この15年ぐらい、やたらと言われる「ものづくり」ですが、私はどこか違和感がある。
『ほんとうはものをつくること』の意味がわかっていない人たちが、『達人』だとか『名人』だとかのブランドの流行りに振り回され、しかも、『みんなが流通の過程でのピンハネ屋になろうとした結果』、一切ものをつくらず、物を右から左に動かしているだけで巨利を得る、流通屋ばかりになった裏返しだろうと思う。
A社のものもB社のものも実は同じもの。どこかで作らせてマークだけ替える。そうした、実体のないものづくりがおかしいと感じての『ものづくり』が言われるようになった。これは自動車までもがそうなった。
さて、そのつくるということですが、『ものはこころによって作られる』。20世紀の哲学者ジャン・ポール・サルトルは神の非存在を論証しようとした時に、この論理を引っ張り出していた。こころのなかに浮かばない物を作るのは不可能なのだ。イメージ無くぼんやりとしたものを作ったなら、イメージ無くぼんやりとしたものを思い浮かべたということになる。
普通にイメージして作っていたら、自分の持っているイメージの90%とか93%とか、あるいは71%とか、そういう風に仕上がる。
ところが古今東西のすごい職人とか芸術家は、何かのはずみに103%とか105%とかのものが出来ることを知っていた。自分の限界を超えるものが出来る時。
昔の人たちは、なんとか、そういう状態がコンスタントに起こせないものか?必死に考えていた。
人間というのは一度見たものはほんとうは忘れていない。意識の部分から消えただけで、じつは『無意識』という深海の底に沈んで行っている。陶芸家の浜田庄司が、『貴方のお皿はなんでそんなに高価なのですか?釉をかけるところはほんの5秒ではありませんか』と訊かれ、『こういうものが作れるようになるというのは、じつは50年と5秒かかっているのです』(何十年と言ったかうろ覚えです)と答えていた。
そうした力は『意識にあがっているところだけを使っていては103%、105%のちからは出ない』、自分でも気がついていない無意識に沈んでいる記憶や経験などを総動員しないとできない。
しかも、その無意識の部分では、『問題解決をしようと考えていたことが、自分でも気がつかないうちに解決されている場合が多い』。数学の証明問題や物理の問題などが、朝起きた時に宿題のとけなかったところがパッと閃くのも、そういう理由による。
パソコンのスイッチを切っても、スイッチを入れて立ち上げれば、すべての設定は残っているのと同じで、眠った後で起きても、昔のことは忘れない。しかも、問題を解いていてさえするのだ。これはコンピューターやAIには出来ないだろう。果物が果実酒に発酵するように、頭の中の想念も変成する。
仏教ではこれを『異熟一切種』と言ったりする。それをうまくこころのなかで行って、『世間的な能力を超えて問題解決をはかる』わけだ。そこで、『こういうことを実現したい』とか『これを成し遂げたい』ということがあれば、その『熟するためのよい種を心の奥底へ入れてやる』。
また、それがうまく育つためには深層の部分を清め、育ちやすく、無意識の自分の中の深海のちからを最大限にしてやる必要がある。それは必ず芽を吹き実現する。『即唯識實性』とか『意識常現起』などと奈良時代に日本へ来たお経に書いてある。
音楽家が間違えずに次から次へと正しい音を出してゆき、間違えないのはなぜか?考えて音をひろっていたら音楽がとぎれとぎれで連続しない。そこでさらに人の背中に震えがくるような演奏をするためには、『意識の部分だけで仕事をしていてはうまくゆかない』。考えずにできる無意識の力を使うことが絶対に必要だ。これは絵を描くのでも物を作るのでも同じだ。
海面の部分だけでなく、海の中の巨大な渦のようなちからを引き出せるのが真の芸術家になるわけで、それをいかにコントロールして、コンスタントに行えるかが一流と2流の差だろう。一流の芸術家や職人はそれだけを考えている人たちなわけで、彼らの気難しさはそこから来る。
自分でものを創造したり作ったり演奏したりと言うことのない人は、それが『書類をチェックして、ハンコを押す』ような、潜在意識の力を借りて105%の力を出さずとも、機械的な作業でできると、芸術関係や職人仕事をみて、判断しがちだ。
かつては、刀匠をはじめとして、日本では『作業中は一切、家族と言えども仕事をしているところはみせない』ものだった。作っているところを見られた刀は捨てて、ゼロからやり直し。これは織物などでもそうで、『織っているところを見られた鶴は飛んで行ってしまう』昔話は誰でも知っている。しかし、その背景にある物づくりの思想は言われたことがない。
制作の最中に電話がかかってきたら、家人に呼ばれたら、それで緊張の糸が切れる。たとえば、法事の読経の最中に飛脚やしろねこが『お届け物で~~す』とやってきて和尚の読経が中断されたらどうか?(爆)。あるいは讃美歌が途中でとめられて『途中ですが交通情報です。やまなで線外回りは、くろばね駅近くでの人身事故の関係で、、、』とやられたらどうか?(爆)
現代日本というのは、すべての面でそうなってきている。
うちのフレームを塗ってもらっている塗師は熱心な神道の人で、刀匠のように神棚に手を合わせることからはじめている。私も朝4時には起きて江戸中期の佛尊の掛け軸を掛けて香を焚き読経。これは『ものがつくられる』ということは、こころのうつしができるということから、邪なものが入り込まないようにという前準備。たぶん、これが日本の職人たちの強さのみなもとなのだ。私はあまりにムシャクシャしている時とかは、一切の作業をとめる。
イタリアあたりでは、ジロ・ディタリアの出走前に、1970年ごろまでは、法王が選手たちに祝福を与えていたが、フレームビルダーがフレーム制作にとりかかるまえにキリエ・エレイソンを唱えてから作り始めるとかいうのは聞いたことがない。しかし、たぶん、ルネッサンス期にはやっていたのではないか?ギルドによって守護聖人が決まっていましたから。
ステンドグラスの職人に徒弟で働いていたことのあるジョルジュ・ルオーは、文章でも絵画でも、ミゼレーレと唱えつつやっていた様子が見える。彼は『絵画の転売屋から自分の絵を取り返し、ガンガン火にくべて燃やしている記録フィルムを残している。
そういう背景がないところでは、『人間のあたまでひねくったところから抜け出た傑作は作れない』。日本の古いもので、『限界を超えたようなすごい技のものがある』のはそういう点で世界の中でも恵まれた文化背景だったと私は考える。
しかし、現代では、しだいにそういうものは薄れ、普通の開発、製作物になってゆくように思えてならない。
『ほんとうはものをつくること』の意味がわかっていない人たちが、『達人』だとか『名人』だとかのブランドの流行りに振り回され、しかも、『みんなが流通の過程でのピンハネ屋になろうとした結果』、一切ものをつくらず、物を右から左に動かしているだけで巨利を得る、流通屋ばかりになった裏返しだろうと思う。
A社のものもB社のものも実は同じもの。どこかで作らせてマークだけ替える。そうした、実体のないものづくりがおかしいと感じての『ものづくり』が言われるようになった。これは自動車までもがそうなった。
さて、そのつくるということですが、『ものはこころによって作られる』。20世紀の哲学者ジャン・ポール・サルトルは神の非存在を論証しようとした時に、この論理を引っ張り出していた。こころのなかに浮かばない物を作るのは不可能なのだ。イメージ無くぼんやりとしたものを作ったなら、イメージ無くぼんやりとしたものを思い浮かべたということになる。
普通にイメージして作っていたら、自分の持っているイメージの90%とか93%とか、あるいは71%とか、そういう風に仕上がる。
ところが古今東西のすごい職人とか芸術家は、何かのはずみに103%とか105%とかのものが出来ることを知っていた。自分の限界を超えるものが出来る時。
昔の人たちは、なんとか、そういう状態がコンスタントに起こせないものか?必死に考えていた。
人間というのは一度見たものはほんとうは忘れていない。意識の部分から消えただけで、じつは『無意識』という深海の底に沈んで行っている。陶芸家の浜田庄司が、『貴方のお皿はなんでそんなに高価なのですか?釉をかけるところはほんの5秒ではありませんか』と訊かれ、『こういうものが作れるようになるというのは、じつは50年と5秒かかっているのです』(何十年と言ったかうろ覚えです)と答えていた。
そうした力は『意識にあがっているところだけを使っていては103%、105%のちからは出ない』、自分でも気がついていない無意識に沈んでいる記憶や経験などを総動員しないとできない。
しかも、その無意識の部分では、『問題解決をしようと考えていたことが、自分でも気がつかないうちに解決されている場合が多い』。数学の証明問題や物理の問題などが、朝起きた時に宿題のとけなかったところがパッと閃くのも、そういう理由による。
パソコンのスイッチを切っても、スイッチを入れて立ち上げれば、すべての設定は残っているのと同じで、眠った後で起きても、昔のことは忘れない。しかも、問題を解いていてさえするのだ。これはコンピューターやAIには出来ないだろう。果物が果実酒に発酵するように、頭の中の想念も変成する。
仏教ではこれを『異熟一切種』と言ったりする。それをうまくこころのなかで行って、『世間的な能力を超えて問題解決をはかる』わけだ。そこで、『こういうことを実現したい』とか『これを成し遂げたい』ということがあれば、その『熟するためのよい種を心の奥底へ入れてやる』。
また、それがうまく育つためには深層の部分を清め、育ちやすく、無意識の自分の中の深海のちからを最大限にしてやる必要がある。それは必ず芽を吹き実現する。『即唯識實性』とか『意識常現起』などと奈良時代に日本へ来たお経に書いてある。
音楽家が間違えずに次から次へと正しい音を出してゆき、間違えないのはなぜか?考えて音をひろっていたら音楽がとぎれとぎれで連続しない。そこでさらに人の背中に震えがくるような演奏をするためには、『意識の部分だけで仕事をしていてはうまくゆかない』。考えずにできる無意識の力を使うことが絶対に必要だ。これは絵を描くのでも物を作るのでも同じだ。
海面の部分だけでなく、海の中の巨大な渦のようなちからを引き出せるのが真の芸術家になるわけで、それをいかにコントロールして、コンスタントに行えるかが一流と2流の差だろう。一流の芸術家や職人はそれだけを考えている人たちなわけで、彼らの気難しさはそこから来る。
自分でものを創造したり作ったり演奏したりと言うことのない人は、それが『書類をチェックして、ハンコを押す』ような、潜在意識の力を借りて105%の力を出さずとも、機械的な作業でできると、芸術関係や職人仕事をみて、判断しがちだ。
かつては、刀匠をはじめとして、日本では『作業中は一切、家族と言えども仕事をしているところはみせない』ものだった。作っているところを見られた刀は捨てて、ゼロからやり直し。これは織物などでもそうで、『織っているところを見られた鶴は飛んで行ってしまう』昔話は誰でも知っている。しかし、その背景にある物づくりの思想は言われたことがない。
制作の最中に電話がかかってきたら、家人に呼ばれたら、それで緊張の糸が切れる。たとえば、法事の読経の最中に飛脚やしろねこが『お届け物で~~す』とやってきて和尚の読経が中断されたらどうか?(爆)。あるいは讃美歌が途中でとめられて『途中ですが交通情報です。やまなで線外回りは、くろばね駅近くでの人身事故の関係で、、、』とやられたらどうか?(爆)
現代日本というのは、すべての面でそうなってきている。
うちのフレームを塗ってもらっている塗師は熱心な神道の人で、刀匠のように神棚に手を合わせることからはじめている。私も朝4時には起きて江戸中期の佛尊の掛け軸を掛けて香を焚き読経。これは『ものがつくられる』ということは、こころのうつしができるということから、邪なものが入り込まないようにという前準備。たぶん、これが日本の職人たちの強さのみなもとなのだ。私はあまりにムシャクシャしている時とかは、一切の作業をとめる。
イタリアあたりでは、ジロ・ディタリアの出走前に、1970年ごろまでは、法王が選手たちに祝福を与えていたが、フレームビルダーがフレーム制作にとりかかるまえにキリエ・エレイソンを唱えてから作り始めるとかいうのは聞いたことがない。しかし、たぶん、ルネッサンス期にはやっていたのではないか?ギルドによって守護聖人が決まっていましたから。
ステンドグラスの職人に徒弟で働いていたことのあるジョルジュ・ルオーは、文章でも絵画でも、ミゼレーレと唱えつつやっていた様子が見える。彼は『絵画の転売屋から自分の絵を取り返し、ガンガン火にくべて燃やしている記録フィルムを残している。
そういう背景がないところでは、『人間のあたまでひねくったところから抜け出た傑作は作れない』。日本の古いもので、『限界を超えたようなすごい技のものがある』のはそういう点で世界の中でも恵まれた文化背景だったと私は考える。
しかし、現代では、しだいにそういうものは薄れ、普通の開発、製作物になってゆくように思えてならない。