見ていて、1位2位3位がほぼ同数で「ボランティア活動」と「語学の習得」と「資格の習得」だというのを見て、「お寒いな」と感じました。
結局のところ、日本では大学の卒業証書というのは、「免許と同じで就職へのパスポートにすぎない」のだな、との思いを深くしました。
その間にボランティアをやっていれば就職の面接で有利?どういうボランティアかの説明がない状態でのこの答えではそう考えるよりほかしかたがない。
このブログでたびたび書きましたが、「大学」は「大学」であって「大学校」ではない。「校」には「おしえたわめる」の意味がありますが、大学は「いまだ答えが出ていないものを研究に自主的に学びにゆくところ」なわけです。
その専門分野での「外国語での説明能力」としての語学は、半年の語学学校への入学程度でどうにかなるものではない。たとえば、ごくごく単純な文章。
「自転車のハブのフランジを大きくすると、スポークとハブの円周の位置関係が、スポークが円周の接線方向に近付くため、スポークの首部分への応力が減り、破損が少なくなる利点がある。これはまた単位当りのスポークの長さの変化とリムの移動量との関係でも有利になると思われる。」
こういう文章を英語でスラスラ喋れるように語学を習得させてくれる「半年でできる習得場所」があるのか?ありません。
何度でも言いますが、「抽象的な外国語の語学力」というのは存在しない。
アレックス(M博士)はピニンファリーナと仲がよかった。彼の初期のモデルのカウリングはピニンファリーナのデザインです。
「アレックス。コミュニケーションはどうやっていたのかな?イタリア語はできるの?」
「それが、思いがけないことだったんだが、ワシは古い教育を受けているので、ラテン語をやっていた。まあ、イタリア語の古語じゃから、イタリア語への移行はなんとなく参考になった。こちらが書くとむこうもなんとなくわかった。こっちも同様だったな。ワシもまさかラテン語がいくらかでも役に立つとは学生時代、考えもしなかったナ。」
私も漢文が好きだった関係で、かつて日本語を教える仕事を頼まれた時、まったく日本語が話せない生徒とは漢文でコミュニケ-ションをとっていました。ただし、私の書く漢字は彼らには100%わかるのですが、彼らの字は単純化された革命文字だったので、私にはわからない。ただし台湾の人とは双方「旧漢字」なのでコミュニケーションできました。
むしろ小学校からの英会話などやらず、学術的なカッチリした英語を高校と入試でやらせ、漢文と古文をやったほうがのちのち伸びると思う。
世界のトップで通用している日本の人たちはそういう背景ではなかったのか。語学の習得が「日常会話のぺラリッシュ」のことなら、そんなに志が低く、軽薄なことはない。
英語が第二外国語でありながら、英語を母国語とする人を論理的に追い詰め、やりこめ、ぐうの音も出ないまで議論して交渉する。工業力・技術力・勤勉さもさることながら、そういうことが出来る人が一部にいたから日本は世界第二の経済大国までなれたと私は思っています。
アメリカの名門ハーバード大学は、「新大陸で本がなくては勉強も出来なくてたいへんだろう」と英国のケンブリッジ大学の有志が不要の本を集めて寄贈したのがもとですから、さまざまな制度も英国・ヨーロッパが本家です。
そのヨーロッパではメイボールの舞踏会と卒業式で夏休みに突入。学生たちは夏の休みには、自分の学んだこと、古典の舞台を実地で検分するため「グランド・ツアー」という大旅行をしたものです。ギリシャへ、フィレンツエへ、トルコへ、ローマへ。
私のゴッドサンの父親はイスラエルへ、古代遺跡の発掘へ行っていました。
夏の前に卒業して、秋から入学という背景には、そうした、自主的に紙の上での研究を、現場へ夏休み期間に確認に行くという作業を前提としたカリキュラムであったことを忘れてはならない。
それなくして、秋入学にしても、最悪、合格した安心から、半年間ですべての試験内容が頭から抜け、居酒屋でアルバイトして親から買ってもらったごほうびのクルマで遊びまくるだけ、という「ゆとり教育の失敗」ならぬ「ゆとり入学の失敗」になる可能性もあるかもしれないな、とぽや~っと思います。