私が自転車を始めた頃、もっとも気になった存在はフランク・パターソンでした。
なぜあれほどパターソンの絵が気に入ったのか?これは自分のこころを振り返ってひじょうに興味深いと思うのです。「芸術のちから」というほかない。そもそも、最初にパターソンの絵を見たとき、それがどこの国の人かも私にはわからなかったわけですから。
後年、仏蘭西のエクスに行った時、ずいぶん味のある古い家々を郊外で見ました。その時の印象は、
「なぜ仏蘭西にはパターソンのような『自転車画家』が出なかったのだろうか?」
という素朴な問いでした。私は精密機械屋時代、エキスプローデッド・ヴュー、つまり、精密機械の分解図とパーツ・リスト、組み立て図を英語で製作していましたが、ダニエル・ルブールくらいの絵が描ける人は私の周りでも何人もいる。しかし、パターソンのような人は仏蘭西にも日本にもほぼいないと言ってよいでしょう。
日本で私が思いつくパターソンのような仕事をした人は、まず第一に菅沼達太郎です。自転車で旅をした人にしかわからない「旅愁」、「旅情」が定着されている。そしてそれは自転車の専門家以外にもすんなりわかる。
パターソンの絵というのは、じつは彼が突然創始したスタイルではなく、19世紀末のぺン画、エッチングというのは、どれもああいうスタイルでした。そこから彼がどのように抜け出ていったのか?というのはじつに興味深い。
あまり知られていませんが、パターソンはもともと家具のカタログなどを描いていました。
そして、やがて自転車に乗れなくなり、ツーリングにも行けなくなり、最終的に絵葉書とカメラを使って描くようになった。彼の画集に正方形の絵がたまにあるのは、多くの場合ホートン・ブッチャーなどの箱カメラで写したものを、写真から描き起こしているからです(左から2番目の絵)。一番右の絵でもパースペクテイヴが写真の助けを借りた絵特有ですが、これはダニエル・ルブールの絵などでも、写真を使っているのが一目瞭然です。それにもかかわらず、パターソンの絵にはそれを気にさせない魅力がある。写真にはこもりきらない何かが漂っている。また、右から2枚目などをみると、彼が「図を描くイラストレーター」でなく「じつに絵が描ける人」であったことがわかります。
あの時代、売れっ子になったモーリス・ユトリロなども絵葉書を使って作画していました。
私は一時期「パターソンのように」というのがモットーだったので、彼と同じ箱カメラを持ち歩いていました。パンフォーカスのカメラ特有のなんだかしまりのない感じ。そこからメリハリをつけて、絵の核となるところを浮き上がらせ、パターソンの絵は出来てゆく。そうして眺めると「彼がどうやって風景を絵にしていったか」がはっきりと見えてきます。
私は英国派だったからパターソンが好きになったのではない。パターソンに英国を教わった気がする。
英国に一度でも行ったことのある人には、彼の絵はものすごく懐かしい。一方で私の中では、「でも、あれは我々のものではない」という感情も強くあるのです。
たとえば、彼の絵の中に「DOWNS」と書いてある風景のなかでパイプをふかしている人がいる。「DOWNSって何?」と聞いた日本人がいました。私が「DOWNS are UPs」と答えたら、脇にいた英国人は爆笑しましたが、同じく脇にいたアメリカ人もきょとんとして何のことかわからなかった。「わからない。もっと説明してくれ」と言った。それほど、フランク・パターソンの芸術というのは英国そのものなのです。そこには深い物語性がある。そのようなテキストと絵の一体性と言う面では彼は日本の絵を考えていたかもしれない。
別の絵の中には雲を眺めている自転車乗りがいる。そこには「Communion with the infinite」と書いてある。ここから、その絵の描かれた曜日まで知ることが出来るのです。彼は日曜日に教会へ行くような人ではなかったらしい。教会へ行かず、ホーリー・コミュニオンへ出る代わりに、自転車で遠乗りに行って雄大な自然の天候の中に永遠性を感じ、神秘をみることをやっていたことがわかる。
そうして出来上がった境地の絵は、自転車そのものを、いくらメカヲタク的に緻密に描いても、追いつけるところには彼はいないのです。
今週はしばらくパターソンのことを続けて書いてみようと思います。
左端はパターソンの絵ではありません。彼より50年ほど前のスタイル。右端で興味深いのは、「1950年」と書かれていますが、そのフロントブレーキは1918年ごろのプルアップスタイル。ハンドルバーは1920年代のもの。乗っている人のファッションは1930年代というぐあいで、ある意味パターソンの世界は1910~1933年ぐらいで停止していることです。これは日本の人はほとんど気がついていないことだと思います。
右端の絵の左側の人物は、とくに切り抜いて貼りこんだように私には見えますが、いままでそういう視点で彼の絵が見られたことはヨーロッパでもない。雅宴画家ワットーのようにパターソンは切り抜いて貼りこめる、人物ユニットを持っていたのであろうと私は考えています。