花見と言うのはどうも始末が悪い。行くのも癪ならば、行かないのも癪だ。
天善が編み出したやりかたは「通りすぎる」という方法だった。客人との会談をすませると、一鞭あてて清水の坂を目指した。途中で「天善先生!」と声をかける者があった。見れば『らぶらどる』などという洋犬を連れた知り合いであった。
「運動でございますか?」
「いや、花見など。」
「風流ですこと。堤の桜でございますか?」
「あちらはたぶん走りづらいであろう。清水の坂の先へ行こうと思っておる。」
彼女は『すまっぺ』なる歌舞伎者の親衛隊である。花見に趣味はないと思われる。天善は先を急いだ。もはや、茶の刻手前、暗くなってからの花見ではつまらない。
途中、旧街道で今度は清兵衛に出くわした。よく人に会う日だ。
「天善さま、最近は何か目新しいことでも?」
「ないな。どこも静まり返っている。余は密かに、ほれ、そこの水中にいる鯉のように、潜水して思わぬところへたどり着き、水面の上の者たちを驚かそうとたくらんでおるところじゃ。」
「それは興味深い。何を計画しておられるのか?」
「それはまだ言えぬ。ただ今は遅れを取り戻すため、休みも返上して動き回っておる。ときにお前の方は今日、何か見たのか?」
「いいえ、いま、この先で花見の人混みを見てまいったぐらいでございます。」
「花見など、ここでもできるぞ。」
「はて、桜の木はございませぬが?」
「その生垣には木瓜が咲いている。平安朝の昔から日本人は木瓜を愛好した。きわめてひなびた色の日本的な花だが、洋花の鮮やかさや、派手なそめいよしのの影になって、今では愛でる人もいない。しかし、余はこの色は和服の色のように思える。素直に見れば、これはこれで味がある。べつにそめいよしのばかりが花ではあるまい。あちらには伊太利亜のぼってぃちぇるりの描いたぷりまべーら屏風に描かれた八重の花が咲いている。」
「いままで、この生垣の花には注意を払って見たことはありませんでした。」
「童のころを思い起こしてみれば、皆、この時期は油菜の黄色い花の中で紋白蝶を追ったものだが、そのようなことはおとなになるにしたがって、人は忘れてしまう。」
「たしかに。気が付いてみれば、紋白蝶も紋黄蝶もすっかり見なくなりましたな。」
「この土手を降りてみると良い。むこうにたくさん咲いている。」
「行ってみることにいたします。それではまた。」
清兵衛は黒馬のたずなを弓手に持ち、挙手をすると走り去った。
桜の木の下には風流とは程遠い喧騒がくりひろげられていた。徳利や瓢箪すら持っている者はいない。軽量偽銀の竹筒のようなものから麦酒を飲み、漆の弁当箱のかわりに透き通った「ぺっと箔」の使い捨ての弁当箱から、まがいものの飯を食べている。聞くところによると、あの弁当箱のなかの白米は、油や乳化剤が入っているそうな。米すらも純粋の本物ではなくなっている。
毛氈などを敷いているものはいない。がさつな今様の洋楽を大音声で鳴らしているものもいる。謡を唄うものも、三味の音も、長唄もない。
天善は馬を屋敷町へいれた。花見客はここへは来ない。雀や四十雀が桜の蜜をなめ、花びらをくわえていた。彼らだけが昔のままだ。
一橋さまの庭で鶯が鳴いているのが聞こえた。鳥たちも桜の名所には寄り付かない。
「紅梅は観賞用で実を付けないものだが、そめいよしのも派手に散るだけで、実を残さない。おそらくは、そういう派手に散るむなしさが、この國の刹那的なところと合致しているのやもしれぬ。」
そうつぶやくと、天善は虚しき宴の場を後にしたのであった。