12月になるといつもイタリアから日本へ戻ってくる方がおりまして、この時期はその方と会うのが恒例になっています。その人もやはり二輪関係のデザインと設計の仕事をしている。
今年でた話題は、『現代のものはなんでも出来た時が一番綺麗で、それからどんどん汚らしくなってゆく。これがなんとかならないか?』という話でした。つまり、使い込むほどに味と貫禄が出てくる二輪車。
これは実によくわかる。私も以前、『ちばさん』に木リムにデイスクブレーキのハブで、朱漆を塗って、昔の槍のように出来ないかな?と話し合ったことがありました。ちばさんも乗り気で、『それは振動吸収もいいだろうし、きっと乗り良いですよ。補強に外周に絹糸かケブラーを巻けば良いんじゃないかな』という話になりました。難関は漆が高価なこと、量産が不可能なこと、そして漆は紫外線で焼けてくること、の3点でした。
私はスチールフレームと焼き物はよく似ていると思う。
ハンドビルトのスチールフレームは、じつは陶磁器と同じなのです。同じ寸法で作っても同じものにはならない。1台づつすべて違う。またそれを使う人によってどんどん変わってくる。下手な人の乗った車輌にはヘンな癖がつく。
そのあたりの呼吸がわかれば、ある人がなぜ、『一度に一台しかとりかからないのか?』がわかると思います。
『今日はフロントのフォークをまとめて作ろう』とか『右のバックフォークだけ作ろう』とかやっているところもありますが、私にはそれは出来ない。そうやれば数はこなせますが、出来るものは極端な話、バックフォークの右と左が違う職人の溶接というのもよく見かける。それは本質から外れてゆくのではないか?徳利を作るのに、下半分と上半分を別の職人が作り、それを合わせて、口の部分をひねりだすのを3番目の職人がやったとしたら?それは「作品」になるのか?
私はやきものは古備前とか古信楽、古伊賀が好きなのですが、良い物は見るだけ。とても私などには手がとどかない。安いもので嫌味のないものを買って使い込んで味を出し、育てるのを楽しむ。
古備前などは何万貫もの薪を使って、何十日も燃やし続けた。もう焼き締まって黒っぽくなり、金属のようになる。そこへ自然釉がかかったり、燃えた藁の具合で『ひだすき』がかかったりする。熟練の職人技に炎の偶然が手を貸し、『わざとらしさ』のない、自然と調和する、人の手のいやらしさが炎で清められて、俗臭の抜け落ちたやきものが出来る。
最近はガスや電気の窯で作る場合が多いので、どんな偶然も再現してしまうことが出来るようです。そうすると、ひとつの焼き物のなかに、「ゴマ」がかかり、「ひだすき」があり、「ぼたもち」があり、「釉変」があり、カタログのように全部のそういうものが盛り込まれているものがけっこうあります。しかし、私はそういう凝ったものは「技術が盛り込まれるほど、人の手のいやらしさ」が増えてきて居心地が悪い。
これはじつは自転車のフレームでもまったく同じ気がする。
ケーブルはすべて内蔵し、すべてのダボをロウ付けし、ラグはハンドカットし、ラグの上にはロウを盛り、シートは巻きステーにして、もう『フレームに全技法をくっつけたクリスマスツリーのようにする』。そして、決してキズがつかないようにして、転写シールの数ミリのズレも許さない。車輪をとめるフレームエンドの微かな塗装の剥げも容赦しない。
「それじゃ乗れないし、使えないだろう」と私は思う。
金彩は豪華だが、金は柔らかいのでどんどん磨り減る。なので私は金襴手に興味はない。「すこしでも金が落ちていない無傷カンピン」を探す性根と「少しでも錆がなく、メーカーの刻印が均等に綺麗にはいっている自転車部品」を探す性根は同じだと思う。
さりげなく、嫌味がなく、使うほどに味と貫禄が滲んでくる機械。私はそういう機械が好きだし、ていねいに使い込まれた黒光りする工具だとか、万力はなんとも言えない格調と気高さを感じる。
自転車もそういうものであるべきなのではないか?黒光りした蒸気機関車のたくましさ。最近はそういう機械がめっきり減りました。
写真の財布は最初は粉吹いたような黄色でどうかな?と思いましたがどんどんよくなってきた。中に詰まった小銭のおかげ♪酒の道具のほうは、刳り貫き盆は1200円には見えない。徳利はこういうのに年中酒を入れて使っていると、革の財布同様、どんどん酔ったように色がよくなってくる。ぐい呑み700円が目立ってしょぼいです。次は1500円まで出すぞ!(笑)