何でもかんでも『劣化』というのが流行りのようである。
私などは、むしろ、『もし経年で劣化するなら、日本は江戸時代よりずいぶん劣化したのかもしれない』などと考えたりする。
ペリーが日本へ来た時、虐待されているこどもも、年寄りをいたわらない若者もいない、ということを驚きの目を持って語っている。これはもっと古い時代、フランシスコ・ザビエルやフロイスも『日本には西洋的な意味での貧困は存在しない。そういう悲惨な人を一人も見ていない。汚れた姿の路上のこどもたちも陽気で笑顔が絶えない』と日記に書いている。
それがいまやこどもをSEKKANしてKOROしたり、親をKOROしたりというのは3日に1度はニュースに出ている。これを劣化と言わずに何と言うのか?
さて、先日、自転車の仲間が自分の自転車を『レストアに出す』というのを聞いた。ネジ一本からすべてのメッキ部品を再メッキするのだという。その車両、作ってから10年ほどです。『そうやってキレイにして置けば、あと10年は乗れるかなと思って』というので、私は返す言葉がなかった。
『キレイに再メッキして、再塗装すること』と『調子よく壊れずに走ること』はイコールではない。
逆に、再塗装するということは、わずか0.6mmの厚さのフレーム・チューブのフレームを、鉄もサビも溶かす酸で洗い、200℃ぐらいでまた何度か焼くわけです。私は塗り替えの時には、上の皮一枚耐水ペーパーでといで、上に層をかけ足したりします。剥離と酸洗いはしない。
再メッキのよくないことは何度もこのブログで書きましたので、何度も書かない。『メッキはイオン交換なので、メッキの最中に、金属中の炭素がみんな引っ張り出されて、金属の炭素含有量が10%以上減る』。
クロモリとハイテンション・スチールと生鉄の何が違うかと言えば、炭素含有量が違う。炭素が増えて、固くなるともろくなるので、粘りのあるマンガンとかクローム、モリブデンを配合するわけです。
それが炭素が抜けてしまう。しかもだいたいネジ類を再メッキすると『やせる』。つまりユルユルになる。やったことがある方はご存じでしょう。しかも、ブツブツ小さい穴(ピットと言いますが9ができる。これは再メッキでは避けられない。つまりネジ類は引っ張り強度が弱く、ネジが痩せ、表面にピットが出来るので、摩擦の具合もよろしくなく緩みやすくもなる。
キャリアなども、再メッキで『指で曲がるぐらいになったのを見たことがある』。
『あと10年』という意味が私にはよくわからない。
物は使えば必ず経年変化する。萩焼なども『七化け』などといって、どんどん使ううちに変化する。昔の日本人は、そういう『使ううちに変化してゆく様子を楽しんだ』。
今は『変化したら捨てる』らしい。これは女優などでも『劣化した』などとネットで騒いでファンを辞める人がいるようだ。私には信じられない。
うちで使っている焼き物は、だいたい5客セットなのだが、普通は2つぐらいしか使わない。そうすると、いつも自分で使っているものにはどんどん味と貫禄、風格がついてくる。粉引きの白い汲み出しや、『雨漏り』の出た萩なども、このペースであと100年使ったらたいした味わいになるだろうな、と思う。残念ながらわたしはそこまで生きないので、見ることは出来ないが、その姿は想像することは出来る。
骨董の世界では『育てる』とか『育つ』とかいうが、私の粉引きの汲み出しも私のところに来てから2年半ぐらい。お湯を入れると、最初はお湯を注ぐたびに「ピシっ」と音がしていた。それが1年ぐらいで安定してしなくなり、全体に抽象画のようなニュウが入った。萩焼のほうも、同じです。こちらは雪雲の出た冬山のようになってきた。
そのあいだ、『汚くならないように、丁寧に使い続ける』。
そろそろ、自分の生活の分身といってもよい。本来、自転車などもそのように貫録を付けるはずのもので、それがいつまで経っても新品同様というのは、『レースもサイクル・ツーリングもしない人なのではないか?』と私には見えてしまう。
歴戦のつわもの、というのはものにも人にもある。その貫禄の前では『新品同様』ほど軽薄に見えるものはない。
使えば使うほど凄みを増してくるものが本物だろう。