もうここ20年ほどのことですが、聞こえてくるこどもの声がまったく変わった。
そういう話をしても、実感としてわかってくれる人はある程度の年齢層だろう。むかしはこどもたちが、よその子のうちへ遊びに来て、家の前で名前を呼んだものだ。呼び方も『お作法』があった(笑)。
『◎△ちゃん。あ~・そ・び・ましょ!』と大きい声で言う。
中のこどもは、なにかやっていたら、
『あ~・と~・で!』
と答えた。これは、ここ20年で完全絶滅したのではないか?
考えてみると『あそびましょ』とは、じつに古風で、かつ、丁寧だ。童謡でも『きみきみ、この傘さしたまえ♪』と自分の傘を差しだすことばも丁寧。こうしたことが急速に消滅している。
そもそも、いまどきの言葉狩りで、『ちゃん』は不可だろうし、『きみ』も見下したようだからダメという人たちがいる。『きみ』は君子の『きみ』で、同じく学問をやっている仲間でお互いを呼び合う語だ。教師が『君』というのは、教師も『教えると言うことを通して、自分も学んでいる』という意味があったはずだ。
今流行りの『さん』ならいいのか?『さん』というのはもともと女遊びに遊郭に行って、そこで使われた『様』のなまりではなかったのか?『ちゃん』だって『ちゃま』の親しさをあらわす口語のなまりで、もとは『様』だ。
サムライ言葉流行りでなんでも『殿』を付ける人がいる。殿は組織がしっかりしたある意味、権威があるところが、『平積み状態のひとびとへ、そこそこの失礼がないように使われていた』(笑)。
幕府が自分のところに勤めている侍を呼ぶときは通常『ドノ』だろう。仏教では『佛法僧』に帰依して敬うということが三帰礼文に書いてあるので、お寺などからの手紙には『殿』と書かれている場合がほとんど。こちらが僧侶に出す手紙には『九拝』と書いたりして最高の敬意を表する。
そういうものがどんどん崩れて、『なんでもさん』と『パチものサムライ』(笑)。
『◎×さまぁ~~。いっしょにあそんでくださ~~い。』
が正しいのか?(笑)。
『い~・や~・だ~~。ラインで確認とらないと無駄足になりますよ。』
NOといえる権利を主張してみました(爆)。
むかし、神社や寺の境内で遊ぶこどもはけっこういた。いまはさっぱりみない。親も神社やお寺の境内で、こどもをさらったり悪いことをする奴はいないだろう、と安心して遊ばせていたふしがある。
境内には狛犬があったり、おじぞうさんがあったり、それがまた、知らず知らずのうちにこどもの身近なものになり、一種の精神地図を作っていたのではないか?と思える。
私が4つぐらいの時、YOYO幡のSAI場で、はじめて巨大な閻魔さまを見てビックリした。うなされるぐらい怖かった(笑)。ところが閻魔さまはお地蔵さんと裏表の関係にあるということになっている。だからじっくりみると恐ろしい顔の中にユーモラスな慈悲を秘めた表情になっていると言われている。
『おや、お地蔵さま。その節はお世話になりました。』
江戸時代の人ならそう言ったかもしれない。
『オマエへの罰は、こども時代にやった素直で親切な行いにより、いくらか酌量してやる。』
みんなそんなことは半世紀以上もたてば、みんなあまり思いかえさない。
境内で響くこどもの声と、はらっぱで響くこどもの声はまた違った。そのどちらも最近はさっぱり聞かない。はらっぱそのものがありません。
みんな家の中でゲームでもしているのか?あるいは塾や習い事に送り出されているのか?液晶の中の出来事は、それこそ『コップの中の嵐』。液晶の影をみて一喜一憂しているのは、夢を見ているようなものだろう。
境内で声をあげて遊んでいるというのは、現実との接点のありかたとして、悪くはないと思う。
そういう話をしても、実感としてわかってくれる人はある程度の年齢層だろう。むかしはこどもたちが、よその子のうちへ遊びに来て、家の前で名前を呼んだものだ。呼び方も『お作法』があった(笑)。
『◎△ちゃん。あ~・そ・び・ましょ!』と大きい声で言う。
中のこどもは、なにかやっていたら、
『あ~・と~・で!』
と答えた。これは、ここ20年で完全絶滅したのではないか?
考えてみると『あそびましょ』とは、じつに古風で、かつ、丁寧だ。童謡でも『きみきみ、この傘さしたまえ♪』と自分の傘を差しだすことばも丁寧。こうしたことが急速に消滅している。
そもそも、いまどきの言葉狩りで、『ちゃん』は不可だろうし、『きみ』も見下したようだからダメという人たちがいる。『きみ』は君子の『きみ』で、同じく学問をやっている仲間でお互いを呼び合う語だ。教師が『君』というのは、教師も『教えると言うことを通して、自分も学んでいる』という意味があったはずだ。
今流行りの『さん』ならいいのか?『さん』というのはもともと女遊びに遊郭に行って、そこで使われた『様』のなまりではなかったのか?『ちゃん』だって『ちゃま』の親しさをあらわす口語のなまりで、もとは『様』だ。
サムライ言葉流行りでなんでも『殿』を付ける人がいる。殿は組織がしっかりしたある意味、権威があるところが、『平積み状態のひとびとへ、そこそこの失礼がないように使われていた』(笑)。
幕府が自分のところに勤めている侍を呼ぶときは通常『ドノ』だろう。仏教では『佛法僧』に帰依して敬うということが三帰礼文に書いてあるので、お寺などからの手紙には『殿』と書かれている場合がほとんど。こちらが僧侶に出す手紙には『九拝』と書いたりして最高の敬意を表する。
そういうものがどんどん崩れて、『なんでもさん』と『パチものサムライ』(笑)。
『◎×さまぁ~~。いっしょにあそんでくださ~~い。』
が正しいのか?(笑)。
『い~・や~・だ~~。ラインで確認とらないと無駄足になりますよ。』
NOといえる権利を主張してみました(爆)。
むかし、神社や寺の境内で遊ぶこどもはけっこういた。いまはさっぱりみない。親も神社やお寺の境内で、こどもをさらったり悪いことをする奴はいないだろう、と安心して遊ばせていたふしがある。
境内には狛犬があったり、おじぞうさんがあったり、それがまた、知らず知らずのうちにこどもの身近なものになり、一種の精神地図を作っていたのではないか?と思える。
私が4つぐらいの時、YOYO幡のSAI場で、はじめて巨大な閻魔さまを見てビックリした。うなされるぐらい怖かった(笑)。ところが閻魔さまはお地蔵さんと裏表の関係にあるということになっている。だからじっくりみると恐ろしい顔の中にユーモラスな慈悲を秘めた表情になっていると言われている。
『おや、お地蔵さま。その節はお世話になりました。』
江戸時代の人ならそう言ったかもしれない。
『オマエへの罰は、こども時代にやった素直で親切な行いにより、いくらか酌量してやる。』
みんなそんなことは半世紀以上もたてば、みんなあまり思いかえさない。
境内で響くこどもの声と、はらっぱで響くこどもの声はまた違った。そのどちらも最近はさっぱり聞かない。はらっぱそのものがありません。
みんな家の中でゲームでもしているのか?あるいは塾や習い事に送り出されているのか?液晶の中の出来事は、それこそ『コップの中の嵐』。液晶の影をみて一喜一憂しているのは、夢を見ているようなものだろう。
境内で声をあげて遊んでいるというのは、現実との接点のありかたとして、悪くはないと思う。