中学生の頃、世界美術全集をみて、『初期のクレタ・ミノア文明と初期ギリシャ文明はすごくよいが、ローマ時代とビザンチンはキンピカでおどろおどろしくて嫌だな』と思った。
ローマ時代のものは『うにょうにょとして複雑でデザインがくどいものが少なくない』、『ビザンチンは絵は下手クソだし、神がかったおどろおどろしさ、金属細工などはREY-九-車に通じるキンピカのいやらしさがある』と思った。
この印象は今でもあまり変わっていない。
何百年もなんだか鬱陶しい時代が続いたというのが、美術作品からわかる。
日曜日に友人と物の受け渡しがあって、下北沢を抜けて歩いた。なんでもいまや、一か月の家賃が150万円のところもあるらしく、中小の企業や若者ではもはや出店できないらしい。撤退も相次いでいる。
見ると不思議な光景だと思った。昔は白髪頭の店主がいる古本屋が四軒ほどあったが、すべて消滅した。『昭和の山の手住宅街の風情を色濃く残したジャズ喫茶なども消滅していた』。才気堂という画材屋があって、岡本太郎なども買いに来ていたのだが、駅前再開発でなくなってしまったらしい。『名人スポーツ』というキャンプや登山用品の店もなくなった。あそこはコフラックやドロミテのハイキングシューズとか、けっこう普通の流通にのらない、気の利いたヨーロッパの用品が置いてあった。
スコップで『おのろけ豆』とか『ラムネ』、『英字ビスケット』をしゃくって入れてくれたりする菓子屋があったのもなくなった。昭和レトロな品揃えの月天さんもなくなった。リサイクル屋さんすらもなくなっていた。
私が『ああ、下北沢は一味違う』と思ったもののほとんどがなくなっている。携帯電話屋とハンバーガー屋、マエストロ・ドーナツ、雨戸屋、など、どこにでもある店ばかりが表通りに軒を連ねる。
商店街に瀬戸物屋、魚屋、揚げ物屋、煮物屋、豆腐屋、文房具屋、レコード屋、こどもたちのための店などが見当たらない。普通にありそうな店が日本中のあちこちの商店街から消えている。
私は西暦2千年からあとは、『ニッポンどこでも金太郎飴の均質化された文化』になったと思う。Kay-Oh電鉄のどこの駅ビルへ入ってもテナントの店はほとんど同じだ。とんかつの『針手草』、寿司の『経多留』、『おこわの世根八』、『サラダの16分の5』とか、ケーキの『スージー・コーゾー』とか(爆)。
そういうところはますます大きい企業になる。
ちいさいところがなくなるということは、大きいところにしか働き口がなくなるということだ。そうした日々の生活の中で、何を趣味にして、何にお金を使うか?というのも均質化し、消費行動も人生の構成も似たり寄ったりになる。選択肢のない画一化された人生。
ファーストフードの肉になる動物たちは、たぶん一匹残らずある一定のサイズになるまで同じような生き方で育てられ、ある日突然、『えっ?何が起こるの?』と言いながら、わけもわからず肉にされるに違いない。
現代の先、近未来の世界が用意している人生と言うのは、それに近くはないか?
誰がオートメーションを動かしているのか?AIでしょう。社会があまりに均質化して巨大化すると、もはや一個人にはどうすることもできない。長年『分散することを理想としてきた権力は、恐ろしいまでに一握りの人たちに集中し、地球上どこへ行っても逃げ場がない』。
お隣の国のドローンには火炎放射器が付いているのを見た。あれにやられたら防御の手立てがない。病米利加では犬型のロボットがすでに軍によって試されている。ケブラーの防弾の表皮をまとって、小型の麻酔銃とかを装着すれば、どんな反乱者も、機械のドーベルマンによって麻酔で生け捕りかガスで安楽SHI.
核科学のほうの状態もよろしくない。ネヴイル・シュートのSF小説『渚にて』では、人類が核戦争の果てに滅びる話が書かれている。かつて、フレッド・アステアとかグレゴリー・ペックなどのオールスターで映画化されたことがあった。これは滅びて行く様子を淡々と描いていて、出だしはいともあっさりしている小説です。数千発の核弾頭が炸裂して、北半球が汚染されて壊滅するという設定で、唯一残されたオーストラリアにも、大気循環で、刻一刻と破滅が迫っているというストーリー。最後は誰もいなくなる。
その小説の出だしは、『誰が最初の一発を発射したかわからない』という設定です。それが引き金になって、電子頭脳の自動応酬装置が働いて、すべてを撃ち尽くす。この恐ろしい空想が、半世紀たって、かなり現実味を帯びてきたように見える。
私の英国の家には古い大きいポスターが入り口に貼ってあって、そこにはエリザベス女王陛下の伯父上のロード・マウントバッテン伯爵がサーベルを持って、軍服姿で立っている写真が使われていた。そこに伯爵の一言が印刷されていて『私の長年の軍人としての経験と知識から言わせてもらおう。核兵器を使った戦争に勝者はいないのだ。』という文章が印刷されていた。
それから数十年、世界はどうしようもないサチュレィション・ポイントに向かっていると思う。
ローマ時代のものは『うにょうにょとして複雑でデザインがくどいものが少なくない』、『ビザンチンは絵は下手クソだし、神がかったおどろおどろしさ、金属細工などはREY-九-車に通じるキンピカのいやらしさがある』と思った。
この印象は今でもあまり変わっていない。
何百年もなんだか鬱陶しい時代が続いたというのが、美術作品からわかる。
日曜日に友人と物の受け渡しがあって、下北沢を抜けて歩いた。なんでもいまや、一か月の家賃が150万円のところもあるらしく、中小の企業や若者ではもはや出店できないらしい。撤退も相次いでいる。
見ると不思議な光景だと思った。昔は白髪頭の店主がいる古本屋が四軒ほどあったが、すべて消滅した。『昭和の山の手住宅街の風情を色濃く残したジャズ喫茶なども消滅していた』。才気堂という画材屋があって、岡本太郎なども買いに来ていたのだが、駅前再開発でなくなってしまったらしい。『名人スポーツ』というキャンプや登山用品の店もなくなった。あそこはコフラックやドロミテのハイキングシューズとか、けっこう普通の流通にのらない、気の利いたヨーロッパの用品が置いてあった。
スコップで『おのろけ豆』とか『ラムネ』、『英字ビスケット』をしゃくって入れてくれたりする菓子屋があったのもなくなった。昭和レトロな品揃えの月天さんもなくなった。リサイクル屋さんすらもなくなっていた。
私が『ああ、下北沢は一味違う』と思ったもののほとんどがなくなっている。携帯電話屋とハンバーガー屋、マエストロ・ドーナツ、雨戸屋、など、どこにでもある店ばかりが表通りに軒を連ねる。
商店街に瀬戸物屋、魚屋、揚げ物屋、煮物屋、豆腐屋、文房具屋、レコード屋、こどもたちのための店などが見当たらない。普通にありそうな店が日本中のあちこちの商店街から消えている。
私は西暦2千年からあとは、『ニッポンどこでも金太郎飴の均質化された文化』になったと思う。Kay-Oh電鉄のどこの駅ビルへ入ってもテナントの店はほとんど同じだ。とんかつの『針手草』、寿司の『経多留』、『おこわの世根八』、『サラダの16分の5』とか、ケーキの『スージー・コーゾー』とか(爆)。
そういうところはますます大きい企業になる。
ちいさいところがなくなるということは、大きいところにしか働き口がなくなるということだ。そうした日々の生活の中で、何を趣味にして、何にお金を使うか?というのも均質化し、消費行動も人生の構成も似たり寄ったりになる。選択肢のない画一化された人生。
ファーストフードの肉になる動物たちは、たぶん一匹残らずある一定のサイズになるまで同じような生き方で育てられ、ある日突然、『えっ?何が起こるの?』と言いながら、わけもわからず肉にされるに違いない。
現代の先、近未来の世界が用意している人生と言うのは、それに近くはないか?
誰がオートメーションを動かしているのか?AIでしょう。社会があまりに均質化して巨大化すると、もはや一個人にはどうすることもできない。長年『分散することを理想としてきた権力は、恐ろしいまでに一握りの人たちに集中し、地球上どこへ行っても逃げ場がない』。
お隣の国のドローンには火炎放射器が付いているのを見た。あれにやられたら防御の手立てがない。病米利加では犬型のロボットがすでに軍によって試されている。ケブラーの防弾の表皮をまとって、小型の麻酔銃とかを装着すれば、どんな反乱者も、機械のドーベルマンによって麻酔で生け捕りかガスで安楽SHI.
核科学のほうの状態もよろしくない。ネヴイル・シュートのSF小説『渚にて』では、人類が核戦争の果てに滅びる話が書かれている。かつて、フレッド・アステアとかグレゴリー・ペックなどのオールスターで映画化されたことがあった。これは滅びて行く様子を淡々と描いていて、出だしはいともあっさりしている小説です。数千発の核弾頭が炸裂して、北半球が汚染されて壊滅するという設定で、唯一残されたオーストラリアにも、大気循環で、刻一刻と破滅が迫っているというストーリー。最後は誰もいなくなる。
その小説の出だしは、『誰が最初の一発を発射したかわからない』という設定です。それが引き金になって、電子頭脳の自動応酬装置が働いて、すべてを撃ち尽くす。この恐ろしい空想が、半世紀たって、かなり現実味を帯びてきたように見える。
私の英国の家には古い大きいポスターが入り口に貼ってあって、そこにはエリザベス女王陛下の伯父上のロード・マウントバッテン伯爵がサーベルを持って、軍服姿で立っている写真が使われていた。そこに伯爵の一言が印刷されていて『私の長年の軍人としての経験と知識から言わせてもらおう。核兵器を使った戦争に勝者はいないのだ。』という文章が印刷されていた。
それから数十年、世界はどうしようもないサチュレィション・ポイントに向かっていると思う。