最近よく聞く『アンチエィジング』という言葉、ある意味きわめて『新品主義』とでもいうべき価値観だと思う。
なんとかして歳をとるのに抵抗し、若いままでいようとする。たまに、『こんなに実年齢はいっているのに、30歳にしか見えないとか、40歳にしかみえないとか』大騒ぎしたり、自分に照らし合わせて一喜一憂している。
私はこどものころ、おとなや老人にあこがれた。とくに白髪の老人はよいものだな、とずっと思っていて、高校生の時、作務衣に毛皮のちゃんちゃんこ、下駄に祖父の杖で、面白がって歩き回っていた。
音楽家も白髪の人はカッコ良いと思った。髪の毛が薄くても、やはり味のある人がいた。これは女性でもそうで、映画のわき役にはたいそうカッコよい初老の人などが出てきた。
若くてはけっして出せない味があり、自分もそういう年寄に早くなりたいと思った。
このごろ、アンチエイジングとやらで若く見える人のなかには、失礼ながら、まったく年輪を重ねた味も深みもない人が見受けられる。要するに『30~40歳の外観、醸し出す雰囲気、喋る内容で、実年齢だけは60歳とか』(笑)。
どうなんでしょうね。走ったり、運動すれば、本物の30~40歳にかなわないだろうし、脇に立てばやはり実年齢30歳よりは老けて見える。話したりしても30~40歳と同じだったら、『失われた30年』なのではないか?(爆)。
私の経験からいって、そういうタイプは意外とあっさり終了する。つまり『完熟せずに枝から落ちてしまう感じ』(爆)。
花が咲くのが短いように、20代の若さはみるみる消えて行く。ところが30~40歳の魅力というのは確実に別種のものとしてある。さらに50~70代までのシブい魅力というのも疑いの余地がない。80~90代というのは中身だけで勝負、存在だけで勝負だろうと言う気がする。
これは一生変化し続ける魅力だろう。なぜ『変化してゆく魅力を止めようとするのか?』。その時期ごとの最良のものを出せればよいのではないか?
私は白髪を染めようと思わない。友人で75を超えて黒々と染めているのがいるが、むしろ痛々しい感じがする。現実、白髪染めはものによってはずいぶん内臓に良くない負担をかける。自然体が一番なのではないか。
逆に20歳、30歳の者が髪を脱色して白髪にしても、初老の魅力は出せない。
『若くみせたい』という気持ちの背景には、2つの、自分でも気がつかない気持ちがあると思う。『異性に対して、自分はまだ若い個体だと思わせてあざむく』気持ち、加齢が遅いので、自分の人生の終了はまだまだ先だと自分を納得させて思いたいがため。
恋も人生も完全燃焼を目指しているなら、そういうことはどうでもいい。『思い残すところがあるから、くすぶる炎が、まだ一打逆転狙うぞ、みたいに若さに執着するのではないか?』
私の家の前は坂道で、土曜日日曜日の朝はロードの連中がトレーニングで登っている。しかし私は毎日仕事だ、買い物だ、母の介護の用意だ、と3~4往復している。トレーニングと言うものを特別にしなくても、日常生活の中に身体を動かくことを組み込んでいれば、体力は衰えない。むしろトレーニングで身体を壊したりする。
今、真剣に考えているのは『仙人みたいな杖を持って歩こうか?』と言うことなのです(爆)。逆に、『あのおじいさんスゴイ』と、オジサン真っただ中から後期オジサンにならんとする者が思わせようという作戦なのです(笑)。ほんとうに80~90になったら難しいことを若いうちに年寄のようにみせてやる(笑)。余力を持って演ずる。
最近、草笛光子さんの本を見た。80歳代のおしゃれを実にカッコ良く決めている(草笛光子のクローゼットというタイトルです)。若い人には決して真似のできない厚みがある。世界的に、こうした中高年がカッコよくあるためのありかたが話題になっている中で、日本でもっぱら『劣化』だとか『アンチエィジング』だとか言われているのが、世界潮流から外れているように見える。
いま書いていて、ふと岸田今日子さんのことを思い出した。若いころはザ・ガードマンなどに出ていて、一風変わった『舞台系・芸術系の性格俳優でした』。それからムーミンの声。岸田さん以外の人の声のムーミンは私には考えられない。そして、最晩年は斬九郎の母親役。あの母親役はじつに良い味を出していた。若いころにはまったくない岸田さんの新境地だった。
人は不死鳥のように、過去の自分を燃やして、次の自分になってゆくのではないか?ジャン・コクトーにそういう詩があった。『蝋燭は泣きながら自分を短くしてゆき、机の中に沈んでゆく。不死鳥は燃えながら自らを新しくしてゆく』。中年以降はこれを心掛けるべきだろう。
Youtubeでぜひ見て欲しいと思う。
御家人斬九郎 第五部 第8話
【ムーミン】スナフキン 名言集【人生訓】
なんとかして歳をとるのに抵抗し、若いままでいようとする。たまに、『こんなに実年齢はいっているのに、30歳にしか見えないとか、40歳にしかみえないとか』大騒ぎしたり、自分に照らし合わせて一喜一憂している。
私はこどものころ、おとなや老人にあこがれた。とくに白髪の老人はよいものだな、とずっと思っていて、高校生の時、作務衣に毛皮のちゃんちゃんこ、下駄に祖父の杖で、面白がって歩き回っていた。
音楽家も白髪の人はカッコ良いと思った。髪の毛が薄くても、やはり味のある人がいた。これは女性でもそうで、映画のわき役にはたいそうカッコよい初老の人などが出てきた。
若くてはけっして出せない味があり、自分もそういう年寄に早くなりたいと思った。
このごろ、アンチエイジングとやらで若く見える人のなかには、失礼ながら、まったく年輪を重ねた味も深みもない人が見受けられる。要するに『30~40歳の外観、醸し出す雰囲気、喋る内容で、実年齢だけは60歳とか』(笑)。
どうなんでしょうね。走ったり、運動すれば、本物の30~40歳にかなわないだろうし、脇に立てばやはり実年齢30歳よりは老けて見える。話したりしても30~40歳と同じだったら、『失われた30年』なのではないか?(爆)。
私の経験からいって、そういうタイプは意外とあっさり終了する。つまり『完熟せずに枝から落ちてしまう感じ』(爆)。
花が咲くのが短いように、20代の若さはみるみる消えて行く。ところが30~40歳の魅力というのは確実に別種のものとしてある。さらに50~70代までのシブい魅力というのも疑いの余地がない。80~90代というのは中身だけで勝負、存在だけで勝負だろうと言う気がする。
これは一生変化し続ける魅力だろう。なぜ『変化してゆく魅力を止めようとするのか?』。その時期ごとの最良のものを出せればよいのではないか?
私は白髪を染めようと思わない。友人で75を超えて黒々と染めているのがいるが、むしろ痛々しい感じがする。現実、白髪染めはものによってはずいぶん内臓に良くない負担をかける。自然体が一番なのではないか。
逆に20歳、30歳の者が髪を脱色して白髪にしても、初老の魅力は出せない。
『若くみせたい』という気持ちの背景には、2つの、自分でも気がつかない気持ちがあると思う。『異性に対して、自分はまだ若い個体だと思わせてあざむく』気持ち、加齢が遅いので、自分の人生の終了はまだまだ先だと自分を納得させて思いたいがため。
恋も人生も完全燃焼を目指しているなら、そういうことはどうでもいい。『思い残すところがあるから、くすぶる炎が、まだ一打逆転狙うぞ、みたいに若さに執着するのではないか?』
私の家の前は坂道で、土曜日日曜日の朝はロードの連中がトレーニングで登っている。しかし私は毎日仕事だ、買い物だ、母の介護の用意だ、と3~4往復している。トレーニングと言うものを特別にしなくても、日常生活の中に身体を動かくことを組み込んでいれば、体力は衰えない。むしろトレーニングで身体を壊したりする。
今、真剣に考えているのは『仙人みたいな杖を持って歩こうか?』と言うことなのです(爆)。逆に、『あのおじいさんスゴイ』と、オジサン真っただ中から後期オジサンにならんとする者が思わせようという作戦なのです(笑)。ほんとうに80~90になったら難しいことを若いうちに年寄のようにみせてやる(笑)。余力を持って演ずる。
最近、草笛光子さんの本を見た。80歳代のおしゃれを実にカッコ良く決めている(草笛光子のクローゼットというタイトルです)。若い人には決して真似のできない厚みがある。世界的に、こうした中高年がカッコよくあるためのありかたが話題になっている中で、日本でもっぱら『劣化』だとか『アンチエィジング』だとか言われているのが、世界潮流から外れているように見える。
いま書いていて、ふと岸田今日子さんのことを思い出した。若いころはザ・ガードマンなどに出ていて、一風変わった『舞台系・芸術系の性格俳優でした』。それからムーミンの声。岸田さん以外の人の声のムーミンは私には考えられない。そして、最晩年は斬九郎の母親役。あの母親役はじつに良い味を出していた。若いころにはまったくない岸田さんの新境地だった。
人は不死鳥のように、過去の自分を燃やして、次の自分になってゆくのではないか?ジャン・コクトーにそういう詩があった。『蝋燭は泣きながら自分を短くしてゆき、机の中に沈んでゆく。不死鳥は燃えながら自らを新しくしてゆく』。中年以降はこれを心掛けるべきだろう。
Youtubeでぜひ見て欲しいと思う。
御家人斬九郎 第五部 第8話
【ムーミン】スナフキン 名言集【人生訓】