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Channel: 英国式自転車生活
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初心と野性味

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むかぁ~~~しのことでござる。

生まれて初めてイタリアの自転車に乗ったことを思い出す。中学生の頃で、名選手、フィオレンツォ・マーニに名前を取った自転車に乗った。

まだクルマの通りの少なかった甲州街道を疾走して、「これは鬼才の作ったものだ」と思った。乗り味がまったくの『外車』で、国産のスポーツ車とはまったく違った。

何だか知らないが、ビュンビュン行く不思議な感じでした。

ところが作りがヤワで、ブレーキはいつしか歪んできて、ブレーキレバーも曲がってきた。ペダルもきしむようになってきた。ブレーキをワイマンに替え、テンションの弱い下級グレードのカンパニョーロを国産に替え、タイヤを第一タイヤに替え、そうこうしていると、いつの間にか乗り味が国産車に近づいていました。不思議な感覚です。

これは28号の部品を入れ替えているうちに、同じようなことが起こり、『ああ、これはいけない』と元に戻すこともある。

これは『絵を描いている時に似ている』。

最初の一筆の純粋さというのは確実にある。音楽でもジャズでもクラシックでもそうですが、多少のミスがあってもファースト・テイクをレコードにしたりするのはよくある。

ハープシコードのヴィルチュオーゾ、ジョージ・マルコムなども、録音中にスタッフが物を落っことしても、ハム音が出ても最初の一発目の録音をレコードにしていた。

絵の場合、あるところまで描いた時、『絵を描き壊すのではないか?』という『おじけ』がきて、筆が伸びないということがある。

ものを作りだすとき、最初の純粋な一発目で、『うまく作が伸びる』ことがきわめて重要だと私は考える。

自転車を作る場合もそうで、なにやら特殊工作やら、凝ったことを後付けしようとすると、作がいじける。

絵の世界では「仕上げるまで筆が伸びる」と言うことを言いますが、我々はものを見る時「どれくらい丁寧か」とか「凝っているか」は見ない。そういうことは『単なる作業でできること』です。

うまく作が伸びているのは、作業では出来ない。

昨日、仲間が電話で、このあいだのアド街ック天国で上野広小路(2016年2月13日,21分目ぐらい)をやっていて、その中で歌舞伎の海老蔵さんが、御先祖が成田山新勝寺に奉納した鏡を、御徒町の江戸指物師に複製してもらう話をやっていたということを知らせてきた。Youtubeに出てきます。

職人が出された条件は『5年以内』ということ。それ以外は一切なし。その指物師の方、図面を作業場の脇に貼って毎日みている。しかし、すでに3年間何も手を付けていない。「ポンポン出来るもんじゃないし、これほどのものになると、気持ちをのせてゆかなければならないから。とりかかれませんね。」と言っていました。

この気持ちはよくわかる。お茶は濁せない。

先のフィオレンツォ・マーニの自転車のことは、食事にもあてはまる気がする。江戸時代の上流階級は長生きしなかったことが知られている。贅沢な手をかけた食事で、30代、40代で寿命が尽きる人が少なくなかった。

野菜でも魚でも、材料の生命力がなくなるぐらい手をかけたものは、逆に健康面からは良くないのでしょう。だから、武将たちは頂点に立っても贅沢品の白米を食べず、雑穀米、玄米、麦飯を好み、家康なども納豆などの庶民の食事を好んだ。

家康は『多摩八果』という野菜や果物を、多摩川の流域で作らせるため、農業の達人たちを全国から呼び寄せた。新鮮な生に近いものでないと摂れない滋養があるのを知っていたのだろうと思う。

贅沢な食事が続くと、ごそごそした冷たい蕎麦などが欲しくなるのは、そういう要求なのだろうと考える。

たぶん、これは『野生が残っている、生きの良い道具』などにも同じことが言えると思う。

カヴァリエ―レ・カルッチーノ

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このあいだ、クルマの車窓から、或る店の店頭で箱を運んでいる同級生を見た。こちらも急いでいたし、格別親しいわけでもなく、いまさら旧交をあたためようという具合でもないのでスルーしました。

ずいぶん変わっていた。彼は小学生時代、クラスの人気者だったのですが、いまや髪の薄くなって腹の出た普通の後期中年~前期高齢者に見えた。昔の栄華はしのぶべくもない。

いまやふつーのオジサン。

こんなことを書き始めたのは、昨日、たまたま「物に格調・風格負けする」話が出たからでした。

先々週、お会いした方と英国車談義をしたとき、「乗り手とクルマの釣りあい」の話になった。

いまもあるかどうかわかりませんが、ロンドンのキングス・クロスの近くに、古い名車専門のディーラーがあった。そこで似あうコートを着てみるように、ためしてみたことがあります。

ハンフリー・ボガードの乗っていたのと同型のジャギュアのXKのメタルトップであるとか、RRのシルヴァー・クラウドだとか、R typeのベントレーとか、綺羅星のごときクルマたちがあった。

我が身を振り返り(笑)、どうもRRとかベントレーなどの巨大車は身にあまる感じがあった。あれでさまになるには門から屋敷まで広大な敷地を横切り、乗らない時はスティブル(馬小屋)に入れておくぐらいの資力と、英国人の185cmの肉体が必要な気がした。

アレックスは180cm超級でしたが、日本へ来ていた時、友人から借りたマジェスタに乗せたら「狭い!ワシはエコノミー症候群が怖いから、これはnot acceptableじゃ」とか勝手なことを言っていた。

「これより大きいと日本ではセンチュリーしかない。そんなクルマはレンタカーではないよ。」
ずいぶん困った。「だって、貴男のやったクルマはもっと小さいじゃない」とほとんど喉まででかかりましたが、さいわい、友人がディムラ―を手配してくれた。

アレックスは密かにベントレーを持っていました。メディアに露出するときは小さいのの前に立っていたりする。RRやベントレーのサイズは、英国人の180cm~2mクラスの人の基準になっている気がする。トップギアのクラークソンなども185cmぐらいのはず。

さて、自分はボガードのジャギュアに乗れるほどrakishではない。185cmの押し出しも恰幅もない。自分との釣り合いを考えた時、P5Bとかラゴンダぐらいかなと思った。アルヴイスは英国に住めばわかる。東洋人が乗れる感じではない。むこうで乗っている人たちはことごとくポアロのヘィスティング大佐風とか、炎のランナーのロード・リンジー役のヘイヴァースみたいな人ばかりがオーナー。

これを裏返して見ると、マリリン・モンローが振袖着たような感じ。大島着たジェレミー・クラークソンとか。そういうのの真逆。

ヨーロッパの人は肩幅がなくても前後に胸板が厚い男性が多い。そして手足が長い。そういう人が英国の3つボタンのツィード・ジャケットを着るとさまになりますが、肩幅があって胴長、手足が短めの昭和体型に3つボタンのジャケットは似あわない。

『汝自身を知れ』デルフォイの神託(笑)。

身体的な制約を考えに入れつつ、自分の風格を育てるように頑張る。背伸びはしない。

江戸時代には、白髪が出ると「風格が出てきた」と喜んだそうですが、今は逆。江戸時代の刀のこしらえなど見ると、『若い者は風格負けするような重厚なもの』がある。『軽い感じの騎士』では無理。

こういうことはすべての物に言えると思う。自分などは金無垢の懐中時計などを持つ器ではない。煎茶碗なども金襴手などが似あうはずもない。

自転車は残念ながら、そういう歳をとったひとのための重厚な貫禄の物が市場にほとんどない。

自動車はある歳になったら運転は他人にまかせればよいと私は考えている。数日前電話で、
「歳をとったら、P4のバックシートに楽なジャケット着て、魔法瓶からお茶を飲んで、運転は若いのにまかせればいいんじゃないか。P4だとクロスプライのタイヤで直進に気を使うとかも、後席に座ってる限りは関係ないよ。バックシートの居心地がよければ、運転している奴の苦労なんかどうでもいいんじゃないか(笑)。」

自転車はそうはいかない。これは徘徊の道具であり、健康用具なので。

ここ30年ぐらい、「風格が出る文化」の真逆を日本はやってきたのではないか。気が付いてみれば、テレビは『学園祭』の延長で『クラスの人気者』と似た感じの人たちばかりになっている。秋葉四十八手なども『新陳代謝して常に若く』という路線。「卒業してからクラスの人気者はどこへゆくのか?」。

趣味の話

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よく「趣味が良い」とか「趣味が悪い」とか言いますが、最近、「この趣味というものが干上がっている」ように見える。

ティーカップがいくつかあれば、持ちやすいとか持ちにくいとかいうことがあって、量がこれでは少なすぎるとか多すぎると言うことがあり、ふちの口当たりが良いとかダメだということがある。

それでもものすごく美しければ、多少の使いづらさには目をつぶるかもしれない。

使ってよければ美しくなくてもかまわない、というのは趣味がない。

水道が出来る前は江戸では上水を使っていた。便利だけれども長い距離「かけい」のような「とい」のようなものの中を流れてくるので味は良くなかった。一年に一回掃除をする手間があり、くみあげる手間はあったが、良い味の水を求める江戸っ子は井戸を大事にした。

これは水の味がわかるということでしょう。

『水の味なんかどうでもいい』というところに、お茶や珈琲の趣味は成立しない。

この水の方がお茶が美味くはいるということで水を選び、この鉄瓶でお湯を沸かすと甘い感じになるが、こっちの鉄瓶で沸かすと生臭い感じになる、、と鉄瓶を選ぶ。

さらに目を楽しませるものとして美しいものを選ぶ。

私の中で、趣味と言うのは『総合的なもの』で、感覚を澄ませたところのものだと思う。

その意味、『自転車なんかなんでも大差はない』というのは、鉄管臭い赤水やカビ臭い水でお茶を飲んでいても平気というのと、私は同じレベルと考えている。

使いにくいティーカップは引っ越しの時に捨てて行くかもしれない。愛着がわかないでしょうから。『どこの喫茶店で出てくるカップより私はこれが気に入っている」というなら、どこへ引っ越そうと持ってゆくはず。つまり『趣味のない世界に生きている人は、愛着も愛情もない世界に生きている』といえるのではないか?

最近、駐輪場で自転車にひどい傷をつけられることが多い。それは、まわりに駐輪する人たちが、自分の自転車に愛着を持っていないことと深く結びついている。駐車違反で持って行かれたら取りに行かなくても良いくらいに考えている。油も差さない。ダメになったら買い替えればよいと言うスタンス。

自分の自転車が8700円だったから、隣りに駐輪してある自転車もそんなものだろうと考えるので、傷を付けてもなんら罪悪感がない。それが数十万、あるいは230万円するような自転車だとは、想像することも出来ないくらい趣味がない。隣に停まっている自転車は美しいな、とかずいぶん大切に乗っているな、かけがえのないものなんだろうなと気が付く感性もない。

これはたぶん、『日本の大量生産、大量消費が生み出した現代病』なのだろう。隣の自転車のトップチューブをガリガリ傷つけても平気な神経が、学生に国宝の寺に名前を落書きさせる。

愛着も愛情もない世界に生きているわけですから、歴史の生き証人である場所や物に対する尊敬も見識もない。たぶん、家の家具はすべて引っ越しのたびに捨てるカラーボックスと趣味のない食器に違いない。

趣味というのは感覚と見識のとぎすましの先にある。ふだんから粗雑な生活をしていて趣味が育つわけはない。

面白いたとえ。言語学では言葉の正確なニュアンスを探り出すのに、その単語をいろいろな文章に入れてみて、違和感があるものを探すことをやったりします。

「ジェット戦闘機を集めるのが趣味」
「爆撃機で爆弾を落とすのが趣味」
「携帯電話の新型を見に行くのが趣味」
「捨ててある空ビンの匂いを嗅ぐのが趣味」
「連休最期の大渋滞の中で自動車の中にいることが趣味」

どうもこういう文脈では『趣味』は成立しないらしい(笑)。

現代では、たぶん、スキーの板を集める趣味というのはなくなっている。もしくは絶滅危惧種でしょう。1970年代ならヒッコリーのケスレーの板とかありましたから、そういう趣味の人がいた。

自動車は「便利さの前にひざまづいて、趣味性が消えつつある」。やがてはマニュアル車を運転できる人が激減するだろう、修理が出来るメカニックも減る、自動運転などということも言われ始めているので、今の10代、20代が中年になるころには、いかな名車といえども、かなりな値崩れが来る気がする。

さて、自転車は?趣味のものとして命脈が続くだろうか?自転車はいまが分岐点だろうと言う気がする。

和魂洋才

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うちの近くの天神さまの梅林はもう咲いていると思います。そこの庭に石碑があって、石の上に『和魂洋才』と書いてある。

これはなかなか意味深いことで、いままでの日本のありかたをうまく説明できることだと思う。日本は科学や技術の分野でうまくやってきたわけですが、科学というものや数字というものは、ある意味『世界共通語』なわけです。

一方で、思想や哲学の場合は、『両方がわかっている人が、並行している2文化の中で、ほぼ同じものを見つけ出して説明し、あるいは説明を加えて提出しないといけない』。

もし、和魂洋才が才能と技術だけだったら、魂がないわけで、そういう魂のない技術の抜け殻は1流になれない。

このごろやたらにこどもの頃から英語をやらせるブームがあるようですが、そういうことはまったく役に立たない。『語学は中に思想なり、メッセージを送るチューブにすぎない』わけです。

さて、これから日本は何を、どう、発信してゆくのか。

むかし、『英会話をみてほしい』と言われて、週に一度、ある人を教えていたことがあるのですが、その時、『海外の人が、こどもの情操教育に聞かせて良い』と思う日本の話を英語でしてみて、という課題を出した。

「その話だと、◎×の文化圏の人は、ここに怒る」とかそう言う話をした。

どこかの国の議員が、◎国の大統領は奴隷から、、みたいなことを言って問題になりましたが、その大統領は奴隷の子孫ではそもそもない。ケニヤの出の一族です。2重3重におかしなことを言っている。無知丸出し。

私のような立場の人間は、さまざまな誤解をとく立場にあったわけで、昨今の様子を観ているとかなり将来が不安になる。

私がヨーロッパへ行き始めたころは、まだ『日本では生の魚をたべるんだってね。ウェッ!』みたいな無知が横行していた。そうすると、日本の学生などがこれ見よがしに『臭い粉末の酢』で寿司を作り、彼らが「失礼になっては、と無理して涙を浮かべながらそれを食べているシーン」もよく見かけた。

私は英国では『西洋タラ』とでもいうべきハドックを買って、スープにして、日本のネギとほぼ同じな『リーク』を入れ、野菜とうどんを入れたりした。塩は英国王室御用達のモルドン・シー・ソルトが、海の塩なので、日本の塩によく味が似ているのでそれを使った。さらにみりんがわりに日本酒を足す。

細かく刻んだ油揚げなどを載せると、
「これは不思議なテクスチュアだ。しかし、スープによく合う。これは何か?」
「豆腐を油で揚げたものだ。」
かくして、いつもこの手の料理は完食されて、足りなくなった。「生の魚を食べるんだって?ウェッ!」というのを個別撃破してゆくわけです。

私は海外の友人の結婚式に呼ばれると、いつも紋付き袴で押し通した。そうすると、そこに居た人があとでまた別の結婚式をやるとき『あの伝統衣装で来てくれないか』とよく言われた。

なかには、紋付き袴で街を歩いている時、路上ですれ違うと「アチョ~~ッ!」とか奇声を発して、カマキリのような手のしぐさをしてくる者がいた。丁寧に応対して、誤りを正した。
「それは日本の隣の国のものだし、日本の武道の祖、飯笹長威斎先生は『兵法は平法でないといけない』と言っておられる。また、みだりにこれを他人に用いるものは神の神罰がくだる、使ってはならぬ、と教えている」
と諭す。

「なぜ、日本の神社にはカソリックの教会のように鏡があるのか?」
とよく訊かれた。
「『かがみ』という単語の中には「か・み」の間に「我」(が)がある。穢れた心を払い、神に恥じるところのない澄んだこころでサンクチュアリの前に立ち、その清らかな力を自らのうちに反映し、とりこむという象徴なのだ。」
と説明した。

Youtubeで「トーケンジョシ」が九州の方の博物館で複製の刀を持って記念撮影をしている動画があった。しかし、刀を手に取る礼法がまったく出来ていないのが気になった。

そうかといって男子が出来るか?というとこれもまたあやうい。

いい歳をして、このところ一日に30分ばかり抜刀術の稽古を必ずやっている。気持ちがよい。

さらに日本茶と和菓子でなごむ。歳をとるほどに先祖返りしている気がする(爆)。

タイムスリップ

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昨日、夕暮れ時、天神さまの境内を抜けていたとき、ふと、昔、菅原道真公の息子が(府中にあった武蔵の国の国府で官吏として働いていた)が、はるか九州での父の不遇の死を聞いて木像を刻み、天神島に一堂を建て、その田圃のなかの小さい島のようのなところから現在の崖下に、夢のお告げによって社を移したことをふと思い出した。

私はいつもそこの境内には裏から自転車を押して入る。古代甲州街道は崖下にあり、かつては弁天池から流れてくる清流で手を洗い、そこを渡って境内に入ったことが知られている。

昔からあったような石橋は見当たらない。大古には小川を渡ることでみそぎをしたか、あるいは私がいつも自転車を押して渡る80cmぐらいの石の板が代々架け替えられてきたのかもしれない。

なんとなく、「昔の地形のまま」の感じがするのがこころがやすらぐ。

一仕事を終えてから向かったので、鶏たちはもう樹の枝の上で眠り始めていた。

鶏のまどろみの声も、樹々のたそがれて行くさまも、昔そのまま。ちょっとこころのチューニングを合わせてみると、創建当時のころにタイムスリップできる。

夢のお告げのままにここへ社を移したとき、孝行息子は達成感があったに違いない。

いまから40年ほど前に自分がスクラップしたノートを見ていたら、深大寺のまわりは鬱蒼とした杉林だったという資料を見つけた。その最後の2本が山門の両脇に残っていたものの、立派なほうが枯れて切り倒したときの記事が貼ってあった。残った1本のほうは古木ではない。100年ほどの若い樹。つまり深山幽谷の感じの杉の巨木の森がその1本を最後に消えた。1976年11月26日の記事。つまり深山幽谷時代にタイムスリップするのがきわめて難しい場所になってしまったわけです。

日本では古い建築や場所は神社仏閣しか残らない傾向がある。都心では緑もそうだ。東京で遠くから林をみつけて近づくと、だいたいがお寺か神社。

タイムスリップできる場所はほとんどなくなっている。「経済的に成功しているお寺は電気式スピーカーを使う傾向がある」ようにも思う。タイムスリップして過去を偲ぶのは難しい。中東もそうです。礼拝の前のアザーンなどは電気スピーカーで、日本の学校の下校放送のような音で流している。英国やイタリアだと考えられない。

フィレンツエのサンタ・マリア・デル・フィオーレに日曜日に行ったとき、説教の声はほとんど聞こえなかった。サヴォナローラの声をボッティチェリはどうやって聞き分けたのだろう?と思った。

私が日常の器などに古物を好むのは、「昔の人と同じものを前にして感じるタイムスリップ感」を楽しむということがある。これはある意味、昔から連綿とつながってきている流れの中に身を浸して、自分を確認したいという欲求のためだと思う。

いま、この瞬間だけで、過去とつながりも永続性・継続性もない世界に刹那的に生きるのは足が地についていない感じがする。

過去をかえりみずに、未来は予測できるのか?過去を見ずして今も見えなくなりはしないか?

私が20歳の時、30歳の時の自分、40歳の時の自分は正確なイメージがなかった。現実、まったく思いもかけぬ自分になっていた。現在の自分も10代の自分が見たら、あまりの予想違いに驚くに違いない。

未来のことはよくわからない。

だから、私は過去の安心できるもののうえに、徐々に、吟味した新しいものを積み上げてゆく生活を好む。場合によっては「新しい部分をすべて崩してしまう」くらいの覚悟がいると思う。

昨日出た週刊現代に、隣の国が最近の日本のやり方をコピーして、新幹線とゲンパツをセットにして外貨を稼ごうとしていて、原発ラッシュだそうである。どれか一つか二つ事故を起こせば、PM2.5どころではないものがやってくる。そうしたら、日本の農業も漁業も観光産業もすべて終了でしょう。土地も金を産まなくなる。チェルノブイリの事故の時、遠く離れたアイルランドでもマトンや牛肉が基準値越えで廃棄処分したのを私は覚えている。

「我々はそういうことをやってもいいし、デカい車も乗る。だが、君たちは技術がないからやるな」とは言えない。ほんとうは、それほどのリスクのある、自分たちで責任をとれないようなエネルギーの使い方の権利はないはず。

これもまた、長い時間軸に身を置いて、文明の中でいま我々がどういうところにいるのかが見えていない、『経済病という刹那主義』でしょう。

私が自転車派にとどまり、エンジン付きのものの趣味にゆかない理由のひとつは、Ethicalな立場にいたいからです。
「私は1時間に2リッターペットボトル数万本分もの空気を汚染していない」
と言えば済む。

いまのこの国の「刹那的な、通時性のなさ」は深刻な感じがする。くにたち駅から府中病院のほうへ向かう道にそったビルのいくつかが空きビルになっていましたが、昔は何が入っていた建物か思い出せない。

気が付けば、駅前はどこも全国チェーンのフランチャイズと銀行と携帯電話屋ばかり。どんどんなし崩しに「町の記憶」も「自然の記憶」も「都市の記憶」も消えてゆく。

今しかない世界で、今がダメだったらおしまいでしょう。過去の土台もないのだから。永続性のある新しいものは建たない。『常に手探りのゼロ』からのやっつけ仕事になる。どんな未来が来るかわからずやっている。

日本全国、どこへいっても同じような店とコンビニしかないということは、日本全国、どこの林の樹を見ても数種類の同じ昆虫しかいなくて、元の自然の面影がないようなものでしょう。

当然、そういう同じような『人工環境』のなかで、同じような仕事、同じようなネット情報を目にしていたら、似たような人ばかりになってくるだろう。人間も『単一昆虫化』のような個性になるのかもしれない(爆)。

帰りは学生街の喫茶店でカスタード・プディング。学生サイズで、オジサンにはちょっと大きすぎますが、ここのプディングは焦げ方がいい。キャラメル・シロップにかすかにコアントローが隠し味で入っています。こういうのは最近のフランチャイズの店にはない。じつにレトロな味。これもひとつのタイムスリップ。変わらない同じ場所へ行くのは自分の変化を知ることでもある。

カエルさまは二度寝る

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表へ出たらみごとな満月。

あっ!だとすると今日は年に一度のカエルの日!

けろたま池に行ってみることにしました。

いました。この寒いのに寒中水泳。これで産卵して、彼らはもう一度冬眠。

この時期なら天敵もまだ活動していない。オタマジャクシが泳ぎ始める3月末からは水温も暖かくなり、4月になって小さいカエルになった頃は、小型の虫も出始める。

今日は息が白くなるほどでしたが、彼らは時期を知っている。

古来、家の裏庭にカエルがいると家を守り、その家は災いをさけると言われていた。古くはヒキガエルは地の精霊とも考えられた。

日本のヒキガエルはgood-lookingだ、handsomeだ、とヨーロッパ人がよく感心する。

たしかに西洋のヒキガエルより精悍でりりしい。

池の端には「はしけ」のような板が渡してある。みなさんそこを通るようです。朝にはみんないなくなってしまう。

ヒキガエルはけっこう頭が良い。以前、家の庭に出没していたヒキガエルがなれていたので断言できます。昔の本を読むと、長生きするものは「つの」が生えてきて神獣になると思われていた。

たしかに春の大地のパワーを感じさせる不思議な生き物です。

再メッキは感心しない

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いままで当ブログでも何十回も書いてきたことですが、再クロームメッキは感心しない。

インターネット上の取引ではじつに『巧く写真が撮ってあって』、再メッキかオリジナルか判別できない場合が多い。

今月もみごとにひっかかりました。汚れた油ホコリをつけ、白く粉をふいたアルミのリングを『演出的に組み合わせたスチール・クランク』。手元に来たら再メッキのピット(あばた)がいっぱい。

「どうしてもスチールの細いクランク」という方がいて、とりよせたのですが、う~~~~~む。仕方がないから自分で使うか。

私はサビよりも再メッキのピットのほうが醜いと思う。

サビは研いで油で拭きこんでしばらくすると味になる。全体的にかなり古い40年以上経った車両なら、お茶のタンポで何度か表面を拭いて、やや黒ずんだカテキン鉄の被膜を作り油で拭いておくと、鉄瓶のような風格が付く。

『新品のようにしようと言うあさましい我欲』がかえって風合いをそぐ。

サビるのもメッキもイオン交換といってよい。鉄のメッキが錆びるのは、表面のミクロン単位の穴や傷から水分が入り、鉄とクロームと言う、2種類のイオン化傾向の違う金属の間に水が入って、一種の短絡電池を形成して、鉄が溶かされ、そこにサビは発生する。

だからクロームメッキの錆が進むと、ブクブク泡を吹いたようにクロームメッキが持ちあげられ、ついには皮がめくれるようにペリペリ剥がれてくる。

その時にはすでに鉄部分は溶かされているので、そこがピットになる。そのイオン化傾向の差をやわらげるために昔は銅メッキをかけて、その上にニッケルメッキをかけてクロームとか、銅下の上にクロームとかやっていました。銅メッキをやると廃液処理にものすごいお金がかかるので、現在ではほとんどやるところがありません。

銅をかけて、それをさらに磨いてクロームメッキだと、濡れたように滑らかにクロームの表面が仕上がる。

メッキには電圧をかけるわけですが、その時、スチールの中の炭素が水素に引っ張り出されてしまいます。引っ張り出された炭素は水素とくっついて水になる。

クロモリと生鉄と何が違うか?というと炭素の含有量が違うわけで、炭素を含んでもろくなったのをおぎなうために、粘りを出すモリブデンなどを足してクロモリが出来ている。

だいたいクロームメッキをかけると1割ぐらい強度が落ちることが知られている。

なので、英国のウィリアムスのクランクなどは新品時にギリギリの安全度まで落としてあるので、再メッキすると乗っているうちに曲がってきたりする。

フレームなどはピットが出てからあわてて再・再メッキをステンレス流し用のハンダを盛ったり、はなはだしい場合は穴が開いてしまったりしたものをロウで埋めてやりなおしているものがあるので、私はそういうものには安心して乗れない。実態は丸めたアルミホイルのようになっているはず。

一番重要なのは乗り味なわけですから、汚いまま磨きこんで貫禄を付けるのが正解だと私は考えている。

瑞獣

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私はいくつかの動物にはずいぶんとこころ惹かれます。なかでもねこ、カエル、ヤモリ、亀、雀には抵抗できない。

とくにカエルには恩があり、こども時代に大病をして半年以上入院していた時、ずいぶんカエルになぐさめられた。

最初のうちは絵本だとか、電車のオモチャとかで病室で遊んでいたわけですが、あまりに長い期間なので飽きてしまう。父が一計を案じて、多摩川でカエルを捕まえてきて、水槽の上にガラスの蓋をして持ってきた。

のどかな時代でした。入院していたのは国立病院でしたが、よくカエルの水槽を持ち込ませてくれたと思う。今では自宅から持ってきた毛布も持ち込めませんから。

カエルは生餌しか食べないので、補虫網で小さい虫をとってきてポリエチレンの袋に入れ、そこからガラスの蓋をずらして中へ入れた。

退院した時は多摩川へカエルを逃がしに行ったことを思い出します。「命の恩蛙」。

昔は多摩川の両岸には大きい水たまりのような池がたくさんあって、そこにカエルがたくさんいた。いまや壊滅状態で、そういう場所はみんな野球のグラウンドになってしまった。

私が野球には、ほぼまったく興味・関心がないのは、そういう幼児体験がからんでいるのかもしれない。

以来、盆石の飾りに使う小さいカエルとか、木彫りのカエルとか、気になるものがあると買っていた。このフィルターはけっこう厳しく、そうとう気に入らないと手を出さない。

昔から気になっていたのは、日本画の画題で『がま仙人』というのがけっこうあったこと。その実態は謎でした。

戦国武将の信長、秀吉、家康の3人の中で信長に一番惹かれる私は、安土城のあとを登ったり、京都の古本屋へ行って、その後一保堂さんへ寄る時に、本能寺へ立ち寄るのを決まりにしていました。

その本能寺の寺宝のひとつが、信長公お気に入りだった三足のカエル。これは見れども見れども不思議なもので、ぬめっとした顔カタチはあまりカエル的ではない。背中の蓋には龍か麒麟の幼生みたいな正体不明なものが乗っている。お寺の説明には、信長公に謀反で危険が迫った時、鳴いて危険をいち早く知らせたと書いてある。

う~~~~~む。長年、この三足カエルに関しては不消化のままでした。

古代、『かなえ』とか香炉は3脚でした。3は縁起が良い数字で、4脚がぐらぐらするところでも3脚は安定する。そういう意味でも、三足は不安定なところでも立つ。

1987年のことだと思いますが、古い中国の正体不明の動物を彫った玉をみたら、やはり河馬なんだか、獏なんだか、よくわからないぬめっとした顔をしていた。本能寺のカエルと似た顔をしていた。「ああ、古い神獣の一種なんだな」とわかった気がした。

じつは私の遠縁の浅井忠もガマ仙人を描いている。調べるとその仙人が連れているのが三足のカエルだということで、すべてがつながった。

この三つ足のカエルはもとは天宮の金庫番だったと言います。宮殿が火事になったときに、宝物を守りぬき手柄をたてたのですが、足をひとつなくしてしまったとも言われる。その後、強欲が過ぎて問題児になったのが、仙人に釣り上げられ、弟子になり、改心して善玉になったという。仙人はヒキガエルにかこまれていたのですが、釣り糸に金貨をつけて池におろしたら、一匹ちょっと変わったのが釣れた。それがこの「さんきゃくせんじょう」と言われるカエルだと言います。

この仙人、貧しい者を救う誓願をたてていたということで、この三足カエルがその貧者救済プロジェクトを強力に助けたということになっている。

最近は縁起物として、ずいぶん流行っているようですが、これは『貧者救済』という部分が入っているのが興味深い。充分な金持ちがもっと金を持とうとして持つべきものではないのではないか?

東洋のこうした『瑞獣』は面白いと思う。カエルであったり、亀であったり、蝙蝠であったり、ヤモリであったり、家の身近にいる動物のヴァリエーションです。

自然と共生する生活の中で、「ああ、大きいのがいるな」と感心して、「ああいうのが見られたから良いことがあるかもしれない」と吉祥を感じたのかもしれない。そういう動物に親近感を持つことから、しだいに瑞獣のさまざまな意匠に空想が混じったのだろうと言う気がする。

男子にはカエルが好きな者が多い。たぶん信長公も幼少時代はカエルが好きだったのではないか?彼が「三足カエルは財宝を集めるという話だから」という理由でそれを気に入っていたという記述はみあたらない。

私は偶然、その三足カエルを見つけ、しかもなぜか、興味を示す人がいなくて、私のところへ来た。信長公のカエルもあっさりした顔をしていますが、私はあまり「毒々しく財宝かき集めにギラギラした感じ」の顔をしていないものが良いと思う。それは本来、『貧者救済の青蛙神(せいあしん)』ですから。

浅草寺はそうとうパワースポットを気にしてすべてが配置されているのは有名ですが、浅草寺の境内にも三足カエルがちゃんといます。

一日の分かれ目

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どうやら今年も蘭が花を咲かせそうです。もうあと一歩。

万年青もずいぶん元気になった。

前にも書きましたが、万年青は台風の日、たった一日で葉が一枚びしょびしょになり腐ってしまった。家の中に移しておけば良かったと思いましたが、後の祭り。微妙なものです。

しかし、考えさせられました。そういうことは自然界ではあるだろうし、腐った葉にハサミを入れるのはどうかな、と思った。彼らにも自然治癒力はあるだろう。桜などは枝を伐ると、そこから雑菌が入って樹が枯れてしまう。

『桜伐るバカ、梅伐らぬバカ』と昔から言う。腐ったところをそおっと千切り、葉の負担を減らして様子を見ることにした。

ちょうどその時、盆栽をやっている仲間がいて、『盆栽も植物は、自分で葉を落としますから』というのを聞いて、ふと悟るところがあった。そのままで行こうと思った。

うちの万年青も自分で葉を落とした。自分で判断して、その腐った葉への葉脈をみずから閉じたのだろうと思う。

人間も、ほんの短期間の誤った道筋で、大きく健康を損なう場合があるように思う。

自分も去年はほんの1ケ月半のストレス、寝不足、外食続き、ビールで痛風が出ましたから。これはさらに年齢が上がれば、もっと慎重に日々を送る必要がある気がする。

高齢者の世話をしているとよくわかる。ちょっとペースを崩すと、元に戻るまでにかなりの日数がかかる。体調の振幅のブレをおさえる力が老化して弱くなっている。

そのペースをブレさせない生活が必要なのだと思う。若いころには、『規則正しい生活』などと言われても全く意に介さず、徹夜・夜更かしは当たり前だった。このごろは自分も睡眠時間が短くなると体調が落ちるのがはっきりわかる。

そういう具合になった時、中高年になると自分のペースを自己修正する判断力も落ちてくる気がする。

しかし、蘭とか万年青とかは、植物のくせに人間よりしぶとく生きそうだ。人間は活動力があるけれど、植物から見れば「太く短く」なのかもしれない。

眼の前の豪華

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若いころ、私のヨーロッパの友人たちはみんなお金がなかった。

みんなさまざまに工夫をしていたわけですが、それは奇妙な、一概には貧しいとは決めつけられない生き方をしていたと思う。

たとえば、音楽家連中は金がなくても自分の分身たる楽器は一流。演奏技術も一流への上り坂途中。音楽の師匠が高齢で自由が利かなくなっていたりする場合、洗濯や買い物を替わりにやったりしていた。

古本屋で一冊20~30円ぐらいの誰も買わないような本の中に、ちょっと見どころのある絵が何枚か入っていると、それを買って、糊で紙に貼り、絵葉書にして出した。一枚150円200円のカードの替わりにする。

それをすれば珈琲代になりますから。しかも手製のカードでこころがこもっている。いまのメールやライン世代には想像もつかないだろうと思う。

ジョルジュ・ブラックの『カイエ』(手帳)の中に、のどが渇いているのに、水よりも珈琲を欲しがる芸術家というのは世の中では変わった存在だ、という一言があった。

どうして、そんなにしてカフェへ?人に会うため、そこで会話をするため、芸術に関する議論をするため。

『生まれてきた存在理由をかけての、珈琲一杯を前にしての議論のほうが、のどの渇きより切実』。

ピカソもブラックも、ドランもモディリアニも、サルトルもカミュも、エリュアールもポンジュも、ダリもブルトンも、グレコもバルバラも、みんなそういう人たちだったと私は考える。

喫茶店文化の衰退は「そういう風にカフェをとらえる人たちがいなくなったから」であろう。

晩年のジャコメッティが矢内原伊作氏に、「いまやみんな名のある大家になって、こうしてカフェに来ている者は私一人になってしまった」。

それでも80年代ギリギリまでは、まだそういう空気の余韻が残っていた。

眼の前の一杯の珈琲が、限りない精神の自由の証だった時代。店主の蘊蓄やのうがきなどどうでもいい。

さて、話の後段です。

仲間たちはみんな貧しかったので、ロンドンでも治安のよくないブリクストンなどに住んでいるのもいた。そう言うところへ行くと、電話機とか公衆トイレが日頃のストレスをぶつっけられていて、受話器は引きちぎられ、トイレの便座は壊され、磁器の部分は割られ、ひどいものでした。やがて、便器はステンレス製にされ、便座は便器の上に眉毛のようにABS樹脂が貼られるようになった。壊しようがない。

それは収容所のような殺伐とした眺めでした。「破壊的行為の果てにあるのは、そういう世界」だ。

ニュースを見るとこのところ、そうした破壊的行動のニュースが多い。それは、今後、世の中がもっと監視社会になり、もっと不自由になる原因であろう。『社会をステンレスの便器にしている人たち』がいることだと私は考えている。

うちにはもう出歩くことも自由にならない高齢者がいるわけですが、一日のはじまりに、自分の前に気に入った食器でお茶とお菓子が出てくるのが楽しみになっている。

晩年になって、歩いてきた道のりが長いわけですから、昔のように、『自分の存在意味を議論する必要ももうない』。ただ眼の前のささやかな贅沢に言い知れぬ満足を見出し、淡々と平和に生きる。

社会がやるべきことは、そういう晩年を送ることができる世界を作ることで、ただ単に数値上の儲けや豊かさが増やすことではないと思う。

金があっても不幸な晩年の人をずいぶん見たし、赤貧の中でも良い晩年の人もずいぶん見た。難しいものである。

双輪の七賢人

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昔の『竹林の七賢人』の墨絵で、竹藪などに何人か集まっている絵がありますが、何を話しているのか?

間違っても自転車の部品の話とか、ニューモデルの話とか、人のうわさ話とかではない(爆)。

花鳥風月、詩歌、水墨、哲学、世相、などもろもろでしょう。

ここが難しいところでして、人間も半世紀を過ぎると、「何を軸に集まり、どう云う話をするか?」がものすごく重要になって来る。

私などは、どちらかというと「いまさら機械としての自転車のメカ談義なぞどうでもいいよ」という心境。自分が人生の折り返し地点をはるかに過ぎて、いまさらそんな話を、残り少なくなってきている人生で浪費する気が起こらない。

『後輩の参考になるようなことを放言するだけ』にとどめたい(爆)。

人間は『その人の力量の深さまでしか理解できない』。

ピアノ曲を聞く。曲名がわからない人もいるかと思えば、どんな古典曲を聞いても10秒で曲名がわかる人もいる。演奏の良し悪しがわかる人もいればわからない人もいる。

聴いて5秒で、「ああ、ベーゼンドルファーだ。」という人がいる。「この人は左手が弱いね」という人もいるでしょう。なかには「このピアノのヴェルクマイスターの1技法の3の調律はいいね。」というひともいるかもしれません。

絵の世界でも、絵の良し悪しからはじまって、絵の具がウィンザー・ニュートンかクサカベかホルべインかぐらいはすぐわかり、人によっては紙がアルシュかコットマンか、「◎×グラムの紙」は難なくわかる。

しかし、展覧会や演奏会の会場で口角泡を飛ばしてそういうことを話している人はいない。そういうことはすべてわかっている人たち同士が、社交をしているわけで、芸術の本質はその先にある。「技術は手段でしかない」ことをみんなわかっているわけです。

一方で、『モノが趣味』の人たちはなかなか「技術を論じるところより先へ出られない」もののようです。

光悦は「世を渡るすべ、一生これを知らず」と評された。彼自身「一生涯、人にこびへつらい候こと、いたって嫌い也」と明言していた。権威にもあの戦国の世に大名にもつかえず、利久のものも織部のものも見た。それでいて茶碗を作り、焼くのは職人にまかせたが、日本で誰一人茶碗をつくって光悦の右へ出た者はいない。技術では到達できない高みに光悦はいる。

骨董の世界で青山二郎が『鑑賞陶器』という言葉を使い始め、「見ればわかる」ものを否定したのは有名な話。「そんなものは見ればわかる」、「持つ必要がない。博物館にあるのを見れば十分だ」、「カラー印刷の写真の画集で見ればいい。全部わかる」。と言った。

これは、そういう技術とか技法とかの先へ抜けた人の言葉でしょう。

意外に、時計とかカメラとか自転車の趣味の人のなかには、『鑑賞機械』をひたすら集めて一生を終える人が少なくない気がする。

昔、Zのお爺ちゃんが「君ぃ。自転車は自分以上の人が作ったものに乗らんといかんぞ。自分が思いつきで、『これが好きだ』とか言ってオーダーしたものは、自分の今いるレベルで足踏みすることだ」と言っていて、なるほどと思った。

自転車は、たかだか0.3馬力程度の人間をエンジンにしてやりくり算段やっているわけだから、高性能なものが楽でない場合もある。楽しくない場合もある。たとえばスプリント勝負用に剛性があがっているものは、長距離ではフォークが硬くて肩にくる場合があったり、必ずしも世評と自分が楽しく感じるものが一致しない場合が少なくない。「その人が何を楽しく感じるか?」だろうと思う。

正直な話、ここ25年ばかり、日本で遠くまで行っても楽しく感じないことが多くなった。楽しい場所までたどり着く前にうんざりしてしまう。これは自動車ででも電車でもそうです。

うちのほうから都心へ向かって自転車で走って、調布ぐらいで「もういいや」という感じになる。調布から都心、丸の内ぐらいまでは苦痛でしかない。逆方向へ、甲斐善光寺まで走った時、勝沼から先はやはりうんざりした。香取のほうへ行くには、やはり成田を抜けるまでに気持ちが萎える。

ところが、英国なら、街から10km走れば、どこでも楽しいと言っても過言ではない。フランスもそう云う感じがする。

『楽しみのために遠くまで距離を乗る必要がない』のです。

昔、レネ・メーンジスという人がいて、年間自転車で10万キロとかとんでもない距離を乗っていました。ほぼ毎日長距離走行をスポンサーからお金をもらって走っていた。その彼はあっけなくロンドンの中心地ハイドパークの近くでクルマとの接触事故を起こして、交通事故で亡くなった。82歳。

メーンジスほど距離を乗り、しかもヘロヘロになった状態で、都心を走っていれば、そういう確率も高まるでしょう。彼ほどでないにしてもそういう人は現代日本でもいる。

私はこのごろ、自転車を趣味とするには、『自転車で走って楽しい場所の近くに住む』ことが、この国では重要なのではないか?と感じる。

誰しも、50,60、70歳ともなれば、体力も落ち、『峠越えが80歳過ぎても楽しい。下り坂がたまりません』などと言うことはないはず。第一高齢で飛ばしたら危ない。交通量の多いところを抜けて行くのもつまらない。輪行で片方の肩に10kgの荷物はつらいだろう。

私はいよいよ高齢による衰えがいかんともしがたくなったら、家から10km以内ほどの気に入ったところでお弁当でも広げたり、お湯を沸かして気に入った道具でお茶にするのが王道ではないのかな?と思う。

そういうところで、仲間と『一切自転車の部品の話をしてはいけない。したら罰金』というルールでお茶会が良いな、と考えている(笑)。

ときに、『弁当』は『めんつう』の訛ったものだという説がある。信長の時代、家臣たちは上の写真のような形状の『めんつう』に玄米とか麦飯とか五穀米とかを詰めて、いわば『桃山風パーティーに行く』、そうすると主人がおかずだけを作って待っているという具合。自転車でそういう桃山風もけっこういけるのではないか。

主人はリヤカーを引いて???(笑)

音の宝箱

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ボルトとワッシャーを買いに出かけ、帰りがけに珈琲を一杯と店に立ち寄ったところ、「ちょうど良かった、いま古いレコードを鳴らすところなんですよ」と引き留められた。

ビクターの小型の蓄音機とSPレコードを抱えて、老紳士が入ってきました。

なんでもお客の一人が「聴いてみたい」というので、混んでいない時間を見計らってかけてみるというのです。

じつは私も昔、蓄音機を持っていたことがあります。ラフマニノフの自作自演のSPやフーベルマン、ジネット・ヌヴ―のレコードなどを集めていた。

ただ、電気を使わないSPレコードは音量調節がほとんどできず、しかもかなり大きい音で鳴るので、夜などは鳴らせない。気が引けてあまり鳴らさなくなり手放してしまいました。

私の中では、生の演奏が1番、SPが2番、LPが3番、「ダウンロード音楽は暫定的な鳴りもの」という番付表です。

面白いことにオーディオに凝る人はコンサートに足を運ばない。ピアノの鍵盤をひとつ叩くと、じつはピアノの中のすべての他の弦が震えています。それを再現できるオーディオなどは作りようがない。ハープシコード、スピネット、ヴァ―ジナルにいたっては、オーディオからの音だと15分ぐらいでイライラしてくる。『生楽器の音で育った耳は、スピーカーからのハープシコードの音には我慢できない』。

ところが、SPの音には『電気を介した音のいやらしさがない』のが不思議な気がします。

今日は、仕事も残っているし、適当においとまする気でいたのですが、私が「フーベルマンとかヌヴ―のSPを持っていた」と言ったら、その老紳士の眼がキラッと光り、「それでは、ディヌ・リパッティのピアノの物をおかけしましよう!」と箱の中からバッハの曲のレコードを取り出した。

帰れなくなった(笑)。

「レコードを回転させながらゼンマイを巻かないとゼンマイが切れてしまうことがあります」とその喫茶店のお客さんに説明していました。そのお客さんが、
「ずいぶん、ゼンマイを一回ごとに巻くんですね。」
と言ったので、私が、

「でも、ディ・ステファノはジーリのSPレコードを聴きながら、一回ごとにゼンマイを巻いて歌の練習をしていたんですよ。」
と言ったら、老紳士の眼がキラリとまた光った。
「今日、ジーリのレコード1枚だけ持ってきています!」
ますます帰れなくなった。組みかけの自転車が待っている(笑)。

ジーリいいですねぇ。いまはこういう人は絶えていない。

「じゃあ、つぎは号泣するようなものをかけます。『オー・ミオ・バッビーノ・カロ』。」
お尻に根が生えた。これはジェームズ・アイヴォリーの『眺めのいい部屋』で有名になった曲です。シュワルツコップの若いころの録音でした。透明感のある歌いかたで芝居気がなくじつによい。

ポルタ・ロッサへ指輪を買いに行きます 私の彼はとっても美しい人なの 優しいおとうさま 許してください 結婚できないなら 私はポンテ・ヴェッキオから身を投げます、、という歌詞。

「ああ、アルノ河のほとりの一室で窓を開けてこの蓄音機でこの曲を鳴らしていたい」と思う。

さー、満喫したから帰ろうかな、というところで老紳士の引き留めは続いた。
「チターをかけてみましょうか?第三の男。」
「アントン・カラスですか?」
う~~~~む。LPだとかCDとかダウンロード音楽では絶対出ない音。まずいな、欲しくなってきた(爆)。

さぁ~仕事があるし、帰らないと、、、。
「ディジー・ガレスビーの珍しい録音がありますよ。」
「なぬっ!それは聞き捨てならない。」
座り直し(爆)。いや~、SPで聴くジャズのあの温かみと厚さはなんなんだろう?音の雲の向こうに熱気も空間も、手を雲の中に入れれば触れそうな気がする。

マフラーを首に巻く。
「あれっ、もう帰っちゃうんですか?これからチャーリー・パーカーのチュニジアの夜をかけるのに。」
見れば、ダイアル・レコードのプレスではないかっ!意志の弱い私はまた考え直す。

考えたのは、録音する方も聴く方も、現代では昔のようにやっていないのではないかな?

SP時代の「録音しながらマスター原版に直接機械式でカットしてゆく方法ではやり直しや修整が利かない。たいへんな集中力が要求された」。その気迫がこもるのだろう。

いや、いいものを聴かせてもらいました。

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さて、先の「オーミオ バッビーノ カロ」ですが、2年ほど前、オランダで「才能発掘番組」でこれを歌って、全世界を驚かせたこどもがいる。アミーラ・ウィリングへ―ゲンという9歳の女の子なのですが、私は初めて聞いたとき涙が出た。

『こどものわりには上手い』とかいうレベルではない。本当に泣ける。マーストリヒトで1万人の観衆を前に歌ったときも、かなりの数の大人が泣いていた。

モーツアルトの曲などは、どうしても大人は技巧が表へ出てしまってうまくゆかないのを、こどもがすんなりと結び目をほどいてしまうようなことがありますが、アミーラ・ウィリングへ―ゲンの場合もそれに近い。

この曲に関しては、私はモンセラート・カバリエの歌のほうをマリア・カラスのより好んでいました。マリア・カラスはいかにも「オペラ」然とした「お芝居」の部分がある。凄い人には違いないのですが。

アミーラ・ウィリングへ―ゲンのほうはもっと純粋で、誰しもがこの曲を聴いて、「こういう曲なのだな」という「真髄だけで出来上がっている」感じがする。一切の邪魔なものがない。

このアミーラは誰にも歌のレッスンとかを受けたことがない。誰にも教わったことがない。自分でYoutubeを見て歌い始めたそうです。こういう人をみると、「生まれ変わり」ということもあるのかな?などとぼんやりと考えてしまいます。

Amira Willinghagen - O Mio Babbino Care-HD-Andre Rhieu (マーストリヒトでのコンサート)

Amira Willinghagen- O Mio Babbino Care English sub-title (デビューの時の風景)

Montserrat Caballe- O Mio babbino care

Maria Callas, " O mio babbino care ( Pucchini)

やっつけオリンピック?

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なんでもニュースによると今度は、新国立競技場に聖火台が付けられない可能性があるという。

屋根が木製なので高いところに付けると燃え移るおそれがあるということ。ナンタルチア。

まあ、ラグビー場には聖火台いらないですから。

昔、スペースシャトルの翼の防熱タイルのフィルムを見たことがある。これがすごい。『かるかん』みたいな真っ白いものをガスバーナーで焼く。オレンジ色になってきます。それを素手でつかみ、そのまま顔の前に持って行き煙草に火をつけていた。あれにはビックリした。

タイルの製造をしていたコーニング社にお願いして、聖火台のまわりにそれでも貼ったらどうか(爆)?

世界中からそのタイルの破片が欲しいとやって来る人たちもいるかもしれない。警備会社も儲かる。

『ローガンズ・ラン』のドーム・シティみたいなスタジアムですから(知ってる人がいるかな?その都市では30歳になると、みんなスタジアムのような祭壇に集まって儀式を行う。集合した人たちは祭司がなにやら唱えると、ふわふわ空中に浮いて、屋根の近くになるとシャボン玉がはじけるように消えてなくなる。消滅する時虹が出て、観客は花火を見るように歓声を上げる)、耐熱ガラスの巨大なパイプがまわりを囲むとか。なにやらSF的宗教がかっていて良いかもしれない(笑)。猿の惑星の続に、ミサイルを祭壇にパイプオルガンのように飾っている未来宗教が出てきて、そのブラック・ユーモアに爆笑した記憶がある。核戦争のミュータントたちが、みんなそれを拝んでいた。

オリンピックのスポンサーを調べてみると、なかなか興味深い。世界レベルでのスポンサーとその地域におけるスポンサーとあるようですが、最近の円安で濡れ手に粟の自動車メーカーもそのひとつ。

前にも書きましたが、オリンピックには莫大な、さまざまな電気設備が必要なので、福島のものを設計したアメリカのメーカーが深くかかわっている。

私は深読みして、東北のことから目をそらさせるために東京へもってきたんだろうと考えている。

いっそ、昔の石炭ストーブのような形で、まわりをスペースシャトルの防熱タイルで作り、耐熱ガラスの窓でもつけて、圧力容器の形にしてはどうか?

コッタ―ピンの抜き方

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「レストア」なんていうと「エンス―な感じがする」のかもしれませんが、自転車の世界ではかなり寒い感じがします。

古い車両のひとつの難関はコッタ―ピンの処理。古いものをどうやって抜くか。

昨日やってきた車両は、コッタ―ピンのナットがバカになっていて、まったく締まらないものを、叩いてナットの上をツブシ、リベットのようにしてあったのであきれた。

じつは意外にこういうのは多い。なんとかはずそうとして、クランクもギアリングもコッタ―ピンの周りがネアンデールタール人に叩かれたかのごとくズタズタにキズが付いているのがけっこうある。

5ピンのウイリアムスやBSAのチェンリングの根元部分がやられているのは、だいたいそれが理由です。

まずほとんどの人が『ハンマーで叩いて抜こうとする』ので。私はハンマーは一切使わない。かつて自転車博士と言われた方が『ハンマーを2つ使うダブル・ハンマー法』のことを言っていて、「BBのベアリングを衝撃試験をしているようなもの」と言っていましたが、その方も『コッタ―ピン・エキストラクター』という工具の存在を知らなかったに違いない。

英国の気が利いた自転車店は持っている。持っていないところや『ハイエンド・ド・素人』がクランクやギアリングに傷を付ける。

どうしてもなければ、シャコ万力の頑丈な物を使って代用できます。

古いものだとコッタ―ピンを抜いても、グリスが「にかわ」のように固まってシャフトから抜けなかったりする。これに対しても専用のプーラーがある。

日本で私以外にこれを使っている人を見たことがありませんが、コッタードのクランクの付いた歴史的車両をいじらせるなら、そのショップがこうした工具を持っているか調べたほうが良い。

とくにチェイタ・リーのクランクは薄いうえに2本のアームが飛び出ているので、これらの工具なしでハンマーを使うと、Y字クランクの2アームのひとつをめちゃくちゃに叩きつぶされることになる。

知り合いの一台で、MOOK雑誌に連載していた人の某ショップで、クロード・バトラーに付いていた5万円相当のチェイタ・リーのクランクをズタズタにされたケースがあります。

うちは持ち込まれても通常やりませんので、よろしくです。まあ、こうしてすべて教えているわけですから、御自分で。CRCで緩める時は3日ぐらい置かないと染み込みません。

生きているカレンダー

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蘭が昨日咲きました。啓蟄と一致したわけで、自然はたいしたものだと思います。

もうひとつ、ここ数か月、天井の片隅に染みのようになって冬眠していたてんとう虫が今日はみなさんお出かけしていた。

日差しがやや強くなってきていて、葉の具合が日が当たりすぎになってきたので、置き場所を『春モード』にしてやらないといけません。

梅の香りもそうですが、この時期の花の香りは繊細・微妙で、ふとした具合で消えてしまう。

置き場所を変える前に、1日家の中でしばしかすかな香りを楽しませてもらいます。

不思議なことに、どうみても同じ花が咲くもう一つの株は、毎年1週間から10日後に咲きます。もう何年もそれは変わらない。やってきた地方が違うのか、遺伝子的なものなのかもしれない。そちらはあとちょっとです。

「一株600円か800円」で露店で買って以来、ずいぶん楽しませてもらっています。その時は『韮』みたいな葉っぱが8本ぐらいでした。

隣に2000円で買った「いげ皿」を置いてみた。見つけた時は「あっ!麒麟だっ!」とそれだけで購入。麒麟には運気を整える縁起物としての側面があるので。

麒麟も蛙の神様も蘭の香りで「パワーチャージ」してもらっています(笑)。

まがいものはどこに立っているのか?

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私はいつもネットをぽや~~~っと見ていて、最近思うことは、日本の文化継承はかなりまずいところへきているのではないか?ということです。

私は人の個性というのは、一部のジャン・ジャック・ルソーかぶれの左巻きの信じるように「野生、天然でOK」とは考えない。同様に一部の右巻きが考えるように「ゼノファビア」(外国嫌い)にふるまっていればおのずと花開くほど単純なものだとは私は思わない。

人ひとりの個性が出来上がるまでには、迷路のような道筋を通り、取捨選択をして、そのつど深く考えて今までにない思想なり、個性に到達する必要があると考える。

「個性と言うのは既製品でありはしない」。

日本の伝統的なものは多くの場合、外国から入ってきています。それが日本的なものにこなれるまでには、多くの天才たちが日本の風土に合うように改変するなり、改良して、さらに再構築して出来上がっている。

単純な話、ある人が「日本の伝統は着物だ」と言ったとする。着物を売る人のことを『呉服屋』と言いますが、着物はお隣の国が『呉』と呼ばれた時の服を基にしている。しかし、その呉の服はお隣の国にはないし、隣国に西陣のような呉服も、日本の伝統柄のものも残ってはいない。

これは陶磁器においてもそうです。しかし、ネットオークションを見ていると、ずいぶんまがいものが出ている。半数以上が怪しい。このあいだ、ウサギが青海波のところを飛び跳ねているのがあって、神話の因幡のウサギに題材をとっているのはあきらかなのですが、そこになぜか「鯉の滝登り」が描いてあった(笑)。どこの神話だ?日本語で『難関』とか『関門』とか言いますが、それは、お隣の国では鯉がどんどん川を登ってやがては龍になると思われていた。そのところどころにある通過するのが難しいところが難関であり関門なわけです。「登竜門」というのもそこからきている。

その因幡のウサギが鯉の背中をぴょんぴょん跳ねているようなデタラメなストーリーの贋作の陶磁器が、ブランド信仰から売れている。不思議なものです。

自国の過去の知的遺産に学ぶどころか、海外から入ってきたまがいものを伝統と勘違いしている。

日本には着物がある?その絹織物は、いまや国内で2か所を残して壊滅一歩手前。最大の顧客は、『日本の絹織物は世界最高だ』と信じる中東の人たちが白い織物を買い支えている状況。国内で買う人は実に少ない。

ネットオークションで『鉄瓶』を見てみると、外国語で説明が書いてあるものが多い。金に糸目を付けずみんな海外に持ってゆく。良いものは100万円超級の価格なのでビックリする。そういうものから型を取って贋作が入ってきて、それを買ったりしている。まがいものを売って、彼らは元を取り、まがいものを使って、本物を知らぬ世代が国内に育つ。

じつはこれは自転車でも、洋服でもそういう図式になっている。国内産のフレームに国内製の車輪の自転車がどのくらい市場にあるのか?ほぼ皆無でしょう。

観光立国のプランがあるらしい。それでは「神田は『明神』で、ミシュランの本にも載った高尾山は飯綱『大権現』だが、明神と権現はどう違うのか?」。あるいは「侍はいくさの前に九字の印をきったりするが、九次の印とは何か?」。「密教では座禅と同じような阿字観があるが、禅の座禅と阿字観は何がどう違うのか?」。こういうことを英語でもフランス語ででも説明できる20代、30代がどれほどいるのか?そういうことは小学校から英語をやらせても出来るものではない。無意味なんです。

成田国際空港へ到着する。観光で成田山へ。観光ガイドにも、海外の説明書にも『不動明王はDietyである』と書いてある。それって誤訳でしょう。お不動様は神さまではない。その誤訳を正し説明する英語力と曼荼羅に関する基本知識はおありか?

そうかといって、海外のことを知っているか?というと、若者の海外への旅行経験者がどんどん減っている。

私は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などという本がベストセラーになっていた時、海外で生活し、うすら寒い気がしたのを覚えている。

日本の古武道?その古武道の源流と言われている香取神道流の門弟のかなりの数の人がいまや海外の人です。黒田鉄山先生なども海外からの門弟をとっている。この国の若い人でそういうものをやってみようという10代~20代の人の話はほとんど聞かない。

和食を自分で料理できる人がどのくらいの割で若い人にいるのか?

日本のモーターサイクルは世界を席巻したが、いまや国内のバイク人口は激減し、メーカーは真っ青。

たまたまYoutubeで日本に十数年住んだカナダ人の人のビデオを観たら、そこへの書き込みがひどいものだった。海外旅行に出ないだけでなく、国際間での最低線の儀礼もわきえまえない『自分たちには伝統があるという傲慢な思い込みの上にあぐらをかいた傍若無人なコメント』。

私には、ここ数年で『東洋版トランプ』が若い人の間で激増した感じがする。

飯笹長威斎先生は、香取の神聖な井戸で馬を洗っていた男と馬が眼の前で突然倒れて死んだのを見て、大いに畏れたという。

そうした感情のもとで、慎ましく、身を保つ、自然と共生するありかたが日本人本来であったろうと思うのだが、あまりに「科学万能主義」ですらない「技術万能主義」のもとで、かなりアイデンティティーが危うくなっている気がしてならない。

老母は歯があまり残っていないので、朝のお茶用に和菓子を良く買うのですが、この2~3週間忙しく、いつもの店へ行く時間がなかった。駅ビルの中の店で鶯餅を買ったのですが、これが「みごとなまがいもの」。味も非伝統なら、食感もいけない。うちで開けてみたら、内容物のラベルにも、ソルビトール、トレハロース、増粘剤、着色料、酵素、などのオンパレード。パン屋の作るまがいものの量産和菓子ならいざしらず、老舗を気取る和菓子屋がこのざまです。どこが和菓子か?ネットで検索すると『おいしい』とか星が4つ半とか付けているのがかなりいる。

いやはや危うい世になってきた気がする。

仙人にあこがれて

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今日ぐらいの雨だと、ひのたまはちおうじのあたりは南画のように山々が煙って、なかなか味わい深い。

昔だったら丘のてっぺんの林の中に草庵を建てて仙人生活が出来たでしょう。

前に住んでいた八王子の家は山のてっぺんにありましたが、そこから北西に80mぐらいの斜面にお堂がありました。ちょっと近づけない他人の家の庭の先にあったのですが、屋根の上に擬宝珠がついていたのでお堂であることがわかりました。

左手の下には竹藪と井戸があり、景色は最高でした。私ははじめてそこへ引っ越した時から、そのお堂が気になっていた。昔の人がその場所に草庵を建てた意味がよくわかった。

良い場所だと思われたのか、やがて取り壊され、住宅が建てられ、その道路のわきに犬小屋のような大きさのお堂が建てられ、その中に本尊が遷された。

歳をとるにつれ、私はますます仙人とか老荘思想とかにこころ惹かれます。こうして現代社会に住んでいると、人間の作りだしたしがらみやらシステムやら、社会体制やらすべてが煩わしい。

光悦やら宗達、大雅堂、利休などが確定申告などやったはずがない(爆)。やかましく鳴る携帯電話もないし、郵送されてくる請求書などもない。

南画のほうで有名な田能村竹田は「茶の湯では、利休居士のこころをのみ習うべきだ。彼がおこなったワザを学んではいけない。なぜならば、茶はわびを愛でるものであるわけだが、利休居士は太閤秀吉に仕え、禄高も多く、たいへんな金持ちであったからだ」とズバッと言っている。

利休が秀吉から受け取っていた禄高は、現代で換算すると年俸1億5千万超級だったとも、彼が生きた当時の諸物価と考え合わせると8億円以上ともいう。これは3000人分の家臣を1年間食べさせて行けるほどもらっていたということで、計算結果に巾がある(コシヒカリの価格から計算するとだいたい3億円ほど)。

それほどの利休であっても秀吉からの切腹の命令には打つ手がなかった。仙人のように世捨て人になれなかった。切腹は武士のすることだから、本来、利休がすることではない。秀吉にしてみたら「ならば、やってみよ」というところであっただろう。

お茶の方の人なら「一期一会」(いちごいちえ)は誰でも知っているが、秀吉の刀が粟田口の吉光の「一期一振」(いちごひとふり)であったことを知る人はほとんどいない。

秀吉からすると、これほどの大金をとらせている大パトロンの自分が、暗に利休に愚弄されているのにある時気が付いたのだろう。

煎茶のほうの祖、柴山元昭が「世俗の世界も、僧侶の世界も、ともに捨て去れり」とか「僧侶でもなく、道家でもなく、また儒者でもなく」と言ったのは、私には『脱俗』『脱権威・社会システム』の仙人道に近く見える。

おそらくお隣の国での皇帝の力もすごかっただろうと思うのですが、老荘の思想家たちはものすごくそうした公権力を嫌悪して、人間が作りだしたシステムや権力機構は人間を不幸にするものとして、世俗的成功、栄華、権威、などを一切捨て去っている。そういう力の届かない山の中などに住むのを理想とした。

そのひとつのあこがれのスタイルが仙人であったと言われるわけですが、こどものころにはそういう仙人にたいそうあこがれた(笑)。また、まわりには、私の絵の師をはじめとして、『仙人一歩手前のおとな』がけっこういた(爆)。

あと、最近の権威ブランド大好き人間の間では、ノーベル賞獲得レースが熱く語られます。しかし、日本人のノーベル物理学賞第一号の湯川秀樹博士は若いころ漢文の本ばかり読んでいて、老荘思想にもっともこころ惹かれていたことを文章にしておられる。なんでも小学校にあがる前から『大学』『孟子』『論語』『孝教』を読んでいて、その後老子に深く傾倒したという。「科学技術の進歩がほんとうに人間を幸福にするのだろうか?」という大きな疑問を老荘思想によって生涯投げ続けられたことが告白されている。

こどもにノーベル賞をとらせようと思うなら、主婦の教える幼児米会話に行かせるより漢文素読だ!(爆)。

『科学が良いものだ』という考えは19世紀の楽観論ではないのか?と湯川博士は書いた。「そうした人間の作為がもたらす未来」に対する疑念を湯川博士は持ち続けた。

湯川博士はこどものころから「大勢の人とつきあうのが煩わしい」と感じていたそうで、それを読んで「あ~自分だけではなかったんだ~」と私はにやりとした。

だいたい、何か、絵でも、研究でも、物づくりでも、何かに没頭しなければいけない人は、人からとやかく言われることが煩わしい。そういう『人の言うことに常に耳を傾けていなければならないことに耐えがたい』と感じる職人や画家は少なくない。

さて、日本の優れたものというのは、私は多く、そうした老荘的な反権威、超俗のところで生み出されていると考える。焼き物などでも、お隣の国の一番良いものは官窯のものだったりしますが、日本ではそうではない。光悦だったり窯大将だったり。絵画でも扇屋の宗達、大雅堂、北斎、若冲ももとは八百屋。そういうところが活気づくほど日本本来の力が出るのではないか?

ところが、私には今の日本がそういう「仙人のような存在」を許さない社会、規則と規制としがらみからはみだすことを一切許さない、『決まりごとの牢獄を電子管理する世界』になってきているのではないか?という風に感じられてならないのである。

老名人の遅く見える速さ

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私は父が亡くなった年齢を超えましたが、何とも不思議な感じがする。父のすぐ下の叔父の倒れた年も超えた。

まわりの友人たちを見ると、40代ですでにあちこち具合が悪かったり、すでに世を去った人もいる。

スポーツの分野で日本のトップを取った友人で、関節から内臓からあちこち40代で悪くなっている人もいる。

幸い、私は現時点で薬を一切飲んでいません。50歳以上の人は一日平均薬を3錠ぐらい飲んでいる計算になるらしい。

どうも中高年を観察していると、「年相応に体を動かして、無理をしていない人」が健康が長続きしている気がする。

私はここ数年、「もし自分が40代で自転車に乗れなくなっていたら、自転車のことはあまりわからずに終了していただろうな」と思う。

『歳をとるほどに、ジグソーパズルのコマが増えてきて、見えないものが見えてくる』実感がある。

武道のほうの老名人の動きをみていると、力んで力でもってゆくところがない。実に合理的に身体に負担をかけず、「省力化」で時間も力も使わずに動いているのがよくわかる。スポーツとは体の使い方が違うのですが、それが関節や筋を傷めずによい運動になっているように見える。

力まかせでやっていたら身体の故障も多いでしょう。また場合によっては筋肉がつきすぎていたら速い動きが苦手になる場合もありうる。

そんなことを最初にぼんやりと感じたのはジャック・ラウッターワーサー翁を自宅に訪ねた時でした。彼はあの高齢まで自転車に乗り続けられたのは、ほかの連中のように重いギアも踏まず、筋肉で回すような乗り方をしなかったからだと断言した。そういう乗り方をしていた連中はある年齢に達すると一人残らず膝をやられたといっていました。

彼は自分の脚を叩いて、
「ほれ、ワシなどは若いころから、そういう連中にくらべて、筋肉などないに等しいくらい細かったから、回転でゆくほかなかった。それが結果的によかったんだろう。」

私はジャックの晩年90歳代で乗っていた車両のシートピラーが通常のものより8cmぐらいセットバックしているのをみて膝を打った。

通常はぺダリングピッチを上げるときは、ボトムブラケットに対して骨盤を前進させる、トラックレーサーなどでもそういう設計になっている。ハンドルがドロップならば、それをやって、それに見合った風に、サドルをあげ、ハンドルを下げる。ジャックはアップハンドルにして、そうはやっていなかった。

膝の膝蓋の部分が、踏み込み正中線をずれるぎりぎりのところまでサドルを引いていた。これをずれると膝が痛くなったりする。このポジションは自分でつかむほかない。ちょうど古武道において、素振りで手首でこねまわして、筋肉で動かしていると手首が痛くなり、かつ速く振れないのと似ている。

ロード系統の爆乗りは歳をとったらすべてが崩れてくると私は考えている。

ジャックは長時間の固定ギアでのタイムトライアルを得意としていた。そういうなかで、トルクむらなく長時間回し、力まない走法が確立されたのだろうと思う。

それは彼がアップハンドルに乗り始めても反映された。高齢で筋力が落ちても、よろけず長時間乗れる乗り方。強い筋肉にたよる踏みこみ方は、高齢になるとよろける原因にもなる。

最近のYoutubeを見ていると、武道の老名人がほとんど動きが若者同様なのに驚く。また一番弟子は立っているだけで、師匠にそっくりなのにも驚く。これこそ「型が内包する合理的な真実」というものだろう。

自転車においてもそれはあるはずだが、『道具に教わる』というところが現代では消え、物は飛び道具のような、使い手の技を離れた性能ばかりが言われるようになった。

じつはこの1週間ばかり、作業を終える最後の30分は自分が乗ろうと思っている1930年代のボロボロの自転車を乗れるようにしようと、レストアをやっている。毎日30分必ずやっていれば、いつかは完成する。あまりに年を取ったら、レストアの気力もなくなるのは、英国の先輩連中を見ていてよくわかっている。

ここ10年間、そういう車両はみんな手放してしまって、バルケッタと28号ばかりだった。彼との最後の邂逅のとき、別れ際に、フランク・パターソンを半世紀にわたって後援し続けたジャック・ククロスから彼に贈られたサイクリング・マニュアルに署名をすると私に手渡し「オレの伝統は君が継げ」と言われた一言は重い。日は暮れつつあり、道は遠い。

英国のタイムトライアルは風の影響を平均化するために、必ず折り返し点があったものだが、戦後には一方へ走るだけになっている。それでは、ラウッターワーサー流のハンドルでの「正しい折り返しターン」はどういうものか?やってみせる車両がなければ話にならない。

ハンドルはペリペリ剥がれてくるメッキを丁寧に落とし、手で磨き、防錆処理をして黒く塗装をする。これなら再メッキと違って強度は落ちない。またこの時代にはメッキ、黒塗装、セルロイド被覆の3種類のハンドルがありました。考証的にもCorrectなやりかたなのです。

凍れたい焼き君

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忙しいばかりでひいきの和菓子屋へ行く間もなく、ついに鋳鉄の鯛焼きの型を買ってしまいました(笑)。

密かな計画があり、以前にアップしたぜんざいを作った要領で小豆を炊き、作った餡子を鯛焼き一個分づつにわけて冷凍する、そして、食べる時、溶いた薄力粉と重曹と卵を入れたもので皮を焼き、なかに半冷凍の餡子を入れて、鯛焼きを焼く、、、。いつも焼きたて、、。こういう計画なのです。

しかし、ずっしりと重い。これをやっていれば握力は落ちないだろうと思う。

ためしに中にブルーベリーのジャムを入れて焼いてみた。けっこううまくゆきます。

皮の材料にいろいろ混ぜてみると、コツがわかると思う。片栗粉とかもち米の粉とか。

中に野菜を入れて、『鯛焼きお焼き』というのもあるかもしれない。初期投資は数千円でしたが、無添加で自分の好みのものが作れるし、外で買わなくなるでしょうから、1年で元がとれますね。

崩れる人工物の味

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水仙が咲いていました。後ろの壁がだんだんと崩れてきていて、抽象画か陶器の風景のようだと思った。

このところあまりに整ったものの中ではどうも居心地が悪い。

この背景がアルミだったり、まったく画用紙のように真新しい白ペンキだったら味わいが消えると思う。

人が作った「はからいの部分」が壊れ、崩れ、自然へ帰ってゆくところに見飽きない部分が出来る気がする。

自転車でも「このハンドルはさびてるね」、「この転写シールは侘びてるね」、とか言ったりする(笑)。
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