いまだに感覚が思い出されるのですが、小学生の頃、ある種の切手にはげしく反応していたのを思い出します。どういう切手かと言うとエッチングのような古建築や石の橋などの絵の切手、それとアンリ・ルソーのようなジャングルの絵でした。
いまはあまり小学生が切手集めをするという話を聞きませんが、私の時代にはけっこういた。思い出すのは、『切手集めの優等生』がいて、彼らは小学生ながら『相場の書いてある本を持っていた』。マニュアルです。また切手専用のピンセットを持っていた。多くの場合、そういうこどもは『交換の時損をしないように』、こどもの間で切手交換をする時に、必ずマニュアルを調べていたのを思い出す。
私には、その『マニュアル』がなかったこともあって、ただ見たことがない物、欲しいものと交換していた。
当時の切手優等生たちは、どのような人生を送ったのか、追跡調査してみたら面白いかもしれない。彼らのコレクションは『預金通帳のようだった』(爆)。「シートで持っていた方が価値がある」と、ずらっとシートが切手帳に入っていた。めくれども、めくれども、シートばかり。親がそうとう買い与えていたに違いない。
その代表格の一人は、常にチェックの同じ柄の半ズボンとジャケットに白いハイソックスという、それが家庭での制服であるかのような少年だったのを思い出す。私のようにドロップの空缶の中に土と枯葉をいれて、ヒラタクワガタを中に入れて、学校へ連れて行っていたようなのとは世界が違った(爆)。
当時、学校のあと、同級生たちが『虫を見せてくれ』と学校の帰りに私の家に寄る者がけっこういたので、私にも『ものを持っている』傾向がないわけではなかった。ただベクトルがずいぶん違う。
おとといの夜、古くからの友人と会ったのですが、古本屋へ一緒に入った。やはり、その友人も古本屋で手に取る本は、『見たことがないもの』、それも現在では流通しないような本を手に取っていた。『自分の知的地平線が広がるかもしれないもの』に興味を示す。それが面白ければ買う。
その白いハイソックスの切手シートの男の子は高校生の時、優等生の座から落ちた。その後、巻き返したのかどうかは知らない。小学校の時はたいへん大人びた、世間のことをよく知っているこどもだったことを思い出す。
そんな昔のことがひらめいたのは、昨日、古い自転車屋の工具を買ったのが届いて、その鉄の鋳物の肌を見て『これはベーゴマだな』と感じた(笑)。同様に、『相場表のなかった外国切手を白いハイソックス』のこどもは手を出さなかったが、私は実際の場所を見たいと、けっこう集めた。「そんなものは値打ちがない」と嘲笑された記憶がある。
英国時代、朝の朝食のとき、だいたいファーストクラスの郵便が届けられる。珈琲を飲みつつ手紙を読んでいると、フランシスが「切手をもらってもいいか」と来る。封筒のものを切り取って、学校へもってゆくと、集めて何かになるらしかった。
去年の年末から今年の正月は、年賀状の売り上げが最低を更新したらしい。やがてはすべてがスタンプか合理的なシールになる時代が来るのかもしれない。現実に英国では紙幣が樹脂製でホログラムになっているのが使われ始めた。
私はいまだに重要な人への手紙は、どういう切手を貼るか吟味して使う。そのために古い切手で使うものをキープしていたりする。メールにはそういう『味わいの余韻はない』。
これは書籍でも、包み紙でも、箱でもそうかもしれないが、生活から余韻が消えている感じがする。昔の世代の人は御存知だと思うが、ユーレーの変速機のザラザラの紙箱に印刷されたパリの地図にどれほどロマンをかきたてられただろう。
今ではSUGINOのクランクの箱やシマノの箱、丹下のヘッドセットの箱に絵は描いていない。ただ字があるだけ。しかもほかに再利用が出来ない箱形状で、取っておくに値しない。
古本屋でハガキ大のリーフレットを買った。そのうちの何枚かは切手と同様、ミクロコスモスがあった。私は実体のない『検索ワープ』よりはたなごこころの中のミクロコスモスのほうが好きだ。
いまはあまり小学生が切手集めをするという話を聞きませんが、私の時代にはけっこういた。思い出すのは、『切手集めの優等生』がいて、彼らは小学生ながら『相場の書いてある本を持っていた』。マニュアルです。また切手専用のピンセットを持っていた。多くの場合、そういうこどもは『交換の時損をしないように』、こどもの間で切手交換をする時に、必ずマニュアルを調べていたのを思い出す。
私には、その『マニュアル』がなかったこともあって、ただ見たことがない物、欲しいものと交換していた。
当時の切手優等生たちは、どのような人生を送ったのか、追跡調査してみたら面白いかもしれない。彼らのコレクションは『預金通帳のようだった』(爆)。「シートで持っていた方が価値がある」と、ずらっとシートが切手帳に入っていた。めくれども、めくれども、シートばかり。親がそうとう買い与えていたに違いない。
その代表格の一人は、常にチェックの同じ柄の半ズボンとジャケットに白いハイソックスという、それが家庭での制服であるかのような少年だったのを思い出す。私のようにドロップの空缶の中に土と枯葉をいれて、ヒラタクワガタを中に入れて、学校へ連れて行っていたようなのとは世界が違った(爆)。
当時、学校のあと、同級生たちが『虫を見せてくれ』と学校の帰りに私の家に寄る者がけっこういたので、私にも『ものを持っている』傾向がないわけではなかった。ただベクトルがずいぶん違う。
おとといの夜、古くからの友人と会ったのですが、古本屋へ一緒に入った。やはり、その友人も古本屋で手に取る本は、『見たことがないもの』、それも現在では流通しないような本を手に取っていた。『自分の知的地平線が広がるかもしれないもの』に興味を示す。それが面白ければ買う。
その白いハイソックスの切手シートの男の子は高校生の時、優等生の座から落ちた。その後、巻き返したのかどうかは知らない。小学校の時はたいへん大人びた、世間のことをよく知っているこどもだったことを思い出す。
そんな昔のことがひらめいたのは、昨日、古い自転車屋の工具を買ったのが届いて、その鉄の鋳物の肌を見て『これはベーゴマだな』と感じた(笑)。同様に、『相場表のなかった外国切手を白いハイソックス』のこどもは手を出さなかったが、私は実際の場所を見たいと、けっこう集めた。「そんなものは値打ちがない」と嘲笑された記憶がある。
英国時代、朝の朝食のとき、だいたいファーストクラスの郵便が届けられる。珈琲を飲みつつ手紙を読んでいると、フランシスが「切手をもらってもいいか」と来る。封筒のものを切り取って、学校へもってゆくと、集めて何かになるらしかった。
去年の年末から今年の正月は、年賀状の売り上げが最低を更新したらしい。やがてはすべてがスタンプか合理的なシールになる時代が来るのかもしれない。現実に英国では紙幣が樹脂製でホログラムになっているのが使われ始めた。
私はいまだに重要な人への手紙は、どういう切手を貼るか吟味して使う。そのために古い切手で使うものをキープしていたりする。メールにはそういう『味わいの余韻はない』。
これは書籍でも、包み紙でも、箱でもそうかもしれないが、生活から余韻が消えている感じがする。昔の世代の人は御存知だと思うが、ユーレーの変速機のザラザラの紙箱に印刷されたパリの地図にどれほどロマンをかきたてられただろう。
今ではSUGINOのクランクの箱やシマノの箱、丹下のヘッドセットの箱に絵は描いていない。ただ字があるだけ。しかもほかに再利用が出来ない箱形状で、取っておくに値しない。
古本屋でハガキ大のリーフレットを買った。そのうちの何枚かは切手と同様、ミクロコスモスがあった。私は実体のない『検索ワープ』よりはたなごこころの中のミクロコスモスのほうが好きだ。