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Channel: 英国式自転車生活
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英国的あまのじゃく

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英国だと、よくI like to be different とかi try to be differentと言う。つまり、

『流行るとやめる人が少なくない』(笑)。

なんでも、このごろツィードを着て自転車に乗る人が多いので、むきになってツィードを着ていない。もうすこし『うがった格好』を心掛けている(爆)。

よもやこの日本で、「R&Fは英国自転車を知らない」とか「自転車に乗る時のツィードを持っていないのだろう」とかいう人はいないだろうと、たかをくくって『驕る平家の花盛り』(笑)。

その流行のせいか、ツィードのジャケッへのネット・オークションへのビット数が半端ではない。価格もずいぶんあがっている。

一方で、私はこの頃、英国のワーキングクラスの人たちの着るジャケットをよく着ている。

日本で英国のツィードは、おしゃれなものはアウトドアで薄すぎて自転車では寒い。本格的な物では逆に室内で耐え難く暑い。

そういうところから調整をして、合理的なスタイルが生まれてくるはずだと思う。

最後に固まったところで注文服にすればよい。

私の28号も英国のロードスターをさんざんやったあとに作ったわけです。服装も同じなのではないかと考える。

書道でも、庭造りでも、武道の型でも『草、行、真』とあるわけで、これは自転車でも、服装でもある。

楷書もちゃんと書けない者が草書を書くのは見苦しい。一方で、一生お手本を見ての楷書しか書けないのも、これもまた進歩がない。

最終的に、「自分のものになったスタイルが持てるかどうか?」、服も自転車もここに尽きると思う。

断捨離の裏表

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世の中では断捨離ブームで『何もなくても生きて行ける』みたいな風潮がありますが、私はどうかな?と言う部分がある。

ものを持ちすぎるのは論外だが、話を聞くと、『納屋を持っていない』生活にも問題がある気がする。

英国人はけっこう納屋とかガレージになんでも放り込んで、スッキリした生活をしている人が多い。

日本の現代住宅はアメリカ型文明のライフスタイルにはサイズ的に無理。今の若者が住んでいる2DKとかの住居は江戸時代の、何も持たない無産者層の住んでいた長屋と同じサイズ。江戸時代なら大家に追い出されたら無宿人となり「おかみにしょっ引かれた」人たちの暮らしと大差がない。

ロンドンなどの、納屋、ガレージのない都市型の生活をしている人たちはかなり厳選されたものだけを持って無駄なものを持たない。日本ではあまりそういうことは報道されませんが、国民の一人当たりの住宅面積は英国の方がアメリカより広い。

住宅と持っているものの量のバランスが悪いのは、アメリカも日本と同様で、収納場所がない人は、アメリカでもキャラバンの類のなかに放り込んでいたりする人もけっこういる。

『凝縮された良いものを持つ』、これが私はカギだと思う。

現実の話、もし、私がすべての自転車を売却して、一台も持っていなかったら、生活は冬枯れするでしょうね。ちょっとインドカレー屋までテイクアウトを買いに、などとは出来なくなる。深大寺で植木市があるので自転車で見に行くとか、府中で古武道の演武と流鏑馬があるから見に行く、、などということは出来なくなる。自動車では替わりにならない。バイクでも無理です。自転車のようにあぜ道を突っ切って近道、とか混んでいるから裏道から押してはいるなどと言うことも出来ない。自然のなかにわけいる生活も、徒歩では移動時間の制約からかなり限定されることになるでしょう。

「じゃあ、中台製の安物でも」、、それでは「ひのたまはちおうじ」から御徒町の問屋まで自転車に乗って出かけ、仕事を済ませてから、文京区の気に入った喫茶店へ入って気分転換などとうていできません。

どこへでも自転車で出かける私でも、一文字ハンドルの、べたつくタイヤ、背中引きつりポジションのクロスバイクでは、うちから往復14kmの「くにたち」へ行くのも嫌だ。疲れる。

そういうのは『不愉快な行』でしかない。

私はお茶、紅茶をよく飲むわけですが、美味いお茶を飲むためには、美味い抹茶なら鉄瓶、美味い紅茶ならホーローのヤカンがいる。自転車で河原とか丘陵のてっぺんへ登ってお湯を沸かしてお茶にすることもありますが、そういうところへ持ってゆくのに、握りこぶし大の鉄瓶とホーローのヤカンを使っている。

そうすると4つはお湯を沸かす道具を持っているわけで、さらにエスプレッソのポットがあるので5つ。鉄瓶は来客があったときのための大きいのがあるし、自転車野点のときの4人分ぐらいのための錫引きの銅のヤカンもある。つまり7つ。

つまらないものは持たない主義だが、もしアルマイトのヤカンひとつで済ませるなら、家で飲むすべてのホットドリンクの味が数段階落ちるだろう。

私は別に托鉢僧のように生きようとは思わない。

お経だけ読んでいればよいとか、聖書だけ読んでいればよいとかは私は考えないので、画集やシェークスピアの戯曲集、さまざまな詩集、哲学書、エッセイのたぐいも必要だろう。

今の時期、このあたりはナラとかクヌギの広葉樹林が枝だけで美しい。これを国木田独歩は武蔵野の原風景と言いましたが、大詩人、北原白秋はこのあたりの風景を「つるばみ」という歌集にまとめている。

喫茶店でふとひらいて読んでみると豊かな詩情が広がるのではないか?

しかし、白秋のつるばみは文庫本になっていないし、今ものの本の中には入っていません。そういうものも処分するわけにはゆかない。

誰かが旅先から良い酒を買ってきて、おみやげにくれたとする。それをお茶椀で飲むのか?備前のとっくりに一晩入れておくとさらに味が良くなる。日本古来の知恵です。そう云うことをして、ありがたく飲むべきなのではないか?

断捨離おおいにけっこう。「いらない紙物を捨て」、「美的生活にそぐわない安物食器を捨て」、「着ない洋服を捨て」、「たいして役に立っていない自動車を見直し」、「数年でホコリをかぶる安物の使い捨て自転車を捨て」、「税金のように金をとられる携帯電話を見直す」。

身軽になって、ものを持たなくなって、貴方の手元に残るものはなんだろうか?

私は重ねて言うが、修行僧のようになるつもりはない。

最高に楽な自転車とそれを整備する工具、美味い紅茶を淹れるティーポット、急須などをはじめとする、美味いお茶と豊かな時を作る茶道具、良い調理器具、気に入った本、気に入った家具、ぐらいは残すつもりだ。

大げさに言うと、『自転車は世界認識の手段』。自動車にそういう側面はない。

客観的にみる

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先週たまたま自転車仲間と電話で話す機会がありまして、どうしているか尋ねたら、
「もう80kmぐらいしか乗れなくなっている。だから、このぐらいの距離の中で、自転車で旅をするやりかたを続けて行くしかないんでしょうね。」
と言っていた。
「80km???だって、オレより10歳以上若いじゃないか。」

その彼は毎日水を含んだ重たいものを運ぶ仕事と、クルマの運転でそうとう腰をやられている。

一度、秩父のはしをかすめるツーリングで、彼はケーブル・オール内蔵の凝ったスポルティーフで来て、アップハンドル組にずいぶん置いて行かれた。2km、3km遅れるので、我々は定期的に待っていなければならなかった。

肥満体ではないし、むしろ身体を使う仕事なので屈強といってよい。それでも腰とか局部的な痛みがあるとつらいものなのです。

『もう自転車にまたがっていたくない。早く降りたい』と思わせるものは、股間の痛みだったり、首の痛みだったり、腰の痛みだったり、手のひらの痛みだったり。

そういう原因をとりのぞけばよいのにと思う。その前の秩父をかすめるツーリングの時、「いや、僕はまだドロップで頑張ります」と彼は言っていた。

「80kmで限界」という状況で、特殊工作をしまくったフレームのドロップに乗り続ける意味があるのだろうか?何のために頑張っているのか?フレームのメーカーのため?

所有欲や顕示欲のためとしか、正直私には思えない。

ある種の道具は人間の能力を増幅するわけですが、その増幅巾の大きいものを持つと、『他の♂よりも自分は強い』という錯覚を持ちやすいのだと思う。

なので、できる限り最強の手ゴマを持とうとする人がいる。心理的に見ると、『その一点で頑張っている』のだろうと思う。だから、加齢を意識し始めた後期中年ほど、始めたばかりなのにロードとかへ行こうとする傾向がある。

それをふりきったほうが余裕が出ると思うのですが。

節分会

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「な、なんと!五日もかかると申すか?」
「致し方ありませぬ。下水の道も上水の道も両方直さねばなりませぬゆえ。」
「う~~~む。それでは仕事にならぬ。その間、夜には使えるのか?」
「それもかないませぬ。下水の道を外して作業いたします故、無理に使えば水浸しでございます。」
「なんたることか。」

天善はすべての予定を変更して、節分の豆まきに出かけることにした。清十郎がお供をすることになった。
「天善さま。して、どちらの寺社にまいられるおつもりで?六所の宮でございましょうか?」
「余はあそこには、今年は力士が一人来ることを把握しておるのだが、他は蹴球の猛者など、あまりこちらとしっくりこない気ぞすなる。そもそも、あの力士は余のひいきではないのでな。」
「とすると金剛寺でございまするか?」
「うむ。今年はいかなるところでのご縁かは知らぬが、京より舞子が二人来ると聞く。幕末風情たっぷりじゃ。美女尽くしと言うことだ。ははは。毎年巨大なるねこも来る。そのねこは軍手をしたような手をしておるのじゃ。獅子使いならぬ『ねこ使い』も来る。天下に名を知られたる賛里尾が送りこんでくるねこ使いもまた見どころじゃ。ほかにも姫君が多数来ると言われておる。どのような美女が今様かは一目瞭然。」
「そうしますると、金剛寺に決定でござりまするな。」

彼らが着いたころは三時を回っていた。

毎年、必ず、会衆を驚かせる秘密の客が招待されている。

今年の極秘の客人とは、万國美女覇権会議の代表者であった。なんでも幕府の高官の息女とのこと。

「清十郎!」
「はいっ!御前に。」
「幕府高官の御息女は右端の翼にお立ちになるようだ。おまえはそちらへ行って御息女と京よりのお二人を失礼がないようにお守りしつつ豆を拾え。」
「はて?面妖な?それでは天善さまは?いずこへ陣取りまするや?」
「余は左端に行きて、最前列で水色の姫とねこ使いの豆を拾う故、さよう心得よ。」
「天善さま。拙者も左寄りで豆を拾いとうございます。」
「ならぬ。持ち場を守るのが武士の本分というものだ。」

幕府高官の御息女も、みな無事で、『福はうち~』の声が響きわたったあとには、静寂とつぶれた豆を拾う鳥たちが平和に地面を歩いていた。

節分会Ⅱ

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節分会のとき、だるまも境内で売っているのだが、金剛寺の境内には、よそであまり見られないものも売っている。それはこの辺りから狭山にかけてには『多磨だるま』と言って、顔が違うのだ。

また、その顔や達磨のヒゲによって、同じ地域でも、誰の作った達磨かわかるようになっている。

境内には上州のほうからやってくる者たちもいて、二大勢力を形作っている。

数ある中で、ひとつの「ねこだるま」にこころ惹かれた。
「これをいただこう。いかほどかな?」
「参千と五百銭でございます。」
「ときに御主人。これはどのあたりの達磨なのか?」
「うちは横田の練兵詰所のすぐわきでございます。」
「なんと、ということは、糀谷のあたりでござろうか?」
「三ヶ島に近いところですが、あのあたりをご存じで?」
「何と言うことであろう。余は三ヶ島踏み板までよく行くのだ。」
「それは奇遇でございます。うちは踏み板屋さんまでは五分ほどのところでございます。」
「これほどの数の出店があるなかで、こちらの店へ入るとはよほどのこと。縁でござろうな。」

天善はこれは「ねこが呼んだのであろう」と思った。

ものを作る者、絵を描く者は、じつは自分の顔を造っている。顔を見ればだいたいどのようなものかわかる。

このねこをまず見つけ、売っている家族の顔を見て、天善は「今年はこれ」と決めたのだった。

「梅の香の みやびにこころをとめずして おなごがいなくてなんぞ楽しき」
「春うらら メカを求めて行く君は 美女なき里に住みやならへる」

尋常でないヲヤジたち

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なんでも河っちさんがまだ「ならし運転」の状況のスター君で160kmばかりの峠越えに行ってきたらしい。フロント・インナー42Tで行ったようなのですが、飯能の先の峠ではさすがにギア比が重かったようです。それでも、そのギア比で峠越えが出来たことに驚いておられるようす。それまでの車両では1対1のギア比にしていたということですから。

その「フロント42T」のもとは、私が英国の友人と2人で四国を回った時、フロントインナー42Tだったということを基準にしたということなのですが、我々2人はかなり変わっていた(笑)。

サイクルS誌に紹介された時、「R&Fさんの英国人の友人は会社を辞めて、R&Fさんと自転車に乗って四国巡礼をやってみることにした、、、」みたいな、

どこにでもありそうな「ほのぼのとした町の話題」のようでしたが、

その私の友人、別の文化を体験してみたいと中東のダマスカスに1年ばかり住んで、「英国まで歩いて帰ってきた人」であることは知られていない(爆)。

「このペースで、毎日この自転車に乗り、魚と野菜中心の日本食を食べて、あと1年旅を続けたら悟りを得るどころか、スーパーマンになっても不思議はない」と彼は言った。事実、毎日60~80km自転車に乗り、スリムになって、帰ってきた時は2人とも体調は絶好調だった。その後、彼は英国にもどっても日本食のファンでお茶も日本のものをよく飲んでいる。

私はその四国行きの前まではもっぱらWW2前の英国自転車ばかりに乗っていましたから、変速はリア3段だけ。たまにリアのローが26Tとかだと、「お~~~楽だ」と感激し、10速のH、R.モリスもフロントはTAのプロフェッショナル・リングでインナー46Tでしたから、軽いギアなど夢のまた夢。しかし、ファウスト・コッピの時代、みんなインナー46Tとか47Tで、リアのロー、23Tか24Tでガリビエ峠を登っていたわけですから、昔の人はすごかった。また、極細スチール・クランクにスチール・フレームで、膝も平気だったわけです。現代の高剛性フレームとクランクなら、ひとたまりもなく膝をやられる。

こういう道具は、『歳とともに、無理なく身体に合わせて行くべき』で、さすがの私も今は年齢には勝てず、現在フロントのインナーは38T、リアは28Tを入れている。

写真に撮ると、28号の1号車は変速器がショートケージ、2号車はオリンポスのロングケージ。フロントのインナーは1号車は42Tで2号車は38T.1号車のほうがそのために写真うつりが良い。左端の27号に至っては、写真でわかるとおり、フロントは44T×48Tです。

秘蔵しているのは、「70歳過ぎたら使うかもしれない」ロー32Tのフリー(笑)。

歳をとったら「さからわない姿勢」も大事だと思う。「みてくれより趣味の継続のほうが大切」だと思うこの頃です。

混沌雑然

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ここ2日ばかり、いろいろと加齢のことを話す機会がありました。

私のまわりの人たちはみんな『日常的に自転車に乗っている』。私も昨日は集会の場所まで自転車で行き、そのあとまた「自転車で徘徊」して、買い物をして帰ったので40km+走っている。

そこにたまに60~80kmの日があり、20kmぐらいの日もある。雪が降ればほぼゼロ。一か月の走行距離は800kmぐらいではないかと思う。

淡々と、ペースを守って自転車に乗っていれば、健康管理で大きな失敗はない。食事には気を使う。

昨日の集まりも何時も自転車に乗っている人たちが中心なので、健康度はかなり高かった。年齢を考えるとそれぞれの人が「その年齢にしては健康で若い」と言えると思う。

長年の観察ですが、40代で内燃機関派が、自転車族より「やや健康度で落ちる」ぐらいだったのが、55歳ぐらいを境目にして、階段で2~3段、とりかえしのつかないくらいの、大きい差が生まれている場合が多い気がする。

某、有名レーサーは歳をとってから自転車に乗り始めましたが、5kmぐらいしか乗れなくなっていました。

今日、たまたま、かつての同窓生に電話をしたのですが、彼も自動車会社の社員でした。それがいまや腎臓の機能も40%。家の中でも杖をついていて、介助なしで外出はほぼ無理だというので、びっくりした。さらに意外だったのは『外出しないで、いつも家にじっとして毎日同じようなことを繰り返しているようになってから、記憶力の減退とか、軽い認知症のけがでてきているのが自覚できる』というのでさらにびっくり。

彼は中学・高校時代、成績優秀者でした。

「生活習慣の問題というのか、どこでこうなっちゃったのかわからない。」
とぼやいていました。

ほんの20数年前、自動車なんか雨に濡れなくて、荷物が運べればいい、と言う私に、
「R&Fは中学時代から進歩していない。まだいい歳して自転車か。雨に濡れなくて、荷物が運べればいいなんて、FUN TO DRIVEということを知らないのかよ。」
とよく言われた。人の人生はわからない。

別の友人から電話。彼は昔、銀座のブティックの店長。いまは自宅を店にしてマイペースでやっている。
「いま、アパレルはずいぶん景気が悪いよ。大手のWなんか6000店舗ぐらいあるんだけどサ。1割減らすって言ってるから、そうすると600店舗減るわけでしょ?そこにだいたい5~6人のスタッフがいるわけだから、その一社で何千人ものスタッフが仕事がなくなるわけだから大変だと思うね~。」
彼も母親の介護でずいぶん高齢者の人生を考えたらしい。数年前に自動車を売り、使う時はレンタカーかタクシー。あとは自転車移動に切り替えた。体力が資本。健康年齢の維持こそが最優先課題と考えたようです。

昨日の集会の帰り、喫茶店で今年70歳の人と雑談になった。最近、自転車であちこち散歩に行くと言う。
「雑誌で自転車を買うのに、どれを買おうか参考にしようと思って買ったんですよ。だけど、中高年にどういうのが向くかとかは一切書いてありませんね。みんなが多摩川の土手で走っているのを見て、いまどきはああいうものなのかな、って思ってサドルの細いので、ハンドルがドロップじゃないのを買ったんですよ。それも国産のものを買うべきだろうつてB社のをね。ところがおしりが痛くってね。」
「おしりじゃなくて股間でしょ(笑)。」
「そう。股間。もう痛くってね。結局、人にやっちまって、いまは買いもの自転車ですよ。最初の頃は道がわからないから甲州街道とか、自動車の道を通ってたけど、危ないし、面白くないんだ。それがだんだん、クルマの来ない裏道を通って、遠くまで行って珈琲飲んで帰って来るの。」
「そりゃ、我々が言っている『自転車徘徊』そのものですよ。家にばかりいたら刺激がなくってダメだから、徘徊している人たちも、それは表の新鮮な空気吸って、街の様子を観て、脳に刺激が欲しんですよ。」
「そういえば、このあいだ認知症の人の『あかるい徘徊』の映画を観たなぁ。認知症の母と娘の話。その町の店の人たちがみんな徘徊しているそのおばあちゃんのこと知っているの。それで『いまおばあちゃんうちのお店に来ていますよ』とか報告しているんだ。よかったなあれは。」

偶然、その夜、真逆の話を聞いた。

「母親のお見舞いに施設へ行ったんですよ。いつも隣のテーブルで食事をしていた女性がいるんですけど、今日行ったら、頭を支えるようなのがついた車椅子に座ってて、廃人みたいになってたんですよ。いつもはものすごくよく喋る活発なおばあさんだったんですけど、どうしたのかな?と思って訊いたら、徘徊がひどくて、よその人の部屋まで出かけて行くので、精神病院に連れて行って、おとなしくなるような注射をうってもらってきたって施設の人が言ってましたね。」
その彼の小学生のこどもが、
「え~~っ、そんなことしていいの?」
「おとうさんは患者の人権・人格無視だと思うけれどね。『管理がもう難しいから』って施設に言われ、家族がじゃあお願いしますって言ったら、今はそうされちゃうのかもしれないね。見ていてこころが暗くなったよ。」

今月中に母親を家へ連れて帰ることにしたという。

管理しづらい人は日本ではそういう末路なのか?

先の70歳の人はづっと90代の認知症の父親の面倒をみていたという。
「親父も外へ出たいっていうんだけれど、車椅子を嫌がるんですよ。」
「それはまたどうして?」
「昔、一緒にゲートボールやっていたような近所の婆さんたちに、車椅子に乗っているところを見られるのが恥ずかしい、カッコ悪いっていうんです。」
「今の車椅子はカッコイイのが少ないからねぇ。いかにも医療器具~って言う感じで、クロームメッキピカピカで、洒落た色に塗ってあるのなんかありませんからね。これから高齢になる世代は『ピニンファリ―ナのデザインのカーボンの車椅子』とか言ったら欲しがると思うんだけれどな。椅子はレカロでランバーサポート付きだとかね。」
「自転車だけじゃなくって、そういうのもやってくださいよ。」
「自分用にやるかな。ものすごくカッコいい奴を作って絶世の美女に押させる。」
「車椅子がカッコ悪いなんて思っている世の中はいけませんよ。」
「昔、『鬼警部アイアンサイド』っていう車椅子に乗った渋い警部が出てくる番組があったね。ああいうのがなくなったね。」

恩師に夜電話をした。このあいだブログに書いた友人の脳内出血の様子の報告。
「彼もストレスだろう。学生時代から自分でストレスのネジを巻いているような性格だったからなぁ。手紙でも出しておくよ。ところでR&Fはどうだ?」
「私は自転車で徘徊して、ストレスを溶かしていますから平気です。あいつのように思い詰めない性格ですから。どうしようもなくなると、ぷ~~~っと自転車でどっかへ行ってしまいます。『どうしようもないんだから、どうにもできないじゃないか』って、状況に逆らいません。」
「そう。こう技術が進歩して、どこにいても何曜日でも携帯電話で呼び出され、スマホの中に計画表が入っていて、GPSで管理され、政府にもナントカ・ナンバーで見張られて、やっていられないだろう。」
「私は携帯電話が止められていると、これさいわいとそのままにしておいたりしますよ。」
「ははは。学生時代のR&F性格そのままだな。本来生物というのは、混沌雑然とした中に生きていて、それがある意味、気持ちが良いものだからな。そういういいかげんなゆるい部分がないとストレスになるんだろう。ところが、現代はそういう『管理』ばっかりが進んでしまっているように見えるよ。」
「私はよく言うんですけれど、『現代社会は石亀をステンレスのながしで飼うようなものだ』ってね。」
「まったくそう思うよ。水とエサさえ与えていれば生きているだろうけれど、水草があって、小魚がいて、ミミズがいて、色々な形の岩があって、そういう混沌雑然とした中が住み良いんだよ。薬を与えて、温度を管理してやって、栄養のいいエサを与えていれば石亀は幸せなのか?っていうことだよ。人間も同じだろう。」

「先生の『混沌雑然』っていうのは良いですね。揮毫して掛け軸にして掛けておきますかね。」
「ははは。ついでにストレスを溜めない生活法の塾とかもやってみたら?」
「いや、講習修了証は出るんですか?とかメールが週に10本ぐらいよこす生徒が来たらやりきれませんからね。自転車の方で充分懲りていますよ。」
「じゃあ、R&Fも石亀のように混沌雑然のなかを自転車で徘徊してストレスを溜めないようにな。」

戦国の宴

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昨日の集会が終わってホッとして、水回りの工事も順調で、日曜日はホッと一息。

そう云う工事が入ると、重量物をすべて動かさないといけないので、引っ越しのような騒ぎです。

『お持ち帰り』の食事が続いたので、私も老母もややペースを外し気味。

ふたたび戦国時代の食事に戻る。

やや白米の割合を減らし、五穀と麦を多めにした。なんとも言えず、穀物のありがたみと旨味がある。

半分を衣笠丼状態にして、この五穀米でたまごかけご飯にする。美味也。

戦国武将たちの記録を見ると、みんなゴボウを好んでいる。滋養豊富で、薬用の意味もあったらしい。

まさかゴボウが「美味いな~」と思うようになるとは思わなかった。四国の生椎茸と昆布で煮物にする。

味噌汁には八丁味噌をブレンドしてみた。う~~~む。美味也。具は九州の里芋とネギ。

豆とサツマイモはお茶うけで、ある種のデザート。戦国時代になかった材料はサツマイモだけ。

裏返して言うと、これはたいへんな珍味であったはず。

こういう食事は身体を休ませることが出来る気がする。

コースターブレーキについて

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先週、あるところでコースターブレーキについて講釈されておられる方がいて、どうかな?と思ったので書き留めておきます。

その方の申されますことには、英国で舗装道路は最初は「山を切り崩して作ったバラスが敷き詰められていて、山の下りではたいそう危険なため、脚でブレーキ操作が出来るコースターは、ハンドル操作が楽になるようにコースターにした」というのですが、これはかなりな眉唾説であると思った。

私はいままでにずいぶん各年代のコースターブレーキの車両に乗っています。10台ではききません。1905年ぐらいのラッジ・エアロ、ほかにもリー・フランシスにはペリーのコースターブレーキが付いていた。サンビームにはコースター・ブレーキではなく『バックペダル・ブレーキ』が付いていた。これは構造がまるで違います。その後は、固定ギアの車両を無改造で『ロードリーガル』(路上で合法)にするため、スターメーの『トライ・コースター』という内装3段でコースター・ブレーキ付きのものを長年使っていました(最初の物は1905年から生産された)。日本製の戦前車であるとか、スヰフト、ビーチクルーザー、小系車、ダッチロードスター、オーストリア製のシティ車、借りて乗ったものもあるので、けっこうな数になる。

コースター・ブレーキは『安全型自転車』の形状が、完全に現代車両と同じレイアウトになってからのものです。コースターブレーキの発明は1898年。ということは、前輪の大きいダルマ自転車にコースター・ブレーキなどありません。初期のボーンシェーカーにもない。

コースターブレーキは、古くはペリー、イーディー、BSAもやった。しかし、パテントに阻まれてスターメーはシングル・スピードのコースターハブを発売したのはやっと1922年のことでした。

私が思い出せる限り一番初期の生産車両への使用例はラッジだったのではないかと思う(1903年頃)。

このコースター・ブレーキというのは実に厄介なもので、微妙なブレーキ・コントロールが効かない。いきなりドッカーンと利いて後輪がロックする傾向がある。

しかも、後ろに回してブレーキをかけるので、脚の筋肉がヘンな風に疲れる。昔は八王子の山の上にいましたから、そこから降りてくる時にコースターを使うと、多摩サイに出るまででもう膝から下がヘンな風に痛んだ。そして多摩サイで土曜日などに乗ると、狛江までドッカーンとかけながらゆくと、タイヤが薄いとカーカスが出るくらい擦り減ることもありました。

ロックする傾向があるので、テールを振る。コントロール不能。あわてて前のブレーキをかけると前輪も流れる。

『バラスの山道の下りで安全』というのはとうてい信じられない。

この乗りづらさは今まで乗ったすべてのコースター・ブレーキ付きの車両に共通でした。

しかも、その方が根拠としていたのはフランク・ボーデンの本でしたが、ボーデンが生きていた時代の彼の会社のコースター・ブレーキ付き3段は、ブレーキの利き具合が3段の、どのギアに入っているかで違うという『利き具合が読めないブレーキでした』。

もうひとつの問題点は、通常の前後ブレーキ付きの場合、ブレーキ操作とハンドル操作、それとペダルのキザ踏みで障害物をやりすごす。これがコースター・ブレーキは出来ない。公園の車止めや鉢植えでのとうせんぼをすり抜けるなどは至難の業です。

この問題を何とかしようとサンビームはクランクシャフトの中心部にカムをつけて、バックペダルを踏むとリムにブレーキがかかるようにした。これは実によく出来ていました。ただし、後輪のチューブを交換するような場合、クランクを抜き、ボトムブラケットをバラす必要がありました。

そういうこともあって、コースターブレーキは1903年から1923年ぐらいまでの20年間、一部で使われましたが、その1923年ぐらいで急速に欠点が知れ渡り廃れた。

なぜコースターが使われたのか?というと、2つの理由が考えられる。ひとつはロッドブレーキでは、なかなかリアのブレーキが利くようなものが作れなかった。現在、ロッドブレーキの古い車両に乗ると、弱点はリアのブレーキです。リアのブレーキが現代のレベルで利くのはサンビームだけといってよい。

もうひとつは、コースターは『固定ギアが乗りこなせない人』が歓迎した。しかもフリーが付いていて、ダブル・コグのように車輪をひっくり返す手間がない。

さらに内装4段、5段というのは出来ることは内部では1908年ぐらいからわかっていた。しかし、ドイツのフィヒテル・ザックスがスターメーに先駆けて1912年に発売してしまった。5速の特許がスターメーによって出願がされたのは1921年。その後、フィヒテル・ザックスの特許をかいくぐるものの出願がされたのは1938年。4段変速のハブギアが生産され、売りだされたのは1939年だった。1913年の時点で売りだされたスターメーの4速ハブギアなどはありません。それはドイツのライバルの物。

さて、もう一点、道路なのですが、英国の道路はけっこう古代ローマのローマン・ロウドの上に出来ているところが多い。舗装の下からうっすらと古代の敷石がのぞいているところすらあります。

彼らがどこから石を持ってきたのか?先週の方は『山を切り崩して、、』と言っておられましたが、古代ローマ人は山を切り崩して舗装をしたのか?古代ローマ人は山地のスコットランド、ウェールズは制圧できませんでした。ウエールズの入り口のローマ人を阻んだフェルンガルウは丘だったところを盛り土して「山」にした。逆の話は聞いたことがない。

英国はかつていくつかの王国に分かれていた時代、ケント国の王女が、妹がなくなってその石棺の石をさがして、イーストアングリアのイーリーまで来て、やっと石を見つけたと言われ、その感謝のためにイーリーの大聖堂を建てた。では、イーリーの周辺で道路の採石のため、切り崩されたか?そんな記録はない。

そもそも、英国人は蒸気機関車が発明されると、そのすぐあとに2つのものを作りました。巨大な蒸気機関のトラクターと、もうひとつは巨大な蒸気機関のロードローラー。

意外に思われるかもしれませんが、安全型自転車の登場のはるか前1802年に蒸気機関車は発明され、しばらくすると、1863年には、英国では蒸気のロードローラーが走っていたのです。

そして、20世紀の初頭には英国は世界一の舗装率を誇っていた。だから、フランク・パターソンの絵に出てくる自転車乗りはゴーグルをかけていません。しかし、ヨーロッパでは未舗装率が高く、ゴーグルは必需品でした。そこでコースターが荒れた道路でのハンドル操作のために出てきたというのはいかにも不自然な話です。

王権と現代の権力者

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日本もいよいよ怖い感じの国になってきた。なんでも某女性議員が政治的偏向があった場合は電波停止もありうるとの御発言。

これは放送局へのものすごい『ブラフ』でしょう。

全世界で、放送というものが始まって以来「電波停止」などということを言った文明国はひとつもない。

その女性議員、たしか経歴に疑惑問題があった過去があったな、とググってみました。ウィキをみてみたら「実態はコピーとり」と書いてあった。

アメリカの議会関係者にかなり深くかかわって、その右腕であったなら、日本の中枢にアメリカの「走狗」がいるようなものだろうし、「ただのコピー取りの雑用要員」であったのなら、経歴過大宣伝で、これもまた問題。どちらにころんでも問題ありの御仁という感じがする。

そーりが長州の末裔だからと、面白くもない長州物の大河ドラマを視聴率が低くても流し続けた放送局も電波停止にしていただきたい。

私の祖父はその放送局の創立メンバーで、技術研究所の親玉でしたが、そういう風に放送メディアが使われるのは、もし生きていたなら望まなかっただろう。

祖父はWW2のとき、自宅に特別なラジオを自製して、ヨーロッパに住んで数か国語に堪能だった祖父は、世界中の放送を聞いて、内容を比較していた。そういうマス・メディアが批判精神を失い利用されることがいかに危険かを身に染みていた。

もう、今の人たちは、かつてのニクソン大統領の事件などは忘れているだろうと思いますが、もし、あの時、放送局がニクソンの追及の手を緩めていたら、政治の浄化作用は働いただろうか?考えてみたらよい。

福島の事故の報道でも、国内向けは大丈夫みたいな報道をしていた時、海外向け英語放送では底が抜けているのを図解入りで説明していたではないか。こういう政権の安定のみを考えたやりかたは、不公平報道に入らないのか?

英国ではBBCがそういう独立の見解をもつことを妨げられるようなことは考えられない。

英国では国王の権力が強まるにつれ、「国王の王権といえども、法律の下に従属する」ということが、マグナカルタ以降、連綿と続いて理解されている。

権力掌握者がメディアに叩かれたら、それに対して議論で応戦すればよい話で、それは「電波停止」などということを持ち出す筋のことではない。

20世紀の哲学者バートランド・ラッセルの言うように、右であろうが左であろうが、それが民衆の中から出てきた者であろうと、その掌握した政治的な力を民衆のために使うという保証は何もない。だからこそ、議論百出で叩かれるべきものは叩かれるべきで、そこをはずして民主主義は成り立たない。

いやはや、今日の話題はGigantic step backwardという感じであきれました。

たぶん、日本がこういう風におかしな方向へ流れやすいのは、英国の「コモン・ロー」のような思想が欠落しているからだろうと思う。だから細部の上げ足を取り、「読み方を変えて、追及をかわして、悪の首根っこが押さえられない」。

見渡してみれば、驚くほど、そういう些末条文主義がはびこっている。これを抜け出ないかぎり、明治時代からのボタンの掛け違いは克服できないのではないか?と私は考える。

不遇と成功

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寝る前は本を数ページ読んで寝ることが多い。

これは内容を採り込むというのではなく、数ページ読んで考える。

つまり考えるタネです。

今日はたまたま買い物の帰りに大型古書店の中をのぞいたら、ヴァチカンの美術展のカタログが300円であったので買った。

中にミケランジェロの手紙のオリジナルの写真と、世の中に知られているのとは別の、弟子が描いたレオナルドとミケランジェロの肖像画がでていた。

苦悩の塊のようなミケランジェロ。きわめて優雅で貴族的なダ・ヴインチ。

今から眺めると、2人とも世界史に名を残す大成功者ですが、国王に賓客として招かれてフランスで世を去ったレオナルドと、名声にもかかわらず一生貧困にあえいだミケランジェロの、人生がそのまま顔に刻まれていると思った。

ある種の職人と芸術家は、世俗的成功に背を向けている。むしろ、特に経済的成功をさげすんでいるくらいの人も少なくない。

小説家でも詩人でも音楽家でも、「魂を売ってまで成功しなくても、いまのままでいい仕事が出来ればよい」と考える人が昔は少なくなかった。

そういう人がバブルの後、極端に減った気がする。

先日の週末、集まりで出したお菓子を作っている人はじつは芸術系の大学を出ている。その人がしみじみと、
「儲けようとか、そういう考えではじめなかったんだけれども、このままだといけないのかなとも思う」
と言っていた。彼らの粗利率がものすごく少ないのを私は知っています。夜明けから、時としては深夜1時まで仕事をしている。

もし彼らのお菓子が「金を儲けて金持ちになる」ことを目指して作られていたなら、たぶん、私は素通りしていただろうと思うし、意気投合することもなかった。

これは人のタイプが大きく2つに分かれる分かれ道だと思う。

現代では「喰ってゆければいい」という生き方が難しくなっていると思う。

先日ブログで書いたブティックのオーナーが面白いことを言った、
「2000年を超えてから、ものすごく貧富の差が広がったじゃない。だから価格が気になるような人のゾーンってのは『欲しいんだけど、どうしょうかな~、考えます』で終わっちゃう人たちがほとんどだからサ。商売としては難しいんだよ。そういう人たちは、ない金使うんだから、またもっとも金の使い方にシビアだから、ちょっとほつれがあっても負けろって言ってくるもんだよ。そうかといって、金のある人はブランドへ行くし、低価格商品では海外生産の大手にかなわないし、中間層の多様な面白い商品って、これからなくなるんじゃない。」

これは考えさせられた。

そう言う世界に入ってくる若者も減るだろうと言う気がする。

さて、一流ブランドになって幸福になるか?多くの芸術関係者もその中で疲れ果てる。

ミケランジェロの自筆の詩の原稿が本に載っていた。
「いつも他者のなかに自分を見る者たちによって、
 私の一日は台無しにされる」

デザイナーも画家も、彼らを「ブランド」として自分をその中に投影して見る人たちがいる。
「ここをこういう風に直してちょうだい」
ディオールもサンローランもそういうのでさんざん苦しめられた。サンローランは毎年変わるファッションとオートクチュールから足を洗って、男性における背広のような女性服の定型を確立させようと一時期思ったという。

画家も、
「先生、花は1本でなく3本にしてください」
とか言われる。

ミケランジェロも、
「その彫像は鼻が高すぎる、もう少し鼻を低くしてくれ」
と言われて、大理石の粉をもってはしごを登り、削っているふりをして粉を落とした。
「ああ、それでよい。ずいぶんよくなった」
と注文主は言ったそうである。

苦悩のかなりの部分はこのあたりの2つのタイプの不協和音から来る気がする。

フランク・パターソンの発想

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先週末は、ずいぶん遠くからの参加者がいらっしゃったので、できる限りそれに応えられるようにと、パターソンの原画を手に取って見られるようにしました。

彼の絵にはこのアップした写真のように、セピアインクを使ったものもある。これは印刷の時「あみかけ」というプロセスを経るので、細かい細部のニュアンスが印刷ではつぶれてしまいます。

彼の没後に出版されたパターソン・ブックでもセカンド・パターソン・ブックでも、セピアインクの塗りつぶしが入っているものは数えるほどしかない。

うまく当時の印刷では再現しないので、パターソンもたくさんは描かなかった。多くは再現性のよいペンの線だけで描いたもの。

ただし、この絵のようなものは、やはりセピアインクでないと描けない。下の方に「THE HAVEN」と書いてありますが、これは数種類の洒落になっている。

暗い、木々の影になっている、長い地獄の登り。登り切るとパブがあり紅茶かビールかにありつける。

登り切ったところの道標は十字架のように見える。

THE HAVEN は寄港地、停泊所、の意味ですが、THE HEAVENと韻を踏む。 THE HAVEN でも THE HEAVENという名前でも、パブの名前でもおかしくないようなところがある。よくある名前に「THE WORLD’S END」などというのもあるくらいです。

この絵の裏にはパターソンの鉛筆の書き込みがあり、『月曜日の正午』という題が付けられている。

月曜病というのがありますが、月曜日に自転車で出かけ、世の中がウイークデーの昼にこういうところで食事をするのは格別だったでしょう。それもNOONというのにも意味がある。

それは英国の昼食は午後1時からが普通だからです。

つまり一番乗り。他の客はこれから1時間ぐらいは来ない。自分は自転車に乗って腹ペコ。その、のどかな時間こそが、まさに天国なわけです。パターソンの絵には多く、そのような含みの余韻が大きく残されています。

この写真ではガラスが光ってしまっていますが、原画で見ると、右の影の部分も『半調子』サブドミナントが的確に出ています。樹の影も、地獄の登りにふさわしく、どくろに見える一歩手前のようでもある。彼のイラストは単なる挿絵ではない。もっと、詩情に訴える読み込みが出来るものであると思う。

古風な人

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コンビニの前でエビアンを飲みながらゴールデン・ヴァージニアで一服していたら(なんたる違和感)、75歳ぐらいの老夫婦が28号をのぞきこんでいた。

近づくと、奥さんのほうが、
「もう、主人は自転車が大好きで、変わった自転車があるといつもこうなんですよ。」
「いやぁ、こういうのは面白いな。サドルも革の良いのが入っているし、ベルもしゃれている。昔もこういう感じのはあったけれど、これには競走用みたいな変速器が付いているものな。私の若いころは軽快車なんてのがあってね。でもほとんどは3段変速しかなかった。テリー型っていうドロップ飴みたいな色をしたビニールのバネ入りサドルが入っていた。しゃれているんだけど、サドルのヘリが当たって、革のサドルには乗り味でかなわなかった。これは乗りやすそうだ。」

ひとしきり眺めたあと、自動車に乗りこんで帰ってゆきました。

こういう上の世代の人に妙に気に入られるというのは面白いことです。

その昔、シェットランド島から来た羊毛つむぎの名人のおばあさんSUEを、東京で民芸関係の博物館やら民家園やら案内したことがありました。たいへんなねこ好きで、どんな場所でもねこを見ると「ウィリ、ウィリ、ウィリ、、」という英国人がねこを見ると発する呪文を唱えつつ、ねこのあとをついていった(笑)。

その彼女に、
「貴男、英語も英国英語で、振る舞いも英国そのものなのに、貴男のそのジャンパー(アメリカ英語でいうセーター)、とても非英国的だわ。」
とあるとき唐突に言われた。Who cares ?というところだが、
「へぇ、でもこれは英国で買ったんだけれどな。」
「英国の羊毛の専門の私が断言するんだから間違いないわ。」
「でも、英国製だから、このデザインは現代英国なんじゃないの?伝統柄ばかりじゃ、自分より高齢者にしかモテなかったりするかもしれない。」
「そうは思わないわ。だいたい若い世代でも、少なからぬ女性は父親の服装を見て、それが男性判断の一つの指標になっているものよ。自分の父親と比べてどうか?同じ雰囲気だけれどこの人の方が良いとか、そう考える人は少なくないものよ。

なにより、、娘の彼氏を娘の側に付いて、後押しするかどうかは私たち年上の世代ですからね。年寄の言うことはきくものよ。古風であることは英国では悪いことではないわ。」
と言われた。

う~~~~~む。

私もズボンの股ぐらが膝のところに来ているような男を娘が連れて来たら、「オマエ、ほんとうにあんな猿股ズボンの奴でいいのか?」と言うだろうと思う(爆)。

その話を私より30歳ばかり年上のバーバラに話したら、彼女もその通りだと言う。
「私も父親のイメージが強いので、結婚するならパイプを吸う人が良いわと思っていたくらいだもの。」
との話。ますます唸る。

日本でも、男女とも「古風であることは悪いことではなかった」時代がずいぶん長くあった。古風なことが否定的になったのはいつごろからだろう?とよく思う。

現代日本でも、ジャック・タチの『僕の伯父さん』などは若い女性の人気が支えている。あれも、絶滅危惧種の飄々とした父親のイメージでしょう。ツィードが流行っていますが、ツィードは10代や20代の前半で着る人は少ない。あれは男として熟してきてサマになる。

私はSUEのアドヴァイスを取り入れ、さっそくそのセーターを作業着に下した(笑)。そして1928~1955年ぐらいの『絶滅危惧種』の男を目指すことにした。

英国で、その時代の自転車に乗り、そういう服装をした。不思議なことに、『開けゴマ』のようにどんどんドアが開いた。列車の中で話しかけられる、パブでの応対が変わる、店の応対が変わる。

漱石の坊ちゃんのなかに清が坊っちゃんを、自分で作ったように誇るというくだりがあるが、人間国宝的な羊毛の職人のアドヴァイスで選んだニットを着て、服飾アドヴァイスも受けて、仕立て屋のウッドの親爺のところに行ったので、彼もまたいろいろとおせっかいを焼いて教えてくれたのではないか?と思う。

かつての英連邦や他の中東の国から来る人たちのなかには自国流で押し通し、決して英国的にはならない人もいる。ロンドンの街中でイタリアのスポーツカーを飛ばし、中では白い砂漠の装束を着ていることも珍しくない。

そういうのは「イントルーダー」(闖入者)であって、その土地にレスペクトを払っていないわけである。それからすれば、「古風な英国式」の人は、いわば彼らの伝統に最高の敬意をはらっているわけで、彼らの受けが良いのは当然であろう。

ファッションは私は流行の後を追うものではないと考えている。その人の価値観、生き方を発信する部分がある。それに関してはTIMELESSな部分は当然あり、そこには古いも新しいも関係はない。

繰り返しの良し悪し

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30数年前の英国の街頭の新聞売りの呼び声は実に不思議だった。

ある者は「ニックル」と叫び、別の者は「イ~~~~ヴンタァ~~」と叫んでいた。前者は「クロニクル」、後者は「イヴニング・スター」と言っているのだが、毎日、同じようなことを繰り返しているうちにまるまってきて、そういう具合になる。

定型がないので、人によってまるまりかたが違った。

日本でも最近はそう言うことがなくなったが、四十?年ほど前には、新幹線のなかで「マクノッチイェント二、ャカガデッカ」と言って売りに来る人がいたのを覚えている。

その売り子が社内で脇を通過してはじめて何と言っているのかわかった。
『幕の内弁当にお茶いかがですか?』

英国でコンダクターが列車内で切符拝見に来ると「ター」という。これは「Thank you」の省略形。

人の日常は多かれ少なかれ繰り返しの要素があるから、半世紀以上も生きていると、その人の生まれつきとか、個性よりも『タイプ』というのが濃厚になって来る場合が多いと感じる。

私の絵の師は晩年はルノアールそっくりだった。神主と仏教僧侶が一目で違うように、トヨタの営業の人とマツダの営業の人はなんとなくわかる気がする(笑)。理髪店主や美容師さんにも相似形のひとはけっこういる。

ピアニストなどの場合は、ジャケットの写真で見間違えるくらい似た人が少なくない。指揮者も同じ。カラヤンとバーンスタインは晩年は横顔は同じタイプに見える(カラヤンは若いころ那智巣、バーンスタインは猶太であるにもかかわらず)。

自転車の世界でも碩学ジョン・ピンカートンとノートンの創業者ジェイムズ・ランズダウン・ノートンは見分けが付かないくらい似ていた。ジョンは自転車だけでなく、サンビームのモーターサイクルやマチレスの競技用の挟角Vツインなどの古いバイクもやっていました。

さて、本題です。

ある年齢に達すると、日本では急激に交友関係が広がらなくなる傾向にあるように思う。これはもう会社員時代からぼちぼちはじまる。

そこから歳をとると、友人サークルも行動半径も狭くなり、自分の居るエリアにかなり密着型の人生になってゆくように見える。

ここでの知的刺激の入りかたと交友関係の固定化という現象が、ヨーロッパでの生活と大きく違うところだと私は見ている。

多くの人が「当たり障りのないゲートボールのような村的集団に帰属」したり、安い店での井戸端会議のようなところに落ち着く。

いや、ゲートボールが悪いわけではない。見ていると古い自転車の変速器をいじって口角泡を飛ばしていたりするのも、姿を変えたゲートボールなのです。他の趣味の人や、若い10代、20代、30代の人が入ってこられないことに変わりはない。『村のオキテ』、「仏蘭西村でR&Fの名前は出すな」(爆)。

この人生の後期での『繰り返し生活』が、人を内面から急速に老けさせるのではないか?という気がしてならない。同じ老人的な日常の繰り返して、『老人と言うタイプ』になってゆくのではないか?

正直な話、35歳から今の私までは実に早かった。さらに言うと、歳をとったという実感もあまりない。

自転車で都心まで出るのが肉体的に無理だとかつらいということもない。ただ、行ってもあまり面白くないと感じるので、走って楽しいエリアばかりをうろうろしている。たまに鏡を見て、病に倒れる友人を見て、自分も若くないと思うばかりである。

私は繰り返しに飽きるタイプなので、『一度終えたクロスワードパズルをもう一度やる気にならない』。

Our hands are full of business.

私の御同輩をみると、『繰り返しの倦怠』という『内側からのサビ』にやられた感じの人、『現世的成功というサビ』にやられた顔の人、逆に『うまくゆかない不満と、人生の先が見えたサビにやられた感じ』。そういうサビが、表面のツヤツヤしたところに溶岩の穴のように見え隠れしている人も目に付く。

サビに喰われた外観の崩れは必ず若い世代の人や、女性には見える、と私は思っている。

繰り返しが避けられないものであるなら、淡々と、毅然とした姿で年輪を重ねたい。芸術家や職人の名工といわれる人たちにはそういう人がいる。

新聞の売り子の掛け声のように、誰にも識別できない人物になったら虚しい。

フランスのあるダンディが言った。『できれば立ったまま死にたい』。

全力で走っているところで終了し、そのまま星座になるのが最高かもしれない。

物の顔色

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古物が好きな人はよくご存じと思いますが、鉄瓶でもお盆でも使っていないと『顔色が悪くなってくる』。

私は古いものを買う時、『これは顔色がすぐ戻るかな?』ということをよく考えます。

鉄瓶でもお盆でも、前の人がちゃんと使って、気に入って愛情を注いでいたものはすぐ良い顔色に戻る。

財布を買い替えると、しばらく持っていないと、古いものがビックリするほど汚く化ける。「なんかの時使うかもしれない」と思って取っておいて、6か月後ぐらいに見ると「あれっ?こんなに汚かったかな?」とよく思う。

たぶん、日常的に使っていて、持ち主の「気」が注がれていた時は、使い込んだ貫禄があるのですが、それが放置されると「気が抜けてくる」。

それが再度使って、気を入れて元に戻るものもあれば、恐ろしく気を吸われる一方で戻らないものがある。

これが「気が枯れた」状態で、それが「けがれ」に通じるという説があります。

そういう物はじつはほとんど死んでいる(笑)。

これはずいぶん古物や古い自転車のレストアで体験した。「気が枯れたものにとりころされる感じ」。

おとといは、仮組の自転車にまたがりに見えた方があって、古いモーターサイクルの話で盛り上がったのですが、ほとんどの古いバイク専門のところは行き詰まっている。あのくらいの機械になると、「気の枯れ方」も激しい。それを仕事で何台もというのは気力的に無理だろうと思う。多くのショップが立ち行かなくっているのは、バイク好きの方ならご存知の通り。

うちの表にも古いループ・トップが停まっていますが、私のところへ持ってこられた時、長年、ホコリも払わず、油も差されず、ワックスもかけられず、完全に「気が枯れていた」。

じつは私は一度それを完全に修復して、写真に撮り、本に載せ、そしてその方に渡した。たぶん、今一度レストアしても、また穢れて戻ってくると思う。その方のほかの古物もすべて「気が涸れている」ので。

正直、「穢れていて、触るのも嫌」だ。「なんとか綺麗にしてください」と言われても、それを綺麗にするために、どのくらいの私の生命力を注がないといけないのか?

人間の生命力というのは有限なわけで、たぶん、1生のうちに「気」を注げる量というのも決まっている。

断捨離というのは、その注がなければならない対象を減らす意味もあるのだろうと考える。

自転車とかさまざまなものを集めている人の、壁や天井にぶら下げられた自転車のスポークがヤニにまみれ、油煙が付き、気が涸れ、穢れた感じになっているのをよく見る。

たしかに珍しい名車なのだが、『6か月放置された古いほうの財布』のようになっているのに、当の本人は気づいていない場合が多い。

これは山の中の廃屋がいかに早く朽ちてゆくかを考えてみればわかりやすい。

私は人間の作るものはすべて生命活動の外殻にあると思う。

自動車もバイクも自転車も、あまり乗らないでいると、たとえ錆びていなくても、どんどん気が弱まってゆく。

これは不思議なもので、陶磁器ですら同じことを私は感じる。

あまり使っていない「これは良いものだな」と感じるものでも、気力をとられそうなものには私は手を出さない。

昨日は、買い物帰りに胡桃油を買ってきた。

私の曾祖母が使い、祖母が使い、母が使い、私が現在使っているお盆を磨いた。そういうものはすぐ元の顔色に戻る。

古い乗り物もそうで、すんなり路上に戻せるものは、やはり前の持ち主にきちんと扱われて、幸せな使われ方をしてきたものだと言える。

そういう物は使っていてホッとする。私はそういう良い縁の幸せなものに囲まれていたい。

どんな名車でも、貴重な凝った作ゆきのものでも、本当の深い満足は、そこを外しては得られないと思う。

結局みんなが困る

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日曜日も休日もなく、切れ目なく働いている。これを時給計算してみると、ハンバーガー屋のレジ係より安い。これは自転車というものの今を考えると、そういう構造不況業種に貶められてしまったのだからしかたがない。

ある一定のところで、ぼちぼち一切新規の28号の受注は停止して、あとは高齢者用の分割車両だけの生産にしようかと本気で考えている。その分割仕様の車両に関しては、一切の妥協を排し、金額的にも一切手加減しない。私が考える価格にして、高くないと思う人が買えばよい。

うちは1台作るのに60~80時間かかる自転車を台湾製と同じ価格でやっている。それは価格を上げて敷居を上げると、こういう自転車によって地平が広がるはずの人を排除することになると考えたから。

ところが「ああ、そのくらいの価格なら、もう少し足して古いオールカンパにして、、」などと考える人が後を絶たない。

Zのお爺ちゃんがルネにメフィストのリムを頼んだら「あそこはもう生産していない」と両手と首を横に振って「やらない」と言った。フランスだって1970年代にすでに自国の絶版部品で組むようなことは断っていた。スューカは持ち込まれたスピラックスの変速器を客の眼の前でゴミ箱につまんで落とした。

部品をああだこうだという客の意見は一切聞かない具合にするつもり。先日も『クランクはカンパの古いものでないと嫌だ。新しいクランクには美がない』というような方がいて、古いカンパのクランクを海外から取り寄せた。みごとにジャンク。左クランクの穴が広がり、右クランクはかすかに後方へねじれていた。数万円のロス。つまり、カンパのクランク2セット。その方の自転車は私が『無料奉仕で数十時間かけて作るのと同じ』ということです。

スギノを付けておいて、まず乗って、それでダメなら自分で交換と言うべきでしょう。これは自分でクランク交換が出来ない人がカンパを使うのか?という疑問でもある。

『クランクを自分で交換する』ということは、後輪のチェンラインにも手を入れることになるわけで、これはホイールが自分で組めない人には難しい。なので『自分はシロウトですが、ハブはカンパでないと嫌だ』という方は、まず安いハブで練習して、組み方の腕を磨くほうが先ではないのか?と思う。

うちの車両はチェンステーに丸断面のチューブを使っている。オーバル断面ではないんです。

オーバル断面ではフレーム・サイズが大きくなった時にバイラミネィティングがうまくゆかない。鉄板巻き付けではたいして効果がないのは、いままでへチンズやクロード・バトラーに何十台も乗って体験ずみ。

通常、うちはチェンステーにつぶしをいれない。断面積が右側のチェンステーだけが小さくなり、フレームのウィップに右と左で裏表が出るのを嫌ったからです。チェンステーの左右で↑の写真ほど断面積に差があると、右のペダルを踏み込んだ時と左のペダルを踏み込んだ時の剛性の差は明らかに体感できる。私はそれが大嫌い。フレームは裏表なく左右の剛性が揃っているに越したことはないと私は考える。

ところが、クランクにTAの5ピンを持って来られると、ふと考え込んでしまう。TAは言うまでもなくフランスのBNA規格で、チェンラインは41mm。インナーのリングのサイズによってはフレームとの間は1~2mmしか開かない。そうするとチェンステーにつぶしを入れることになります。当然乗り味は変わってくる。さらに、丸断面のチェンステーを嫌味なくギアの逃げをとってつぶすというのは簡単なことではない。オーダーのところで丸断面フォークでBNAの41mmチェンラインに合わせてつぶしているところなどどこもない。

つぶしを入れるにしても、インナーギアが32Tか38Tかでつぶしを入れる場所は変わってくる。どちらでもいけるようにべったりつぶせば、右側チェンステーの剛性が極端に落ちる。

フロントのギア側が41mmということになると、リアのハブ側もチェンライン41mmをもってこないといけないわけですが、チェンライン43.5mmのリアハブで、左側が球押し→ベロ付きワッシャー→ロックナットになっていると、左へ2.5mm動かしようがない。ロックナットも焼きの入ったクロモリとかボロンで出来ていますから削って薄くするなどというのは考えないほうが良い。

BNAのハブで、そこそこ使えるとなるとマイヨール700とかですが、まず難しいネタです。あってもフリーのネジ込みがフレンチだったら、今度はフレンチのフリーを探すことになる。そのフレンチねじでロー28T?そんなのを探していたら何年かかるかわからない。

そういうのはもはや時流に合わないのです。

少し前に手紙が来た方があって、その方もTAのクランクを使うということで、部品を送ってきていらっしゃった。しかし、その手紙で「リアはシマノの完組ホイールで10段にする」と書いてあった。

これはどうなのか?10段用の薄型専用チェンで、フロントTAのリングでまともに変速するとは思えない。チェンラインも合わない。どうするのかな?と思う。

こういうのは考え込んでしまうのです。考えて道筋がつかないまま作り始めるわけには行かない。

そうかと思えば、このあいだの11日に完成したフレームをお見せして、今日、日曜日にすでに試し乗りして、あとは変速調整と泥除けだけ、という方もいらっしゃいます。

そういうことを考えると、「ヘッドはハッタでないと嫌だ」とか(うちの問屋にはない)、「古いこの時期のカンパでないと嫌だ」とかいう注文は今後は一切受けないとするのがみんなのためだと思う。

暗い未来

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日曜日の夕方、うちの自転車に乗っている方と喫茶店で会ったのですが、
「何か面白いものとかありましたか?」
という問いから、グーグルのエリック・シュミットの「第五の権力」の話題になった。

その方、デジタルの方面の、プログラム開発の専門家の方なのですが、第五の権力を読んで人類の未来に対して、暗~~~い気持ちになったそうです。

インターネット世界に一旦流出してしまった情報は消去できない、、ということから始まって、じつは運転免許証の顔写真もデーターベースに多くの国で入ってしまっているので、道路のNシステムやさまざまなところのビデオカメラの画像を検証すれば、誰が何時、どこにいたか?はすべてわかってしまう。

ずいぶん前のボンド映画、ダィ・アナザーディのオープニングで、ヘリコプターから降りてくるボンドを携帯電話で撮影。「送信」とかのボタンを押すと「英国秘密諜報部員、所持するのはワルサーPPKとか」情報が数秒で帰って来る。

同じようなシーンはキルマーの「セイント」にも出てきました。空港で入管が顔認証でみんなをマジックミラーの裏で調べている。

なんでも顔認証の技術では日本はかなり進んでいるということ。顔の照合は民間のものでも数十万人分のデータベースから0.1秒で引っ張ってこられるそうです。

また、スマホなどで指紋認証にしている人は、そういう指紋の生体情報が盗まれていても気がつかない、ということも、現時点でかなりあるとのこと。

これは恐るべき監視社会の幕開けの気がする。

たぶん、そういう情報を盗みに仮想空間で暗躍すれば、両親、祖父母が何歳まで生き、どういう病で亡くなり、その本人が何歳まで生きそうで、現在どういう治療を受け、どういう薬を飲んでいるか?までわかるだろうと思う。

それって、保険会社とか住宅のローンを組むときに、「この人は何歳ぐらいで生き絶えそうだ」とかの参考資料としては第一級でしょう。

思想傾向とかもすべて付随情報として集めることが可能。

さて、さらにネット上ではさまざまな危険な、いままでは普通の個人では作れなかったようなものの情報が氾濫している。BAKUダンの作り方などもそうで、それが昨今の手炉離ストの跋扈するもとになっている。

現代、インターネットにアクセス出来る人は『地球規模でみたら裕福な人』と言えるだろうと思う。

それが今後、貧しく、現状の世界に不満がたまり、これらをすべて破壊しようとする危険な人たちがインターネットに入ってくることが予測される。そうすると、世界はもっと不安定になり、紛争の火種は増え、またもう一方の陣営は、徹底監視の体制を作るだろう。

そういうことが数多く書かれていたので、読んで憂鬱になったということでした。

私は、もうひとつ。インターネットのような技術がすすんでも、ニーチェがよく言っていた『ルサンチマン』の情念の炎はしずまるどころか、逆にメラメラと燃え上がる気がする。

私はこのルサンチマンの人からの顔の見えない攻撃で、個性的な人、大多数の人とは違う見解をもつ人たちがかなりやられるのではないかと思う。

もしガリレオがインターネット時代に生まれていたら、「地球はこたつの天板のように平たい」と信じる連中に徹底的に掲示板で個人攻撃され、鬱でひきこもるまで攻撃の手が休められなくなっただろう。

ワーグナーなども「不倫の鬼」とかやられ、ゴッホが自作をYoutubeにあげたら「オマエすげー下手じゃね?」とか書かれたのではないか?

私は漠然とですが、そういうがんじがらめのインターネット世界から逃れえるのは、徹底した手先の技能の人だと考えている。

どんなにインターネットサーフィンを繰り返しても、レンブラントやゴッホのように絵が描けるようにはならないし、大雅堂のような墨絵が描けるようにはならない。

漆の蒔絵が出来るようにもならないし、パソコンのキーボード操作で木造の伝統家屋は建てられない。

コンピューター社会が広がるにつれ、「持っている情報の均質化」が起こると思う。そこで『ネットに出ていないものをいかに頭のうちにもっているか?手わざのうちにもっているか?』がこれからの勝負になると思う。

ネット上でいくら情報を集めても、情報だけで自転車のホイールが組めるようにはならない。

また、人間の脳の機能として、『仮想世界で集められた情報や、映画や動画のような仮想体験はある程度脳に大量に入ってくると、そういう摂りこみ方自体に飽きる』と私は思う。脳は「それが仮想のものであると気が付かないほどバカではない」。それにマヒするということは、『脳の現実認識能力が衰える』ということで、そういう仮想と現実の境がぼやけた人ほど不幸な人はない。

そういう仮想―現実の境界がぼやけた人の人生は、幽霊の人生のようだろう。人生の最後はパソコンを閉じるように終わるしかない。

これは私はある種の日本車のナビが付いた自動車でもそう思う時がある。なんだか座敷で、大画面でテレビを見ていて、道路に出たような感じがする(爆)。

英国の1920~1963年ぐらいまでのオープンのスポーツカーとかスポーツ・サルーンには、そういうヴァーチャル感は一切ない。

パソコン世界も自動車も、街へ出ても、もやもやした雲の中を歩いているように感じた時、道路からの振動や空気の流れを感じ、自転車に乗って、植物や川の香りをかいでみてはいかがか?

優雅なる没落のススメ

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高校生のころのことですが、学友と「おごる」とか「おごってもらった」とか言うと、祖母に「おごるなんていうのは良い言葉ではありません」と言われた。

明治・大正の書いたものを読むと「合力しようか」と書いてあって、古き良き日本を感じた。幕末のものにも「合力いたそうか?」などと出てくる。

つまり懐の銭を読んでから、食事に店に入ったり飲んだりする貧乏武士に「足りない分は俺が出してやる」という、ある種の共同体意識、同胞意識といってよい。

これは私は父にもよく言われた。中途半端なものを買ってもしかたがない、気に入ったほうを合力してやるから買っておけ、という具合。

今のような時代には、この「合力」という語、再びはやってもよいのではないか。

昨晩、いろいろと話している時、「経済成長しなくてはいけない」という思想が、じつは高度成長期以来の、もはやカビの生えた古臭い考えなのではないか?という話になった。

私は明治文学や大正文学を読むとよく目にする「零落した」という単語に妙に惹きつけられた。

どのような家でも、個人でも、店でも、国でも、『栄枯盛衰』ということは避けられない。

それでも、100年、200年、300年、400年、500年と、低空飛行しつつも生き延びるところがあるのはなぜか?ということを大学ぐらいからいつも考えた。

ヨーロッパだと没落したとはいえ、けっこう優雅にマイペースでやっているところは少なくない。じつはこれは「ものすごい厚みのあるノウハウなのではないか?」とよく思った。

商店でも150年以上やっている店の数が、日本、英国、イタリア、オーストリアにはかなりある。日本周辺の隣国にはほとんどない。あるいは、あっても、まったく比較にならないほど数が少ない。

みんなそういうところは、守りに入って固めてしまうと、表でかなりの経済嵐が吹き荒れても何とか生き残る。それで百年の桁で生き延びている。

これは個人の家でも同じようなことが言えるのではないか?

私の同級生で脳溢血をやった人が、買った家のこともあって65歳まで働き続けないといけない、と言っていましたが、それはきつい。それで家を何とか残しても、今度は自分の寿命が短くなって、それを次世代に残したところで、現代家屋ではうわものは建て直さざるおえない。寿命が縮まった分、つけがくる。

私は学生時代から「たこつぼ、亡命貴族生活」を目指していた。

学生時代は自分でクルマを買わず、みんなにけっこうバカにされていましたが、あの時代運転を練習した家のクルマは『筒型アルミヘッドランプの一番最初のスバル』と『ヒルマン・ミンクス』で、今から考えればけっこう贅沢な最初のチョイスでした。筒型アルミヘッドランプのてんとう虫など、いまではちょっとやそっとの金額では買えない。

自室ではムラーノ島の18世紀のヴェネシャン・ガラスでワインを飲んでいた。デキャンタ―もぺタル・ファセット・カットという英国の18世紀のもの。高級絨毯を敷き、アパートは別世界にしていた。

友人たちはアパートにやってきたし、料理は自分でやり、お菓子は彼女が作ってもってきた。なので、外食には一切金が出て行かず、節約した分はまた食器や書籍に再投資。あとは塾で教えてけっこういい暮らしが出来ました。

ひとたび、そういう生活様式がかたまってしまうと、あまりお金を使わなくなる。たまに外食するときは『味を覚えに行く』ぐらい。

昔は、そういう具合に名店に味を覚え、自宅でなんとかそれを再現できないか?とやってみている人がたまにいましたが、このごろは聞かない。

英国のある没落貴族の人が、ティーショップにはここ20年間一度も入ったことがない、と自慢していました。たしかにその人、自宅でずっと美味い紅茶と、親友の持ってくるケーキを食べていたので、入りたいとも思わないのでしょう。

人間、自宅で飲んでいる珈琲・紅茶より不味く、インテリアもよくないところには、打ち合わせとか、何かの用事がない限り入らなくなる。

うちへよく来る30代の若手には、そういう『城』を固めてしまうように助言している。

そこまでが出来てしまうと、自転車で徘徊して、健康に留意し、大病をしないように気を付けていれば、かなり外部要因でゆすぶられても強い。

これはたいして難しいことではない。昔は、トヨタがパブリカを作った時、20歳前後の人に売るつもりであの自動車を作った。しかし、現在日本の20歳前後でハチロクは買えないでしょう。

では、もう少し現実的なところで、130万円ぐらいで中古の自動車を買うつもりになって、その130万円で、何が買えるだろう?

一生ものの純銀のティーポットを海外のオークションで買って、10万円、ティーカップ、珈琲カップのそうとう良いものを買っても20万円もかからない。アンティークのかなりよい家具を買って、日常乗りのハンドビルトの自転車を買って、旅行の補助手段の乗り物として、ブロンプトンかBSMでも買ってはどうか?それでもおつりがきて、ヨーロッパへ美術館めぐりの旅行が出来る。

あとは月2万円を『駐車場代』と思って、味を覚えるために名店へ行く。それを3年間やれば、料理の腕が上がる素地は出来上がるだろう。

車検の積み立て、保険料、修理費用、ガソリン代に使ったと思ってコンサートへも足を運び、良い服を買う。

これはかなり優雅な生活になるのではないか?人間は稼げる額は有限ですから。有効活用しないといけない。

英国やオーストリアの没落貴族の子女でそういう生活の人をけっこう見ました。そういう生活での体験は、流行りのものを追いかけるだけで、お金がどんどん流しから下水に流れるように出て行く生活の真逆といってよい。

ダイアナ妃が結婚したての頃、ロンドンで彼女が良く出没していた生活圏の子女の生活スタイルを書いた本があって、そこには『必須のアイテム』として、『家に代々伝わっている、エナメルで黒く塗られたメーカーのわからない自転車』というのがちゃんと載っていた。

そうして、ひとたび「経済氷河期」ともなれば、どこへでも自転車で出かけ、家ではすべて自炊。『本物の贅沢を知っている人は、節約生活をしてもやはり質の高い生活が可能』。

やがて経済の小春日和がめぐってくれば、ふたたび活動開始。それまでは充電に励む。

ある程度の年齢になったら、かつての『規模縮小』と同じように、『質を落とさず経済活動を小さく、負担なくやってゆき』、いよいよの時には次の世代に『一朝一夕には作り上げられないものを残す』。そうすると次世代はポールポジションでスタートに立てる。

残念ながら、現代日本では、昔ながらの老舗などのほかは、こういう伝承が不得手のようです。自分のこどもや次世代に「合力」するのは年長者の務めだと思う。

居心地

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居心地というのは奇妙なもので、それが場所のせいであったり、あるいは建物のせいであったり、そこに住んでいる人、あるいは店主のもつオーラだったりさまざまです。

すごい贅をこらした場所でも、まったくピンと来ないところもある。たいしたことがない場所でも妙に落ち着く場所がある。

自転車族はかなりこれに敏感な人が多い。

自転車で、す~~~~っと走っていて、「あっ、この辺りは嫌だな」とか「ここはいいな」というところがわかりやすい。あきらかに徒歩よりよくわかる。自動車ではわからない。

ハンドル・ダゥジング(笑)。

古い写真を見ていると、何を写そうとしたのかわからないのがある。じーーっと眺めていると、「ああ、居心地を撮ろうとしたのだな」と思い出す。それは居心地のよいものも写そうとしたし、豪華なのだけれども居心地が悪いものも写そうとしている。

悲しいかな、居心地というものはなかなか写らない。

昔の家やお城、館でたいそう豪華なものがありますが、寒々しいばかりで一向に居心地が良くない場所がけっこうある。これはこの間書いた「すべての、人によって作られるものは生命活動の外殻」ということからすれば、ド外れた贅沢な家などは、むしろそこにいる人間が少なければ生命力を吸われる感じがするだけ。

河原の石はどれも同じような丸まり方をしているものですが、その中でも「なんとなく良い形がある」。

贅沢もやりつくすと『素朴美』へたどりつく。

私はヨーロッパのドイツ・バロックとかが鬱陶しくてしかたがない。人為が入りすぎているものは、「まさにそこに入っている他人の手のくせが邪魔」なのです。

陶匠、加藤藤九郎が、仁清がたいへん達者なんだけれども、なんとも嫌味で我慢できないというようなことを書いていた。良寛の手のくせなどはいやらしくない。宗達もおおらかでこちらの心のうちのもやもやを吸い取ってくれるようなところがある。

これは自転車などでもそうで、装飾的であればあるほど鼻に付いてくる。ある種の曲線などもシンプルだけれど装飾的なことは言うまでもない。イタリアもののシンプルさも私はある日突然嫌いになった(笑)。

戦闘機のシンプルなラインはある意味、機械的、無機質で、『素朴美』の真逆にある。

彫刻家、アレキサンダー・カルダーの生み出した形とブランクーシの生み出した形は質が違う。同じ抽象でもニコルスンとモンドリアンでは真逆。ニコルスンやカルダーの形には河原の石のほのぼのとした柔らかみがある。

正直なところ、カンパニョーロのCレコードに私は「なごむ感じの居心地の良さを感じない」。

これは身のまわりの物→家具→家→家と都市をつなぐ乗り物→街並み→都市の景観と言う風につながっていると私は考えている。

先週末お会いした方は、時計は垂涎の的のもの、クルマはEタイプ、バイクはヴェロセットまでやっていた。それが今はカメラも整理しクルマも手放し、自転車が好き。その方、商館時計がいいと言っておられた。あれは素朴美の一つの細道の奥です。

偶然、もうひとかた、関西の人で垂涎の的の時計とカメラを、憑き物が落ちたようにほぼすべて処分して、古時計2個ばかりにしぼった方がいる。

世の中での最高評価のものが居心地がいいとは限らない。

だから光琳は遊びつくした果てに宗達に憧れ、ヴェルサイユには『農家』が建てられ、茶道の世界では豪華絢爛があきられた。

この「素朴美」という奴、なかなか難しい。茶人の間で評価が高い萩焼はじつにシンプルで素朴な良さがあるわけですが、ヤフオクなどでさっき見てみましたが、私が欲しいと思うのは3つしかなかった。

シンプルで素朴というのはじつは極端に難しいものだと思う。

しかし、そこで見つけた究極の素朴美は、終生の友となりえる場所だったりものだったりする。

ねこは居心地のよい場所をみつけるのの天才です。

夢の蒸発

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友人のブログを読んでいたら、「夢をあきらめないで」という歌のことが載っていた。

『夢』,,,,ずいぶんひさかたぶりに聞く言葉だ(笑)。

多くの現代日本の人は、「あきらめる」前に「忘れてしまっている」のではないか?

「貴方の夢は?」と訊かれたら、多くの人が「漠然とした紋切型の質問だな」と感じつつ、一方で「はて?自分の夢って、あらたまって訊かれるとなんだったっけな?」と思う人がけっこういるはず。

これを小学生にぶつけてみれば、「やきゅうのせんしゅになりたい」とか、ものすごく「遠い話」になってくる。それが歳をとるにつけ、良い高校に入り良い大学へ行き、良い会社に入るとか、ずいぶん眼の前のことになってきて、それが結婚して一軒家に住み、、、会社で出世して、、みたいな感じに、いわば「眼の前にぶら下げられた人参」のように夢は機能してきた。

さて、現代を見渡しても、昔は「電車の運転手さん」があこがれだったのが「自動運転」になりつつある。私が小学校にあがる前は、都電の中の切符切りの車掌さんをやってみたくてしかたがなかった。

そういう仕事はすべて機械にとって替わられた。

ジェット戦闘機のパイロットですらドローンにとって代られつつある。

自動車も未来はない感じがする。「アラビーなベイロン」だの「ぬりかべロイス」が欲しいという考えがよぎったことがない(笑)。

今みたいな道路状態なら、ヨタ八なども面白いなと思いますが、あのサイズのタイヤも入手困難でしょう。

私の世代は「いつかは蔵雲」の世代ですが、親戚共有車はいまや蔵雲。別に不都合はない。英国の古いクルマに乗っている時の「真夏の大渋滞が怖い」感じがないのがよい。

家にもあまり執着はない。30代で会社を辞めてフリーになった私はローンで会社の机に一生縛り付けられることがなくて良かったと思っている。自分の家の窓を開けると、隣の家の窓が開けられるような建売のために会社の奴隷になるのはまっぴらだと思った。

私は西洋のことわざにある「やりはじめたことは、やりはじめた時に半分まではやりとげている」という一言が好きだ。

うちのブログに来ている人をみると、40代、50代、60代が大半で、30代がそれにつぐ。20代はほとんどいない。

40代は大きな方向転換ができる最後のチャンスかもしれない。50代からは健康も、残り時間も、「時流に乗る新味」も難しくなって来る。

そこへ、夢の蒸発、気力の弱まり、体力の弱まり、残された時間の少なさに対するあせり、将来の可能性に対する『アミダくじの選択肢の減少』がさらに拍車をかける。

そこまでで、ある程度の充実感をすでに得てしまった人は良いかもしれないが、そうでない人はたいへんでしょう。うちのブログはそういう人(自分も含め)の、今目の前にあるもので面白くやる、ことをやっている。たぶんのぞきに来る方もそういうものを読みたいのだろうと思う。

歳をとるにしたがって、遠くにあった夢がどんどん近くのものになって、最後は「いま、眼の前にあるこの瞬間」になってしまう。これは夢を達成した人も、出来なかった人も同じ。

ある自転車の問屋の社長が言った、
「R&Fさんは気楽でいいよな。うちなんかは今日の米をどうしようかと、米びつの底の数粒をかき集めている状況ですよ。どうなっちゃうんだか将来の展望は見えないね。」

昔、数十年前、なかにし礼さんがテレビのご自宅訪問か何かに出ていて、リポーターが「ずいぶんたくさん本があるんですね」とびっくりしていた。なかにしさんが「うん。もっと偉くなるつもりでいましたから」と答えたので爆笑してしまった。

学生時代、レィモン・ラディゲの翻訳の本の訳者がなかにしさんだったので「歌謡曲の人がなぜ??」と思ったのが、その時合点がいった。

私は『夢は回り道もさせることがある』という印象を最近は持っている。

一方で、知らず知らずのうち道を外れて、違う場所に行ってしまうこともある。

私の父が亡くなった時、父の学校時代の先生が「貴方のお父さんは、若いころ、ロバに絵の道具を積んで絵を描いて放浪するのが夢だと言っていた」と初めて聞いた。

ヨーロッパでは「こどもが親の隠された願望の告白であることはしばしばある」と言われる。

私の叔父は消防庁の最新機材の発明などをしましたが、彼は夢は「自動車メーカーを興すことだった」と病床で私に言った。

遠くの夢が近くなり、ある時は蒸発して、それでも『自分の役』が見えて残る時がある。はたせる役があれば、夢は蒸発しても良いのかなと思う時がある。見る夢が正しいとは限らない。

このあいだ、若い人がきて、「R&Fさんの夢はなんですか?」とじつは訊かれた。
「う~~ん。そう言われるともはやないな~。」
「欲しい自動車とか、自転車とか?」
「自動車はDB4まではハンドル握ったことはあるしなぁ。いまでは欲しいクルマもないし。自転車は6000台以上乗ったしな。どこへ住んでもたいして差はないとも思うし。」
「でも、起こって欲しい出来事とか。」
「ある日突然、家のピンポンが鳴って、開けると、ギエムとかデデューが立っていて、自転車が欲しいとか言われるとか。(笑)。」
「なんですか、もう人のために作るのは疲れてきたとか言ってたじゃないですか。」
「いや、そういうのは別口だ。無理してでも、医療用ステンレスの板を放電加工で斬って、両面踏みのサイドプレートにイニシャルが抜いてあるような新型ペダルでも作ってさし上げる。」

歳をとると夢は妄想に化ける(爆)。
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