ひのたまはちおうじ地区は、夕方になるとスピーカーで音楽が流れます。それが夏時間が終わって、5時より早く流されるようになりました。
私の祖母が晩年寝たきりになった時、「あれを聞くのが嫌でたまらない」と言っていました。
「まるで自分の余命を数えられているようだ。」
一日が終わり日が暮れるのを、むりやり役所や学校が、すべての地域の人に強制的に聞かせるシステム。
ヨーロッパの国々であんなことをやっているところはちょっと思いつかない。教会の鐘は朝でも昼でも鳴っている。しかも数百年前のそのままの鐘の音です。スピーカーからそういう放送が流れていたのはテヘラン。私は嫌いでした。「何でミニュレット(尖塔)のてっぺんで、昔のように人の声でやらないのか?とよく私は訊いていた。
ヨーロッパの鐘は邪魔にならない。日本の電子カリオンにはやたら甲高く、いつまでも果てしなく鳴っているものがある。
それでも足りずに、耳にイヤフォーンを付けて自転車に乗ったり、歩いていたり、ジョギングしていたり。日本人の音の環境はここ35年ぐらいでずいぶん変わった気がする。
私が引っ越してきた当時は、朝と夕方に明け六つと暮れ六つで寺の鐘が聞こえ、山里風情たっぷりだった。いまは、鳴らしているのかもしれませんが、聞こえなくなった。
英国では、いまでも音楽を一切流していない、昔ながらのティーショップやパブが残っている。
そういう『音楽は聴くもので、聞こえているものではない」という生活にいると、何とも言えない時空を感じます。カーラジオもステレオもない自転車でそういう言う場所へ行く。
そういう夕暮れ時、思い出されるのは、たまに内側からステンドグラスがランタンのように照らし出されたチャペルから音楽が漏れ聞こえてきたこと。そういう場所がおもてが虹色に輝くシャボン玉のように、小宇宙を作っている感じがした。
しばし、自転車を停め、表で聞き入ったり、たまに中に入ったり。
King's college Choir Evening hymn
でYoutubeで出ます。ほっとする。良い音楽だけ聴けばいいという感じです。
このあいだ入ったお店はあろうことか、ヴァラエティ番組を店内でかけていた。そのなかで歌を歌っていたのですが、その音程の甘さがなんとも不愉快でイライラする。
耳掃除のために、家へ帰ってモーツアルトの魔笛の中のアリアをかける。
Diana Damrau-Queen of the night aria
で出ます。ユーザー名はRubenedias
このアリア、内容はかなりすごいもので、夜の女王が自分の娘に、あの男を始末しないと、お前は私の子ではないよ、と迫る恐ろしい歌詞なのですが、なんとも美しい曲。そのダイアナの声のはば、歌唱力、音程、どれをとっても、今の日本のテレビに出ている歌手の比ではない。しかもオペラですから彼女は歌いながら演技もする。
うちのトースターが壊れかかっているので、今日は夜、家電屋をのぞいた。
超大型液晶テレビで、アメリカの破壊的なアクション映画をやっていた。CG駆使しまくり。しかもおどろおどろしい、イメージがたくさん出てくる。しかし、所詮はアクション。人生に影響を与えるような内容ではない。しかもCGです。これも家へ帰ってから、モーツアルトを聴く。
S.Ramey & K. Moll The commendatore scene " Don Giovannni
でYoutubeで出ます。
放蕩のかぎりをつくした極悪人ドン・ジョヴァンニが、コマンダトーレの墓の前で石像に夕食にでも来ないか?とSHIシャを茶化す。そうすると、その石像がドン・ジョヴァンニのところに本当にやって来る。
「さあ、本当に夕食に来たぞ。」
と告げるコマンダトーレ。ドン・ジョバンニの召使いは恐怖に震える。
「熱があるように震えがとまりません。」
「さあ、私が約束通りにやってきたのだから、お前も私の招待を返礼として受けろ。」
という。召使が、
「ご主人様、行ってはいけません。時間がないとお言いなさい。」
「この私を臆病者と言った者はいままでにいない。そのご招待お受けしよう。」
「それでは、約束のしるしに握手をしろ。」
電光が光る。
「何と冷たい手だ。」
「いままでの行いを悔い改め、生き方を変えるか?最後のチャンスだ。」
「嫌だ。」
「改心しろ。」
「嫌だ。」
そしてついにドン・ジョヴァンニは地獄へ引きづり込まれる。
「この地獄絵図のヴイジョンはなんだ?」
そう言いながら幕が下りる。
ふつうの舞台で、CGも最先端のトリックもない、ただの演劇の舞台ですごいイメージを作っています。ぜひご一覧を。
私の祖母が晩年寝たきりになった時、「あれを聞くのが嫌でたまらない」と言っていました。
「まるで自分の余命を数えられているようだ。」
一日が終わり日が暮れるのを、むりやり役所や学校が、すべての地域の人に強制的に聞かせるシステム。
ヨーロッパの国々であんなことをやっているところはちょっと思いつかない。教会の鐘は朝でも昼でも鳴っている。しかも数百年前のそのままの鐘の音です。スピーカーからそういう放送が流れていたのはテヘラン。私は嫌いでした。「何でミニュレット(尖塔)のてっぺんで、昔のように人の声でやらないのか?とよく私は訊いていた。
ヨーロッパの鐘は邪魔にならない。日本の電子カリオンにはやたら甲高く、いつまでも果てしなく鳴っているものがある。
それでも足りずに、耳にイヤフォーンを付けて自転車に乗ったり、歩いていたり、ジョギングしていたり。日本人の音の環境はここ35年ぐらいでずいぶん変わった気がする。
私が引っ越してきた当時は、朝と夕方に明け六つと暮れ六つで寺の鐘が聞こえ、山里風情たっぷりだった。いまは、鳴らしているのかもしれませんが、聞こえなくなった。
英国では、いまでも音楽を一切流していない、昔ながらのティーショップやパブが残っている。
そういう『音楽は聴くもので、聞こえているものではない」という生活にいると、何とも言えない時空を感じます。カーラジオもステレオもない自転車でそういう言う場所へ行く。
そういう夕暮れ時、思い出されるのは、たまに内側からステンドグラスがランタンのように照らし出されたチャペルから音楽が漏れ聞こえてきたこと。そういう場所がおもてが虹色に輝くシャボン玉のように、小宇宙を作っている感じがした。
しばし、自転車を停め、表で聞き入ったり、たまに中に入ったり。
King's college Choir Evening hymn
でYoutubeで出ます。ほっとする。良い音楽だけ聴けばいいという感じです。
このあいだ入ったお店はあろうことか、ヴァラエティ番組を店内でかけていた。そのなかで歌を歌っていたのですが、その音程の甘さがなんとも不愉快でイライラする。
耳掃除のために、家へ帰ってモーツアルトの魔笛の中のアリアをかける。
Diana Damrau-Queen of the night aria
で出ます。ユーザー名はRubenedias
このアリア、内容はかなりすごいもので、夜の女王が自分の娘に、あの男を始末しないと、お前は私の子ではないよ、と迫る恐ろしい歌詞なのですが、なんとも美しい曲。そのダイアナの声のはば、歌唱力、音程、どれをとっても、今の日本のテレビに出ている歌手の比ではない。しかもオペラですから彼女は歌いながら演技もする。
うちのトースターが壊れかかっているので、今日は夜、家電屋をのぞいた。
超大型液晶テレビで、アメリカの破壊的なアクション映画をやっていた。CG駆使しまくり。しかもおどろおどろしい、イメージがたくさん出てくる。しかし、所詮はアクション。人生に影響を与えるような内容ではない。しかもCGです。これも家へ帰ってから、モーツアルトを聴く。
S.Ramey & K. Moll The commendatore scene " Don Giovannni
でYoutubeで出ます。
放蕩のかぎりをつくした極悪人ドン・ジョヴァンニが、コマンダトーレの墓の前で石像に夕食にでも来ないか?とSHIシャを茶化す。そうすると、その石像がドン・ジョヴァンニのところに本当にやって来る。
「さあ、本当に夕食に来たぞ。」
と告げるコマンダトーレ。ドン・ジョバンニの召使いは恐怖に震える。
「熱があるように震えがとまりません。」
「さあ、私が約束通りにやってきたのだから、お前も私の招待を返礼として受けろ。」
という。召使が、
「ご主人様、行ってはいけません。時間がないとお言いなさい。」
「この私を臆病者と言った者はいままでにいない。そのご招待お受けしよう。」
「それでは、約束のしるしに握手をしろ。」
電光が光る。
「何と冷たい手だ。」
「いままでの行いを悔い改め、生き方を変えるか?最後のチャンスだ。」
「嫌だ。」
「改心しろ。」
「嫌だ。」
そしてついにドン・ジョヴァンニは地獄へ引きづり込まれる。
「この地獄絵図のヴイジョンはなんだ?」
そう言いながら幕が下りる。
ふつうの舞台で、CGも最先端のトリックもない、ただの演劇の舞台ですごいイメージを作っています。ぜひご一覧を。