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Channel: 英国式自転車生活
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ニッポンの隠れみの

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火曜の夜は夕飯を食べに行ったのですが、そこでひと悶着あった。実際に私に会った方はご存じだと思います。私はそうとう我慢強い方だと思う。それでなければものを作ったり、1世紀以上前の自転車の部品を探してレストアなどできません。

ただ言う時には言います。その時には、まったく逃げ道がなくなるまでやる。

古い占いの本によると『この人が怒るとまったく手が付けられなくなり、手加減もなにもない。まったくの紙ひとえになる。それほどの闘争本能の人だ』と書いてある。まったく良いことではありませんが、どうもこれは一生治りそうがない。

本能的にスイッチが入り、自分の損得に関係なく、懲罰的行動に出る。むかし、ふくへんのあおちゃんが、冗談交じりにR&Fさんとはもめたくない、と言っていましたが、彼とはもめたことがない。

脳科学的に言うと、そういう思考回路は多かれ少なかれ、誰の脳にもあるのだそうですが、人並外れてそれが強い人というのもあるようです。

祖父も父も大魔神型だった。変身すると途中停止不可能(笑)。

この「最後の一線」は私にはある程度自覚できている。外部からの人は、この『一線』が見えない場合がある。最近、この夏の話、私にやりこめられた人がいて『なぜ、今度は軽く受け流してくれなかったのか?』というようなことを言われた。知的誠実さに関わる問題だ。

それは、その人(私)の『人生原理』に深くかかわる話なのだが、物事に『絶対の概念を持っている西洋の人との交友では、めったに彼らはその一線を踏み越えない』。だから私は30年級のヨーロッパの友人はけっこういる。

英語に「put your foot in it」という表現がある。これは日本の中学校から教えるべきだ。

うちへ定期的に来るドイツのポップスの話をメインにブログに書いている方が、ひと月ほど前、この話題をアップしていて、その方も現代日本の人の、『その一線を超えて来る許しがたいバランス感覚』のことを書いておられた。

宗教的なものを持っているかいないかにかかわらず、そのヨーロッパ的な『骨の行動原理』を身に染みてもっているかどうかなのだと思う。

日本では『人間関係のために変節し、絶対の部分を平気でゆるめて歪める。』

たとえば、日本の密教は、ヒンドゥー的なマントラ(真言に対応)、ムドラー(印に対応)して護摩のようなものを取り入れてきて完成している。事実、貴族とかからの祈祷の依頼が多く、天台密教は多くの貴族に支えられていた。一方で禅はそういうものは本質とは関係のないものであると言う。「ただ座れ」と。だから道元などは宗派の名前を嫌い、「付けたければ釈迦宗とでもつけたらよかろう」と言った。

鎌倉時代の仏教の人は、納得できないものをみて、密教の山を下りて自分の宗派をたてたわけですから。

ところが、密教の護摩に出ながら、道元に心酔とはこれはいかなることなのか?

ヨーロッパであれば、論争に負ければそれで終了ですが、日本とか極東だと『それではメンツがつぶれるから顔を立ててくれ』と、あいまいなところで落としどころを付けてくれとばかりに、執拗に食い下がって来る。

今日(日付がかわっているので昨晩ですが)、私はおとなしく夕食を一人で食べていたのですが、隣りののテーブルにわざわざ若いのが席を取り、まったく無用な論争を食事の途中に、英語のことで挑んできた。彼は私が『英語が出来る』というのをどこかで聞いて、英語の文章構造の理論で論争を吹っかけてきて、私をへこましたかったようです。

最初のうちは私も軽く聞き流していた。しかし、その若者があまりに粘着で、しつこいので、「ならば、その英単語をオックスフォードの辞書で、ネットで検索してごらん、第一義は貴方の言うようなことは書いてないから、」と説明。実際、それは『アメリカン・ヘリテージの辞書』でも、彼の主張の誤りとなることが書いてある。しかし、彼は議論の負けを認めないんですね。

私が「貴方の言っていることは通時言語学的にみても誤りだ。そういう意味では使われたのは新しい時代になってからだ。16世紀にはそう言う用法は無い」と説明した。

「いや、シェークスピアが使っている」とまだ食い下がる。私はシェークスピアは原語で全作品読んで、目を通していますから、そんな用法がないことは明らかなのです。スマホで検索してご覧、と言った。出ない。

そうしたら、まだしつこく食い下がって来る。今度はカビが生えたようなシンタックス理論も持ちだしてきてまだ誤った理論にしがみついている。彼は英語と日本語がすべて並行で正確に対応するようなことを言っていたので、私もここで本性を出すことに決めた。

「日本語で植物が『枯れる』のと魚が『死ぬ』のは動詞を変える。英語ではどちらも同じ動詞で、「枯らす」のも英語だとKILLが使える。樹が倒れるのもものが落ちるのも英語ではFALLだ。英語と日本語は2つの対応するものではないし、対応関係がない翻訳不可能な単語もある。世界の部族によってはワニのくちをあける状態を表現するのに30近い別の単語を使う言語の人たちもいる。意味論を離れての動詞がつくる文の構造を語るのは無意味だ。最初の前提条件を君はかけ間違えている。」
これで、完全にノックアウトなのですが、まだしつこく食い下がってきたので、私の中で「リミッター・スイッチが外れた」。

「ここはレストランだから、食事をちゃんとしなさい。私もここへは食事に来ている。」
それでもまだあきらめない。私の使う2人称が『オマエ』に変わった。最後はブチ切れ。
「非常識もいい加減にしろ!◎×▽□●××。」

最後は平身低頭で、ほかの客が注視のなか、3回ほど謝っていましたが、そういう負けっぷりが無様だと思わないのだろうか?

あれほどブチ切れたのは20数年ぶりだった。

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