うちのほうに地域のコミュニティの場として機能させようとした食事処、惣菜屋がNPOとして出来たのですが、ついに閉められることとなりました。
出来てから一年半?2年間かわかりませんが、うちから150mほどなのに、私はついに一度も入りませんでした。
That thought never occured to me (爆)。
まず、外から見て入ってみようと言う気が起こらない。料理は不味そう。よい香りも漂ってこない。人が買っているのとか、入っているのをまず見たことがありませんでした。
町会長とは或る喫茶店ではよく出くわしました。かつては神谷さんの喫茶店で、最近ではもう一軒でよく出会う。
「●×▼へは行かないんですか?」
と訊いたら、
「町内の結束を高めないといけない、とか言ってよばれるんだけど、魅力ないよねあそこは。」
町会長と私が似たような喫茶店へ行っているのが興味深い。
店がうまくいって、その先で高齢者への食事の宅配をやるつもりだったようですが、上手く行かなかった。
私はあちこちで、職人から自営業の店主から家にいる高齢者に会って、彼らの多くが一人でいるのが寂しいと感じてラジオを好んでいるのを知っている。そのラジオがこのところ、高齢者がつまらないと言ってスイッチを切っているのをけっこう目撃します。NHKのラジオ番組は「若者向け」など考えなくていい。若者はipodでもインターネットでもあるんだから。そういう人たちが、「ほどよい距離感で地域の人と会える店が必要」なはずなのです。その視点がその店にはまったくなかった。
私はかつて日本に居る英国人の倶楽部の運営にかかわっていたことがあるのですが、一時期は会員が800人ほどになり、たいそうな黒字でした。私が抜けたあと、引き継いだ人たちが、なぜか「1階と地下にもうひとつつくり、規模を拡大しよう」と言い始めた。私は反対しました。
そういう場所は「自分がそういう場所があったらいいな」と思うような空間を作らない限り、人の共感は呼べないからです。居心地のよくないところに人は来ない。単純な話です。
その「地下に作ろう」と言い始めたのは、TVでCMもやっている日本の建売建築◎□○ホームの建築を西洋風に見せかける仕事をしていた男でしたが、その地下室及び1階計画はみごとに失敗した。
赤字はサー・ジョンがポケットマネーで埋めて閉店したと言ううわさを聞きました。
「ああ、サー・ジョンはやっぱり良い人だな。日英のために私財を投げ打ってるな」とそれを聞いて思った。
私はその計画が出てきた時に、すでに見限って倶楽部は抜けていました。同じ頃、カウンターに入っていたスコットランドの男が、
「R&Fさん、ボクはやめて独立しようと思う。」
と相談にきて、駅の近くに開業しました。空前絶後のヒットで、その成功を見て、ビール会社も黙ってみていられなくなり、パブをチェーン展開しはじめたぐらいです。
それは、1ヶ月かけて4人で内装を手作りした、他にない空間でした。料理も美味い。
三多摩から都心へ飲みに出かけるなどということは、ほとんどまったくしなくなったので、彼のところへ立ち寄ることも1年に3~4回しかない。困ったことに彼は私から金を受け取らない。
根を生やした場所と、根付かなかった場所。
英国人は本能的にそういう居心地のいいパブを創る人たちの気がする。パブの成り立ち、種のようなものは、「こういう場所に、こういう雰囲気、風情の場所があったら毎日いても厭きないだろうな」という気持ちが種だと思う。
これは日本で、会社員になるのが嫌で、1960~1970年代に喫茶店を始めた人たちの場所も同じだった気がします。
どういうものだか、そういう「空間の芸術」を日本の若い人たちが評価しなくなった。東京でも喫茶店がどんどん廃業している。
これは「居心地の良い店をつくる」のと「いい日本の庭をつくる」のは同じくらいに評価されて良いものだと私は思っています。
昔、銀座のソヴイエトの国営ショップで、スプートニクの絵が描いてある紅茶のカップを売っていたのを見たことがあります。チェルノブイリの事故の前までは、私はそこの黒すぐりのジャムとグルジア紅茶、それとノアの箱舟が流れ着いたと言われる山の名前を冠したブランデー「アララト」を買いに行っていました。残念なことに、チェルノブイリのあと、それらの食品が売れなくなり閉店しました。あの店は海外の店もまったく内外装、展示商品が同じで驚いた記憶があります。
あれ以来、本当に美味いロシアン・ティーを飲むことが出来ないでいます。
やがて、すべてのコンビニのレジカウンター・コーヒーとフランチャイズ・カフェが一本化して国営になったら??などと考えてニヤニヤします。内装も味も画一だし、居心地も「そこだけにしか出しえない居心地ではないでしょう」。
英国からやってきた親友を、受け入れ準備が整うまで、東京のあるビジネスホテルに3日間泊まらせたのですが、その彼が、
「なんだか、1950~1960年代のコルホーズの保養地の宿舎のようだ」
との名言を出して私は爆笑しました。
残念ながら、喫茶の分野では徐々に、世の中、ソフォーズ的に無個性・均一化になってきている気がします。
出来てから一年半?2年間かわかりませんが、うちから150mほどなのに、私はついに一度も入りませんでした。
That thought never occured to me (爆)。
まず、外から見て入ってみようと言う気が起こらない。料理は不味そう。よい香りも漂ってこない。人が買っているのとか、入っているのをまず見たことがありませんでした。
町会長とは或る喫茶店ではよく出くわしました。かつては神谷さんの喫茶店で、最近ではもう一軒でよく出会う。
「●×▼へは行かないんですか?」
と訊いたら、
「町内の結束を高めないといけない、とか言ってよばれるんだけど、魅力ないよねあそこは。」
町会長と私が似たような喫茶店へ行っているのが興味深い。
店がうまくいって、その先で高齢者への食事の宅配をやるつもりだったようですが、上手く行かなかった。
私はあちこちで、職人から自営業の店主から家にいる高齢者に会って、彼らの多くが一人でいるのが寂しいと感じてラジオを好んでいるのを知っている。そのラジオがこのところ、高齢者がつまらないと言ってスイッチを切っているのをけっこう目撃します。NHKのラジオ番組は「若者向け」など考えなくていい。若者はipodでもインターネットでもあるんだから。そういう人たちが、「ほどよい距離感で地域の人と会える店が必要」なはずなのです。その視点がその店にはまったくなかった。
私はかつて日本に居る英国人の倶楽部の運営にかかわっていたことがあるのですが、一時期は会員が800人ほどになり、たいそうな黒字でした。私が抜けたあと、引き継いだ人たちが、なぜか「1階と地下にもうひとつつくり、規模を拡大しよう」と言い始めた。私は反対しました。
そういう場所は「自分がそういう場所があったらいいな」と思うような空間を作らない限り、人の共感は呼べないからです。居心地のよくないところに人は来ない。単純な話です。
その「地下に作ろう」と言い始めたのは、TVでCMもやっている日本の建売建築◎□○ホームの建築を西洋風に見せかける仕事をしていた男でしたが、その地下室及び1階計画はみごとに失敗した。
赤字はサー・ジョンがポケットマネーで埋めて閉店したと言ううわさを聞きました。
「ああ、サー・ジョンはやっぱり良い人だな。日英のために私財を投げ打ってるな」とそれを聞いて思った。
私はその計画が出てきた時に、すでに見限って倶楽部は抜けていました。同じ頃、カウンターに入っていたスコットランドの男が、
「R&Fさん、ボクはやめて独立しようと思う。」
と相談にきて、駅の近くに開業しました。空前絶後のヒットで、その成功を見て、ビール会社も黙ってみていられなくなり、パブをチェーン展開しはじめたぐらいです。
それは、1ヶ月かけて4人で内装を手作りした、他にない空間でした。料理も美味い。
三多摩から都心へ飲みに出かけるなどということは、ほとんどまったくしなくなったので、彼のところへ立ち寄ることも1年に3~4回しかない。困ったことに彼は私から金を受け取らない。
根を生やした場所と、根付かなかった場所。
英国人は本能的にそういう居心地のいいパブを創る人たちの気がする。パブの成り立ち、種のようなものは、「こういう場所に、こういう雰囲気、風情の場所があったら毎日いても厭きないだろうな」という気持ちが種だと思う。
これは日本で、会社員になるのが嫌で、1960~1970年代に喫茶店を始めた人たちの場所も同じだった気がします。
どういうものだか、そういう「空間の芸術」を日本の若い人たちが評価しなくなった。東京でも喫茶店がどんどん廃業している。
これは「居心地の良い店をつくる」のと「いい日本の庭をつくる」のは同じくらいに評価されて良いものだと私は思っています。
昔、銀座のソヴイエトの国営ショップで、スプートニクの絵が描いてある紅茶のカップを売っていたのを見たことがあります。チェルノブイリの事故の前までは、私はそこの黒すぐりのジャムとグルジア紅茶、それとノアの箱舟が流れ着いたと言われる山の名前を冠したブランデー「アララト」を買いに行っていました。残念なことに、チェルノブイリのあと、それらの食品が売れなくなり閉店しました。あの店は海外の店もまったく内外装、展示商品が同じで驚いた記憶があります。
あれ以来、本当に美味いロシアン・ティーを飲むことが出来ないでいます。
やがて、すべてのコンビニのレジカウンター・コーヒーとフランチャイズ・カフェが一本化して国営になったら??などと考えてニヤニヤします。内装も味も画一だし、居心地も「そこだけにしか出しえない居心地ではないでしょう」。
英国からやってきた親友を、受け入れ準備が整うまで、東京のあるビジネスホテルに3日間泊まらせたのですが、その彼が、
「なんだか、1950~1960年代のコルホーズの保養地の宿舎のようだ」
との名言を出して私は爆笑しました。
残念ながら、喫茶の分野では徐々に、世の中、ソフォーズ的に無個性・均一化になってきている気がします。