私はどちらかというと「ひとつのライフスタイルの全体像」を掴みたく思うところがあるので、たとえば、1920年代の自転車に乗るとなったら、1920年代の小物や家具なども興味が出てくる。
それが1930年代になると、もう小物も違えば家具も違う。ファッションも違う。これはさかのぼっても同じで1900~1915年のものはまたちがいます。
それをごちゃまぜにするのはきわめてうるさくて雑然とした感じに私には見える。
また、当時の『格』というものもある。1930年代のあっさりした『実用あじ』の自転車だったら、高級なツィードすらすでに『過ぎたるもの』に私には見える。ワーキングクラスの着ていたような、もっと実用的なジャケットの方が似あう。
これは、例えば、喫煙者であれば、『革の葉巻入れか、ベークライトの葉巻入れか、それとも一本入れのチューブか』という話なのです。
懐中時計も、王族級のデント、ベンネットから、将校用のジャガールクルト、海軍系やヨットマンのナルダン、一般軍人用のレオニダス、など小物にも背景がある。
私は3種類ぐらいの、トータル・バランスで完結させたセットを持っていますが、逆にいうとそれほど数は持たない。
高級なものをもてばよいと云うものでもない。このあいだ、『R&Fさんはどういうクラシックカーを今なら買いますか?』と訊かれて、『そうねぇ。オースチン・セヴンのメタルトップのサルーンとかローヴァ―P2ぐらいでいいな』と答えた。そのぐらいのほうが手間もかからず、しまつもよく、楽しさは天文学的な価格の車両とさして変わらない。自分で何から何まですべてできる。
むしろ、英国的な音のする18世紀のブラケット・クロックを持つ方が重要だと考えている。
自分で自分の乗る車両をフレームから作るようになって、そのあたりの『トータル』な引き締めも自分の中でゆるくなった。車両が今作っている自分のものなのだから、小物類の自由度もきくようになった。
今は、ジャケットも日本で作ったものをけっこう着ている。
意外なことに、珈琲カップは、いまうちにあるものはすべて日本製になった。紅茶のカップも1種類だけ英国製のどれよりも気に入っているのがある。ポットだけは日本製ではリプレイス出来ない。珈琲も紅茶も。
私のところへ来る関係者で、自転車の部品は、レアなものは必ず押さえて買う人がいる。しかし、その人は自転車と部品だけなのです。たぶんそういう人は、一生クラシックな自転車の本質が見えないだろう。
日本の建売住宅の1階から3階まで所狭しと自転車と部品を置き、その大半がヨーロッパの自転車と部品で、英国のアームチェアがあるわけでも、フランス枕の時計が置いてあるわけでも、庶民的な英国のマントル・クロックがあるわけでも、英国の1910~1950年代の洒落たポスターがガレージに貼ってあるわけでもない。
ただ、レアな自慢ネタとしての車両だけが、床の間のような場所に安置されている。
こういう人は自転車からバイク、自動車までものすごく多い。そういう人は、その持ち物をうらやましいと思わない私のような人間が苦手な人が多い(笑)。
私が『英国式』をやっているのは、昔、英国に住んでいて、第二の故郷だからで、英国へ行ったことも無ければ、英語も話せない人が、車両から着るものまで英国式にしてどうする?と私などは思う。
『車両を楽しむのだから、それ以外のものは必要ない』という言説は私は信用しません。
その時代のものを正しく使うには、その時代の工具が必要です。その背景を知らないといけないので、その時代の雑誌や書籍も欲しい。それをたまにひもときながら読むために、その同時代の良い椅子も欲しい。その椅子に座って、車両を眺め、珈琲の一杯も飲みたいなら、同時代のテーブルが良いだろう。
喫煙者なら、そこで火を点けるパイプも、その灰皿も、ライターも、すべてその車両とマッチした空気を感じさせるものが欲しくなって当然だ。
その空間で「やかましい午後ラジですか?」あるいは「アメリカ英語の進駐軍放送」ですか?
ふさわしい音楽を鳴らす設備がいる。その時、1910~1950年代の音楽の音源が、CDやコンピュータ上のものにはない。どうしてもSPやLPが必要なのです。そうすると音響設備も凝ってみたくなる。
深く味わうにはトータルにならざるを得ない。
だから私はイヌが骨を集めるようにひたすら部品を集めたり、車両を集めるだけの人に共感しない。また、最高級のものを床の間に安置しているのにも共感しない。たぶん、それはほんとうの芸術を知らない人がすることだと思う。
『ファッションの流行をありがたがっている人たちは、本物の芸術の一撃を頭に喰らうべきだわ』ココ・シャネル
それが1930年代になると、もう小物も違えば家具も違う。ファッションも違う。これはさかのぼっても同じで1900~1915年のものはまたちがいます。
それをごちゃまぜにするのはきわめてうるさくて雑然とした感じに私には見える。
また、当時の『格』というものもある。1930年代のあっさりした『実用あじ』の自転車だったら、高級なツィードすらすでに『過ぎたるもの』に私には見える。ワーキングクラスの着ていたような、もっと実用的なジャケットの方が似あう。
これは、例えば、喫煙者であれば、『革の葉巻入れか、ベークライトの葉巻入れか、それとも一本入れのチューブか』という話なのです。
懐中時計も、王族級のデント、ベンネットから、将校用のジャガールクルト、海軍系やヨットマンのナルダン、一般軍人用のレオニダス、など小物にも背景がある。
私は3種類ぐらいの、トータル・バランスで完結させたセットを持っていますが、逆にいうとそれほど数は持たない。
高級なものをもてばよいと云うものでもない。このあいだ、『R&Fさんはどういうクラシックカーを今なら買いますか?』と訊かれて、『そうねぇ。オースチン・セヴンのメタルトップのサルーンとかローヴァ―P2ぐらいでいいな』と答えた。そのぐらいのほうが手間もかからず、しまつもよく、楽しさは天文学的な価格の車両とさして変わらない。自分で何から何まですべてできる。
むしろ、英国的な音のする18世紀のブラケット・クロックを持つ方が重要だと考えている。
自分で自分の乗る車両をフレームから作るようになって、そのあたりの『トータル』な引き締めも自分の中でゆるくなった。車両が今作っている自分のものなのだから、小物類の自由度もきくようになった。
今は、ジャケットも日本で作ったものをけっこう着ている。
意外なことに、珈琲カップは、いまうちにあるものはすべて日本製になった。紅茶のカップも1種類だけ英国製のどれよりも気に入っているのがある。ポットだけは日本製ではリプレイス出来ない。珈琲も紅茶も。
私のところへ来る関係者で、自転車の部品は、レアなものは必ず押さえて買う人がいる。しかし、その人は自転車と部品だけなのです。たぶんそういう人は、一生クラシックな自転車の本質が見えないだろう。
日本の建売住宅の1階から3階まで所狭しと自転車と部品を置き、その大半がヨーロッパの自転車と部品で、英国のアームチェアがあるわけでも、フランス枕の時計が置いてあるわけでも、庶民的な英国のマントル・クロックがあるわけでも、英国の1910~1950年代の洒落たポスターがガレージに貼ってあるわけでもない。
ただ、レアな自慢ネタとしての車両だけが、床の間のような場所に安置されている。
こういう人は自転車からバイク、自動車までものすごく多い。そういう人は、その持ち物をうらやましいと思わない私のような人間が苦手な人が多い(笑)。
私が『英国式』をやっているのは、昔、英国に住んでいて、第二の故郷だからで、英国へ行ったことも無ければ、英語も話せない人が、車両から着るものまで英国式にしてどうする?と私などは思う。
『車両を楽しむのだから、それ以外のものは必要ない』という言説は私は信用しません。
その時代のものを正しく使うには、その時代の工具が必要です。その背景を知らないといけないので、その時代の雑誌や書籍も欲しい。それをたまにひもときながら読むために、その同時代の良い椅子も欲しい。その椅子に座って、車両を眺め、珈琲の一杯も飲みたいなら、同時代のテーブルが良いだろう。
喫煙者なら、そこで火を点けるパイプも、その灰皿も、ライターも、すべてその車両とマッチした空気を感じさせるものが欲しくなって当然だ。
その空間で「やかましい午後ラジですか?」あるいは「アメリカ英語の進駐軍放送」ですか?
ふさわしい音楽を鳴らす設備がいる。その時、1910~1950年代の音楽の音源が、CDやコンピュータ上のものにはない。どうしてもSPやLPが必要なのです。そうすると音響設備も凝ってみたくなる。
深く味わうにはトータルにならざるを得ない。
だから私はイヌが骨を集めるようにひたすら部品を集めたり、車両を集めるだけの人に共感しない。また、最高級のものを床の間に安置しているのにも共感しない。たぶん、それはほんとうの芸術を知らない人がすることだと思う。
『ファッションの流行をありがたがっている人たちは、本物の芸術の一撃を頭に喰らうべきだわ』ココ・シャネル