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Channel: 英国式自転車生活
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ふたたび戦国食

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1月15日の小正月はなんだか慌ただしく、郷土食のふるまいもあるどんど焼きに招待されていたのですが、失礼した。

1月15日には豆入りのお粥を食べるところがけっこうあります。伊達政宗公は大豆入りのご飯をたいそう好んだという。それに里芋の味噌汁。

当時は半搗きのお米が多かったので、かなりビタミン、ミネラルも白米よりあったはず。補おうと、麦、きび、粟などをいれた5穀米の粥に大豆を入れた。

私は大豆の自然な香りをすっかり忘れていたのだな、と思い知った。香りがよい。なんというか、『豆餅に通じる香りと味』。あとは里芋と根菜類の味噌汁。茄子を焼きそぼろをかける。

あと一品、信長公お気に入りの雉の焼き鳥でもあれば最高だなと思う。

食後は麦饅頭とお茶。

歳を取って、こういうものが好きなるとはまったく思いませんでした。

カッコよい老人

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『いつまでもカッコよい』ということと『いつまでも若く見える』というのは別のことに思える。

夏目漱石の坊ちゃんの中で、主人公が俺は若い女も嫌いではないが年寄の女も好きだというようなことが書いてあったのを覚えている。

昔、オーストラリア人の友人の結婚式に呼ばれて出席した時、日本でそのカップルが世話になった家族が呼ばれているのに紹介された。

その家のお婆さんがたいそう美しいのです。若く見えるというのではない。美しい。若い人には決して真似のできない高貴で曇りのない美しさがあった。

そう思ったのは私一人ではなく、むこうの人たちもみんな私のところへ来て、「あの方は美しい。あれほど美しい高齢者はみたことがない」と言った。

私は最近のアンチ・エィジングというのに違和感を感じる。また歳をとってから突発的に運動を始めて急激にキツイことを始めると長生きしないことも、どこかの本で読んだ。それはロンドンのバスの運転手とバスの車掌の寿命の比較であるとか、かなり統計的に調べてある大学の出版局から出ているものでした。

その本では運転手の方があきらかに寿命が短いということが書いてあった。それは運転によるストレスと、車掌(バス・コンダクター)のほうが歩くからだろうという2点が理由にあげられていたのを記憶している。

また過酷な運動では活性酸素も増え、心拍数が上がるので、動物はネズミもゾウも、一生のうちに打つ鼓動数は同じと言う理屈から運動選手も必ずしも長生はしないし、外観はむしろ早く老化するというものでした。

たしかに、私は製鉄所で高炉などのものすごく熱いエリアで働く人は、新陳代謝が早まり、ものすごく老けることを見て、経験的に知っている。世界中、どこの製鉄所で見てもそうです。

「日常生活の動きに近い、無理のない運動がよいらしい」。私がのんびりとしたストレス落としの自転車徘徊、自転車散策を推薦する理由です。

自分の身体的変化を観察すると、自転車に乗っていると脚の筋肉はほとんど衰えていないのがわかります。ただ、腕は筋肉量が減った。腹筋もそうです。また、骨はある程度の重さがかからないと骨密度があがらないらしく、プロの自転車選手では意外に骨が弱いことが研究でわかっている。

ただ肺活量などは陸上の選手などにくらべて、自転車に日常的に乗っている人はずば抜けて加齢による減少が少ないことがわかっています。陸上などのスポーツ選手は本格的なスポーツ活動を引退して、10年ぐらいでスポーツをやっていなかった一般の人と同程度になることが知られている。

男性の場合はある年齢になるとテストステロンが減少して、いわゆる男の更年期になることがわかっていて、これに加えて、固いサドルなどで股間の毛細血管をやられると、急速に男性機能が落ちる。

ニューヨークで警察官や消防署の人たちでMTB系統のシティバイクにいつも乗っている人の間にEDが多く発生して労災が適用されたケースもあったことがアメリカの新聞に載っていた。

このテストステロン、筋トレをすると増えるという。またニンニクとタマネギ、あとは亜鉛をとらないとうまくつくられない。なので私はガーリックはほぼ毎日食べる。チーズトーストのチーズの下にはタマネギを敷き詰める。たまに牡蠣。マトン・カレー。朝はヨーグルト、バナナ、プルーン、レモン4分の1、チアシードを入れたジュースを作る。テストステロンが不足すると鬱になりやすい。初老製の鬱のひとつの要因とも言われている。

そして、男性も女性も、「異性と会うこと、話をすること」がきわめてホルモン上重要と言うことです。

自転車関係者で、自転車ばかり磨き、乗り、何週間も女性と会話を交わさないというような人は要注意です。

これは女性も男性も、「こころときめく人」と会わないとホルモンが出ないらしい。

これはむずかしい(笑)。

一方通行ではダメなわけで、私は男女ともにカッコよくあるように一生努力するべきだと思う。多くの人が日本では、ある年齢になると『どうでもいいやのあきらめモードになっている』気がする。

「洋服、、安いのでいいや」、「食事、どうでもいいや」、「医者にとめられているけど酒でも」、「老眼鏡、200円のでいいや」、「自転車、9850円のでいいや」、「コーヒー、100円ので充分」、これでは『年輪の重さは出せない』。若い人にも一目置かれない。

私はひとつ、30~40代に『洋服の貯金』をしていました。どういうことか?というと、私の祖父が若いころスウェーデンに住んでいたことがあって、きわめて洒落た手織りのタイを持っていた。それはやがて父がするようになり、私のものとなった。同じようなもので、もう少し太くて長いものと、ずいぶんヨーロッパで探したのですが、ついに一本も見つかりませんでした。

その時、「いま英国で普通にみられるウールのタイのあるものは、30年後には絶滅しているに違いない」と確信するようになりました。そして、当時は地味だと思えたものも、50代60代になったらしよう!と大量に、50年代60年代の売れ残りを買っておきました。

私のタイを見た方は英国EBAYなどで、ウール・タイ、ツイード・タイで検索してみてください。現代デザインや、おみやげタータン、レジメンタル・ストライプはあるけれど、私がしているようなものは一本もない。

先週、珍しく都心へ出て、自転車でなかったのでギネスを飲みにパブへ入った。そう言う恰好をしていると一瞬で向こうの人に声をかけられる。

もし、そう言う時、「荷物をたくさんかかえて帰って来るんだから、単黒のジャージでいいや」と思っていたら、決して偶然は呼び寄せられない。自慢の英国英語も出番がない。

イメージはこれ、

Mad men - you only live twice

Youtubeで出ます。ぜひ一度ご覧あれ。

御同輩、歳は長期計画でとりましょう。
「Are you alone ?」これは深いです(笑)。若いころの人生、歳をとってからの人生。2度生きねば(爆)!

フランク・パターソンの思想1

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私は昔からパターソンの絵の中には、一つの強靭な生き方が見えると感じていました。実際の彼の人生を追いかけてみると、やさしい人生でなかったことがわかります。

イラストでは食えない。彼がペア―トリー・ファームに引っ越したのも、家賃がものすごく安かったからでした。しかも、僻地なので訪ねてくる客にも不便で仕事に集中できる。こどもたちは昼間は『表で遊んでいなさい』と追い払われた。

『こんな気持ちの良い雨が降っているのに、なんで家の中で遊んでいるんだ?』という18~19世紀の伝統的な価値観の人だったという気がする。

彼がエンジン付きの乗り物を憎悪していたのは有名な話ですが、彼はチャールズ・ロールス(ロールス・ロイスの2つ目のR)などより先に『パナール・システム』(現代の自動車の元となったエンジンと操舵装置のレイアウト)の自動車に乗っています。

彼は家具のカタログやインテリアのイラストも手がけましたから、英国の伝統的な村の風景、自然、道路の風情、建物、などをたいそう愛していた。それらが自動車の流行によって破壊されるのが我慢ならなかった。

彼がいかに自動車を憎悪していたかは、彼の友人が自動車で訪ねてきた時のために、警察官のぬいぐるみをわざわざつくり、駐車中にそれをいれ、クルマのなかに警察官のDead bodyがあるようないたずらをやった。

あの時代はめまぐるしく流行が変わった時で、自転車が大衆化するにつれ、金持ちはモーターサイクルや自動車へ趣味を移行させた。パターソンはその『自転車が単なる流行』ととらえられることに腹を立てた。『大衆がやろうが、金持ちがやろうが、自転車趣味はよいものだ』というところだった。

現実、パターソン自身、自転車世界に踏みとどまったためにかなりの貧困を余儀なくされたのです。雑誌社は絵画原稿の代金をしぶり、彼の絵に余白の白い部分が多いことに目を付け、その部分の面積を計算して原稿料から差っ引くことまでやった。

それでも彼はきわめて豊かな精神生活を送っていました。現金収入が少なければ、自分で家庭菜園を作り、ビールまで自分で作った。しかも、彼が安く借りた家はエリザベス1世の時代の狩りのためのロッジだったのです。日本でいえば信長が鷹狩で休んだあずまやが朽ちるに任せて放っておかれていたのを直して住み始めたに等しい。

彼の絵画世界は、まさに現代人の『不幸を作りだす技術文明から逃走して、田園生活で人間らしさを取り戻す』ようなこころみだったのでした。その意味、彼は『過去の人』ではなく、我々の『未来の人』だったのです。

*左端の絵はなかなか興味深い。当時自動車乗りは「白馬の騎士」のイメージで真っ白い服で乗るのがお約束でした。モーターサイクリストは油汚れが目立たないように真っ黒の革。そのため、ブルックランズのサーキットのクラブ室への入室を禁止されていた。一方、自転車乗りはもっぱら『地球色』のツイードやコットンだったのです。

田園の癒し

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こういうことを書くと、ますます歳がバレますが、東京オリンピックでアベベ選手が裸足で走るのを見ました(笑)。いまだに思い出すのは、甲州街道へ出るまでに実にみごとなマイマイカブリを見つけ、それを捕まえようとしていて、あわや見逃すところだった(爆)。運動選手より虫が大事だった。いまではカタツムリもすっかり数が減り、マイマイカブリなどという昆虫も絶滅危惧種なのではないか?

どこからか、日本は田園地帯は『遅れている』という『進歩信仰』が出てきた気がする。アトムの唄にもあった「科学の子~~♪」。科学進歩こそ善なるものという科学技術信仰。

科学技術という箱をあけてみたらパンドラの箱。

私はこどものころから、常に田園地帯に住みたいと思っていた。こども向けの図鑑を持っていて、そのなかに地面を切った断面図が描いてあって、地面の中に穴を掘ってカエルやヘビ、亀が冬眠している様子が載っていた。木の洞のなかにはリスが冬眠している。面白いな~とあきずに繰り返し見ていた記憶がある。

その延長線上にムーミン谷の冬であるとか、ピーターラビットの家があった。

今のこどもたちはあんまりそういう絵本や図鑑は見ないのではないか?先週、たちかわの展覧会へ行ったら、隣室で小学生3人が一心不乱にコンピューター・ゲームをやっていた。2時間以上やっていたようです。

漠然と考えるのは、『科学技術は人間を奴隷にした』のではないかな?ということ。言い替えると人間は科学技術の奴隷となった。

私も理科系の頭ではありますが、ちょっと違う風に世界を認識している。たとえば、人間の細胞には生物の30数億年の歴史が刻まれている。単細胞生物時代の細胞の掃除役なども残っている。ミミズなどはある種の『生きている竹輪』みたいなもので、内側になっている皮膚から栄養を摂っている。人間の消化器官などもその進化のはるか延長線上にあるわけです。

遺伝子に過去のすべての歴史が入っているから、ごく最初の胎児にはエラのようなものがあったりする。

ニワトリの遺伝子をちょっといじると、羽がウロコに変わることが知られている。

人間の遺伝子を全部引き延ばしてみると、冥王星まで届くと言われている。

そういう情報をあとさき考えず書き直してみようなどと考えるのは『バカの証』だと私は考える。

30数億年の間、地球と言う巨大フラスコの中で試行錯誤されて安定しているわけだから、実験室の中で人間の限られた一生の中で頭脳で、組み換えをやった後のすべての結果が考えきれるはずがない。スーパーコンピューターを使っても無理。30数億年分の基本データを入力できませんから。

すでにそういうことをやった細菌は兵器として冷戦時代に完成されて存在している。すべての人類を滅ぼしかねない。また遺伝子には水が含まれているわけですが、トリチウムなどは水と分離して浄化することが科学技術では出来ない。つまり、トリチウムが遺伝子にとりこまれたら、遺伝子という動植物が自らを複製して、世代交代によって存続し続けるシステムそのものが壊される。

福島の事故のあと、東北・関東の地下水のトリチウムなどは継続的に検査しているのか?

『お上の言うことを聞いて居りゃあ間違いありませんぜ』なんていうのは江戸時代マインドでしょう。

一方で、相手を倒し自らも滅びることを何とも思っていない人たちや、相手を倒すためなら地球がどうなってもかまわないと考えている深刻なバカもいる。

友人に数日前電話をしたら、九州は隣国から今汚染大気がたくさん来ているらしい。隣国もそんな発展の仕方をして幸福が手に入ると思っているのだろうか?

日本での「未来的な素晴らしいライフスタイル」ってどういうものでしょう?

経済成長の果てに、国民みんなが修学院離宮や桂離宮のような邸宅に住み、ボタンひとつで特殊軽量ガラスで庭との間に透明な仕切りがあがってきて、完全空調にもなり、隣国からのPM2.5もフィルターで除去ですか(笑)?

書院にはパソコンがあり、普段は見えない画面がポップアップして、買い物へ出ることなくネットショッピング?自動車に乗れば、ナビに目的地を入れれば自動運転。関西から関東まで高速列車に乗ってトンネル抜ければ40分。景色無し、駅弁無し。そもそもテレビ電話の画質も動きの自然さも上がるだろうから、自らそんなものに乗って出かけて行く意味がなくなっている。行ったところで、建築の外観も規格も全国同じだから、どこへ行っても新鮮さはない。

郵便もオークションで買った品物もドローンで配達されるらしい。たまにマルファンクショニングしたやつが低空で飛んできて頭に激突して落命したりして。

携帯電話の電磁波で脳腫瘍?白内障?遺伝子レベルでの治療で、莫大な金額をとられ、稼ぐのは失われた健康を取り戻すため???

仕事は『一億火の玉。国家総動員』。一人でも多くのひとが働いて、GDPを積み上げて儲けまくれと?

こどものころから携帯とPC。やがて、GUN-JINになれ。やらされるのはドローンの操縦による爆撃、攻撃。

いや~~~つまらない未来だと思います。

ハーフティンバードの上のような家に住み、庭で野菜と果樹を作り、ジャムを自製し、漬物を自製し、わずかばかりの現金収入があって、晴耕雨読。庭の花を活け、キッチンにはニワトリが迷い込んでくる。天気の良い日には自転車で徘徊。徳川時代のように250年間戦争無し。人はみんな絵を描いたり、陶芸やったり、音楽やったり、好きなことをやる。

そう言う未来にあこがれます。

突然の時には?

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昔からこのブログを読んでいる方はお気づきの通り、私は長らく八王子と今の場所と2本立ての生活を送っていました。311の時、何かの時、2か所に分散しているとうまくないな、と八王子を引き払った。

まあ、仕事をやりながら、年寄の介護をやりながらで、たいへんな混乱でした。一軒分のものを減らすのはたいへんな気力と体力をとられる。

現在、家一軒分のものを4畳半ぐらいまでに整理しましたが、もっと減らしたい。不思議なもので、人間はスペースがあると、どんどん油断して物を増やします。

さて、いよいよ歳をとって、身辺整理、、となったとき、多くの人が気力も体力も残っていない。

ひとつのやりかたは、本当によいもの、気に入ったもの、かけがえのないもの、この3つを別枠にする。

私は若いころから「栄枯盛衰」を繰り返してきたので、ものによっては「また手に入れればいいじゃないか」というものが多い。

気に入っていても「かりそめのもの」もある。自分にとって大切なものはたぶん航空コンテナの小さいロワーデッキ用1本ぐらい。あと自転車が3台。工具、冶具を入れ、自転車3台を入れてもコンテナ2本。あるいは航空コンテナ・ソリッド・タイプなら一本で全部入る。まあ、このあたりは昔の本職ですからわけはない。原木から飛ばせればですがね。ダメならトランス・サイべリアン・ルートを使う。あと、ほかのものは別に忘れられる。

さらに命からがら、、だったらサムソナイト2つ。脱出の方法によってはサムソナイトひとつということもありえる。つまり、リヤカーで自転車で逃げられる(爆)。

ヨーロッパは国々が陸続きですから、年中、国境線が変わっていた。なので土地などは信用していない。

日本とはそこの意識がかなり違う。ヨーロッパで宝石が重要視されたのは、万が一の時、身に付けてすぐ逃げられるから。そして腰を落ち着けたところで、それを売って元手にして仕事を始める。

『すべてのたねは頭の中に入っているという考え』。

日本はながらく「土地が金を産む」という考えでやってきましたが、311を契機に、土地がどうにもならなくなり、転売も出来ない状況が起こり得るということがはっきりした。気が付いている人は気が付いていると思います。

どこかの電力会社の社長は、「東京終了」を覚悟して、病院の中から都心の不動産の売却指示を出していたと雑誌に書いてあった。

日本は大昔に九州の縄文文化が鬼界カルデラの爆発でほぼ壊滅し、大阪の手前ぐらいまで人が住めなくなっていた時期があったことがわかっている。日本中、どこも似たようなものなのです。琵琶湖はだんだん地殻変動で上へ移動してきたことがわかっている。やがては海とつながり巨大な湾になるだろうと予想されている。そのつながるあたりがゲンパツ銀座になっているのだから、私などはどうかと思う。

富士山も死火山ではない。江戸時代の噴火のときには、八王子・多摩地区では直線にして86kmぐらいしかないので、4~6cm火山灰が降ったことがわかっている。自動車は走れない。電気もアウト。火山灰はマグマの粉末みたいなものですから、エンジンの中で融けてバルブなどはみんなやられる。ガソリンのなかにグラニュー糖を入れられたようなものだ(爆)。

クルマは、そう言う時には恰好の『野盗の標的』になるでしょう。グループで襲われたらクルマの動き封じは簡単。抜け道などで立ち往生していたらもっとたやすい。財産資産はコンパクトにして持っているだろうし。高級車ほど獲物でしょう。

火山灰6cmというのは雪の比ではない。

しかもそのふもとにはまたしてもゲンパツがある。

風向きから火山灰も東京へ来るだろうし、ゲンパツに万が一のことがあれば、名古屋も横浜も東京も機能がマヒする。

しかし、そのくらいの規模の災害となったら、一つの都市が大挙して移動せざるおえないわけで、まず避難は無理でしょう。クルマも公共交通機関も役に立たない。可能性としては自転車ですが、これも家族がいたら無理。一人だけでパニアバッグがせいぜい。

私は家に高齢者がいるので、どこへも逃げない予定。

次の首都圏の大地震のときは、日本社会のヒエラルキーが大きく変わるでしょう。

タダで貴方は何をしたか?

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昨日、ある自転車界でよく知られた方から電話があって、パターソンの展覧会を見てきたと言ってきました。

「オリジナルの原画じゃないんだね。」

と言うために電話をかけてきたらしい。別にオリジナルの原画を英国から20点、30点集めることは、私の実力で不可能ではないけれど、

「誰が金を出すの?」

ということです。英国国内では『セキュリコー』という特別な美術品運搬会社がある。それを使って保険をかけて、30点集めると、ハットンクロスの集荷場までで90万円。そこから美術品用の梱包でエアで飛ばして30万円ぐらい。そこから通関業者に金を払い、それも『カルネ通関』という特殊なやり方をしないと、再度国外へ出すときに問題が起こる。

そこから車で引き取りに行って、ここまでで英国内の往復で、ざっと250万円。会期が1か月半で、30点だとしたら、それの借り出しに対する謝礼もある。さらに1か月半、それを盗まれないようにする警備の費用、それらを計算していったら、いくらになるのか?私が現地まで出向く必要もあるでしょう。その旅費やスペースの費用も考えたら、まあ、とうてい1千万円では足りない。

今回は入場無料ですから。

現実の話、パターソンの絵のかなりのものが、WW2の時テンプル・プレスが空爆で焼け落ちたので焼失している。彼の画業をたどるうえで重要な作品で、原画がないものはたくさんある。

パターソンの絵は、印刷によって複製として人の目に触れることを考えて描かれている以上、原画であるかないかは、ほんとうのところ大きい問題ではない。彼の水彩画だけは全く別の人たちに向けて描かれています。

その電話をかけてきた人は、彼の行き付けの歯科医院では原画が2枚かけてあると言っていましたが、それなら、彼自身が声をかけて原画展をやったらよかった。不動産もちの人だから場所代はかからないでしょう。

お金を出すなら、英国で、30号ぐらいの、6枚組の緻密な水彩画をセットで持っている人も知っている。その持ち主はなぜか、パターソンの複製出版で知られる故ジム・ウィリスをたいそう嫌っており、「こういうものをパターソンが描き、このような大作が存在すること、自分が持っていることを決してジムには言うな」と固く口止めされた。ジムにも私は3度ほど会ったことがありますが、パシュレーの社長エイドリアンと同じく、彼もロールス・ロイスの社員でした。

常に貧困の底にあって、空白の部分の面積を絵画原稿料から差っ引かれ、『描き直し』を頼まれるとハサミで切って送り返して終了としたパターソン。そういう人の絵が金儲けの種になるのは良い気持ちがしない。

過去45年間以上、いや70年間、日本でフランク・パターソンの生涯がわかるような展示が行われたことはただの一度もありません。

故太宰さんもサイクロへ行った時、パターソンの銅板を社長からもらって持ち帰っているはず。あれもどこへ行ったのか?

私はそういうところが問題だと考える。私は故今井さんに、27年ほど前に菅沼達太郎のサイクリングのスケッチブックを見せてもらいましたが、その後の行方を知らない。そういうものも、パターソンとの関係において展示したらよい。

フランク・パターソンはバーミンガム・サイクロ社のカタログの絵を描いていましたが、そのオリジナルは私は持っている。菅沼達太郎はその関係から、サイクロの3段変速を自分の富士フェザー号につけていました。

今井さんはその変速器を形見として引き受けたのですが、なぜかそれが「残念ながらフランスのシクロではない」という但し書き付きで売られ、現在はかつてT村さんのところで選手だった人の手にわたっている。買った人は、
「モノを見てすぐピンと来たんで、入手した後、自宅で写真で確認したんですが、キズの位置まで、すべて菅沼さんのものと同一でした。かつての菅沼さんの車両についていたものに間違いありません。」
ということ。かくして、あわや、単なるモノとして、日本の自転車の歴史が消えるところだった。

今回、松ちゃんの声かけで展覧会の運びとなったわけですが、私は彼が4万円ほどポケットマネーから持ち出しなのを知っている。私自身もそのくらい持ち出しです。額縁も多くは我々が供出している。

彼は今年の正月に家族が火事で被災しているのでたいへんなはずなのです。

私はそういう無私な行動を高く評価する。現代日本に多い弾の飛んでこないところでの評論家の言うことは、私にとってはどうでもいいことです。

鉄味の七化け

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その昔、中学の時、ギリシャの神殿や彫刻が極彩色に塗られていたというのを知ってビックリしました。

一方で、昨日造られたかのような古代エジプトのものを見て、やはりビックリした。

私は雨や風によって洗われた古代ギリシャのものがいいなと思った。

じつは日本の神社なども極彩色のものが剥げ落ちてじつに良い風情になったものが多い。

湯気がたっているような出来たてホヤホヤ、どこのすみも直線でスッキリ・シャッキリというのは味も素っ気もない。1960~70年代には『古代遺跡、廃墟のブーム』がありました。

そのころ、『なぜ?人は遺跡や古いものに魅せられるのか?』ということをよく考えた。たぶん、人間の作った『人為的ないやらしさが薄らいで、自然の中に融けてゆきつつあるところ』が良いのではないかな?と思ったりしました。

その後も、どうもキンキラピカピカは好きになれなかった。経年変化しないツタンカーメンの黄金と宝石のマスクにも、クレムリンの琥珀の間にも、中世ヨーロッパの宝石工芸にも、まったく関心がわきませんでした。

この古いもの、錆びたり風化してきたものを愛する心持は、日本も西洋も中世以降からさかんになったのではないかな?と言う気がする。つまり、かなり文明が進まないとそういう「わびさび」の境地には来ない。

英国にも遺跡愛好が18世紀にあって、庭園に巨大な遺跡の偽物を「FOLLY」と言って置いたりしていました。天井の石膏細工などもシルクロードのパルミュラの遺跡で発見されたものが複製されて英国の屋敷の天井を飾ったりした。

19世紀になるとディケンズの小説で骨董屋を扱ったものなども出てくる。

英国が産業革命の一大中心地だった19世紀に、同時に「古いもの愛好の中心地」だったことは興味深い。ここは日本ではじつはあまり見えていない。

幕末に蒸気機関や黒船などを見せられて圧倒され、「先進技術こそよいもの」という盲信を擦りこまれた感じがする。それがWW2以降加速され、もう古いものを憎悪するかのように破壊がすすんだ。

利久はいつまでも枯れない菊が大嫌いだったそうですが、永続性を嫌い、すべてのものはやがては消えゆくという世界の利久にしてみたら当然だろう。

秀吉の黄金の茶室もある意味で、『ツタンカーメンの黄金のマスク』と同じようなものといえる。

『いつまでも新品のように』という希求。そして豪奢であること。

こういう傾向は現代にも形を変えて、消えずに残っていると私は思う。昔は古い旅館へ行くと手水はだいたい石か陶磁器でしたが、70年代からどんどんステンレスになった。窓枠も木製は姿をひそめ、アルミかステンレスになった。

自転車の世界でも「錆びないから」と鉄よりアルミやステンレスを好む傾向の背後には、「いつまでも新品のように」という「黄金のマスク願望」があると思う。

実際には鉄は800年以上もつ。しかも「どんどん顔色を変えて味が出る」。一方のアルミは粉を吹き、白くなって、崩壊しはじめたら味は付かない。修理も不可能。

英国へ行くと、いい鉄味のものをよく見かけます。分厚い木の扉にそれを束ねる鍛造の鉄の飾り板が表を覆っている。暖炉には鋳鉄の反射板や「ドッグ」と言われる薪をのせる台がある。

ゲートも鉄。キッチンストーブも鉄。ケトルも鉄。彼らはその鉄が時を経て味が付いてくるのを楽しむ。

自転車も英国では1930年代まではそういう鉄の物の延長線上にあった。誇らしげに「ALL STEEL BICYCLE』と書いてありましたから。

鉄瓶に古い味が付いてくるように、おおらかなこころでサビも許す。『サビも凹みもその品物のキャラクター』と英国ではよく言われる。

『銀閣寺がくすんできたから、フルレストアをかけて新品同様にしよう』などと考えないのと同様、時代が付いたら、そのまま使う。丁寧に扱い、丹精こめて保守されたものは、錆びても凹んでも、擦り減っても、必ず良い風情になってくる。

私が自分の自転車にけっこう鉄部品を平気で使う背景にはそういう思いもある。『味』になりますから。

古びるたびに塗り替えたり新品未使用に入れ替えていたのでは貫禄が付かない。

じつは英国の格調というものと、そのあたりは切り離せないと思う。私はスペインへ行った時、古い自転車をまったく目にしなかったのが不思議でした。古着屋の類も見かけなかった。すべての消費材が新しい。そしてスペインには『日本とそっくりな巨大なセメントニュータウンがあったりする』。

これは耐久消費財のありかたも同様で、英国で古いモデルのブラックキャブをみると、なんとも心和む。鋳物でできた電話ボックスがなくなった時、新型の「さびないガラスケース」はなんとも大量生産の安物感たっぷりで、英国も落ちたものだと感じた。

これは、私は自動車などでも同じことを感じます。つまり「古びて行くことを許さない」「常にピカピカで新品同様でないとならない自動車」がある。

2CVやシルヴァーシャドー以前のロイスは、多少擦り傷があっても錆びていても、丁寧に磨かれていると、やはり美しく、格調がある。そんな些細なことは問題にさせないようなところがある。

この理屈は家にもあてはまるのではないか?古びさせないために壁に全面にタイルを貼り、毎週末ホースで水をかけて汚れを落とす。ゲートはアルマイトのアルミの鋳物にする。ドアもアルミにアルマイトや特殊樹脂加工をする。

これは「工場を出る時が一番綺麗で、あとはキズが付いたり、アルマイトの色がねぼけてきて見苦しくなる」。一方で、もし、屋根が金色の銅葺きだったら?やがてくすんだ茶色になり、さらに濃くなり、「ろくしょう」を吹いてミドリ青になる。

都市はそういう乗り物や建築の集積ですから、都市の味わいや景観はかなりそういうものの影響を受けている。

さて、我々の都市や工業生産物は美しい年輪をかさねるのだろうか?

男と女の経済学

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長年、というか人生の半分以上を海外との仕事で生活してきた自分からすると、日本の男女の経済感覚というのは独特であると思う。

財布を完全に妻に握られている男性がいかに多いことか。

結婚するまでは男がみつぎ、結婚後は完全にコントロール下に置かれて『妻が鵜匠のウになる』ケースがきわめて多い。ダンナは「ウ」になって川に潜り魚を獲ってくる。

『自分の金を自分で使えない男』があまりに多い。

これは海外ではC國以外はまずないことで、日本にいる欧米人の間では有名なことです。

『亭主は母親からおこづかいをもらう中学生のようになっている』。よく海外のメディアで「日本の男はマザコン」という表現が載りますが、その言葉の背景にはそういう観察結果があると思う。

日本は古来、刀のこしらえや根付、煙草入れの金具などで世界にも稀な工芸品を作りだしてきた。その点から言えば、世界的に有名な男性用品ブランド、アルフレッド・ダンヒルやS.T.デュポン、ギ―ヴス&ホークスなどと並ぶブランドがあってもよさそうなものですが、ひとつも聞いたことがない。

これは『亭主族が骨抜きになっている』からだろうと私は考えている。

たくましく世を渡る男の文化が危機に瀕しているのではないか?結婚後には妻にモーターサイクルをあきらめるように説得され、自宅で使うクルマは『ピカチューみたいな顔をしたかわいいファミリカー』。やがては建売でも節約の果てに買い、ローンを払いきったところで人生が終わる。

稼ぎが少ないとか妻になじられ、家では委縮して、こどもたちもそういう父親を見て育つので、父親に威厳も権威もなく、息子は荒れる。母親はモンスター・ペアレンツになる。

「おとうさんみたいにならないように、良い学校へ行ってたくさん稼ぐ人になりなさい。」

私はこれは日本を滅ぼすと思います。

男は成人してから隠居まで成熟の延長線の上にあるわけで、20代で40代、50代の人たちを動かし、使えるほどの器のある男など一人もいない。その目先の稼ぎの多寡で、妻が男の成長を止めていると私は思う。

黒澤明の七人の侍に、火縄銃がないと聞いて、「よし、俺がとって来る」と一人で走って暗闇へ消えて行くシーンがある。浪人が金がないでいるところへ、金が要りようになると、黙って表へ出て行き掛け試合で稼いで戻ってくる。そういうものを金に頓着せずに妻に渡すのと、「鵜飼のウ」になるのとは180度違う話です。

私の知っている人で、たいそう腕のいいモーターサイクルの整備の出来る男がいる。戦前のビッグシングルのカッコよいものに乗っていた。バイクが好きな男なら誰でも停めてあれば立ち止まる。

それは彼の「腕」の存在証明だったと私は思う。機械加工の工場へ彼がそれで乗ってゆけば、客先へのたいへんな広告になるだろうし、そういう趣味人の情熱漢なら、と引き抜きや独立援助の声もかかるかもしれない。同業者の若い職人で彼に付いてくる者も現れるかもしれない。

それこそが『男が引き寄せる運』というものであり、世に出るきっかけになる。

日本のダメな妻と言うのはそう言う部分が見えない。その彼、妻のベルトドライブの安物自転車で通勤している。それでは「男は一目置かれない」。

私の知っている人で、ヨーロッパ製の超高級自転車を買った人がいますが、買う時に妻が出て行った。「2台買うからまけなさい」と交渉に出て行った。私は一切かかわりがないが、はるか離れた私の耳にも入ったということは、趣味の自転車界の人たちみんなの知るところだろうと思う。これはずいぶん「男を下げる」ことだと思う。

RRへ行って、ファンタムとゴースト兇販省磴Δら3割まけろ、などと言ったら、自動車の世界なら100年間、全世界で語り継がれてしまうだろう。

ある仲間が妻の圧力で最近家を買った。周期的に考えて関東ではいつ大地震が来てもおかしくない。半壊、全壊ならローンだけが一生残る。東京に住めなくなる可能性も充分ある。そう言う天災で経済がズタズタになれば、それで一生が崩壊しかねない。

私だったら、そういうものが来た後を狙うだろう。男が軍師として策を考える意味はそこにある。

今朝は朝からそういう電話が、見ず知らずの注文主の妻なる人からかかってきて電話で切れまくった。ものは準備が出来て、払う段になったら金を惜しむ。これは瞬時にすべてが趣味性のものでなくなる。

昨日、昔の彼女からメールが入った。父親が危篤で入院しているハワイの病院へ行く途中、地球を半周して、トランジットで成田に2時間いるので電話をするとのこと。兄は片腕、片足手術で切り落とし働けない。彼女は父親の湖のほとりの家をキャッシュで買って、それで父親はホームへ入った。すべては彼女の細腕一つでやっている。強い女性の意味は東と西でずいぶん違うとはからずも知ることになった週末でした。

1億国家総動員経済で増えるのはどちらのタイプだろう?仕事をけっこうとられ、弱まる男性がもっと増える気が私はする。

ペダルとクランクの選択

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仙人クラウドを組んでからずいぶん手直しを重ねましたが、杉野のPXのクランクを交換予定。ずいぶんSUGINOのクランクのシャフトを買ってみて、ようやく1本シャッキリとチェンラインが出るのがありました。

ネット上ではMAXIのトリプルのシャフトがPXに合うらしいとか書かれていますが、ドンピシャでラインが出るものがあります。刻印はまったく知らない記号が打刻してありました。

ところが奇妙なもので、PXを生産していた時代のスギノは、『左右対称』ばかりを考えていたらしい。ネット上の古い杉野のクランクのサイトでも『左側がひどく飛び出る』ことが書かれていますが、長距離を乗ると、左脚のくるぶしの上の外側が疲れる奇妙な感覚がある。

私はリアのハブのオーバーロックナット寸法が96mmでボトムブラケットの幅は5cm(2インチ)ないような、ペラペラに薄い古い車両に乗ったことがありますが、左右のペダル間距離が小さい自転車はじつに乗って気持ちがよい。

これは直立歩行の人類の特徴として、バランスをとるのを容易にするために、両方の足は身体の中心線近くに来るようになり、足は骨盤よりはるかに内側にある。

そのため、人間の大腿骨は「Vの字型」に角度がついている。一方でゲンコツを地面について歩くゴリラやチンパンジーは『ナックル歩行』と言って、両方の脚が平行になっています。

通常、多くの人が左脚を軸足にして、そちらに重心をかけていますが、これは左足に立って、右足で蹴るほうが違和感が少なく感じる人が多いはず。それが不自然に感じる人は反対側の脚が利き足なわけです。

私も左足を軸足にしているので、両足をくらべると、「なるほど、左足のほうが体重を支える役を長年やってきた感じがする」という外観をしている。左端の写真の人も、左足のほうが支える足として発達しているのがわかります。

自転車に乗っている時も、左足を下死点に、右足を上にして巻き上げていることの方が多い。

これには、道路の断面が「カマボコ型」で、左右の端が排水のために低くなっているため、左側通行では2輪車の場合、左足に立った方がペダルと地面の最低地上高の関係でも、ハンドルの進路修正でもやりやすいということもからんでいる。

左右のペダルは自転車の中心線に近づくほど人間の本来の『骨組みの動きやすさ』に近づくわけです。

実際の歩行では右足は中心線近くまで、左足も同様に、上から見ると円弧を描いて中心線近くに来ることが知られているので、ペダルをこぐよりもっとはるかに内側にくるように身体の骨組みは出来ている。

そのため、先の「左側を、クランクを左右対称にするために飛び出させたPXのクランク」は、どうも左側がしっくりこない。完全に機械屋の発想で、人間の身体に関する視点が抜け落ちている。

フランスの有名な、「自転車の生き字引」と言われたミシェル・ドロールが『あえてフロントにトリプルを入れている選手では、右脚・右膝の故障を持つ人が多い』、と観察していました。活字にもなっている。たしかにそうだろうなと思う。PXのオリジナルのシャフトだと、それの左側版になっている。

ヨーロッパのクランクでは、ボトムブラケットの左のワンと左クランクの内側がギリギリで2mmぐらいしかあいていないものが多い。締め込むうちに擦りそうになってしまうものすらあるのは、ヴェテランならご存じのはず。

しかし、それが踏みやすさと裏表の関係にある。

また、PXは断面積が大きく、かなりゴソッとしたふみ心地のクランクです。「一気に細いスチールのクランクでも入れてやろうかな」と思ったりする。

また、ペダルも昨年はうちのオリジナルがあがってきまして、きわめて具合が良い。ただ、今後もそれをやるかどうかは疑問符です。量産するめどがたたない。プレス屋は国内ではどんどん消えている。中古の機材屋では大量にそういう機械が売りに出ている。みんな海外へ流れてしまっている。

問題は、そのプレスの機械がどこのを使うかによって、型の設計が変わるわけで、やってもらうところが店じまいしたら数十万の型をやりなおしになる。数千円のペダルを売って100万弱の型代を回収するのはたいへんな話で、うちなどがやる話では本来ない。

レーザーか放電加工機なら少量生産できますが、ペダル価格は万の桁になる。それが高くないという人にはやってもよい。

リオターのプラットフォーム・ペダルを使った経験のある人はご存じだと思いますが、あれはじつに足の裏が疲れる。これはコンストリクターのプラットフォーム・ペダルでも、どれでもそうです。あれはトラック競技場で、ペダルの強度を落とさず、グランドクリアランスを稼ぐためのものでしかない。

同じ理屈で、踏み面を上げたペダルはじつに踏みやすく、疲れないのです。足の裏も楽だし、足首がファジーに一番踏みやすい位置に自動的におさまる。

「こうすれば乗りよいものが出来る」とわかっていても、まあ、なかなか商品化できないというか、軌道に乗せられないというのか。日曜日の朝っぱらから、非常識な見ず知らずの女性からの携帯への電話に切れまくらないといけない日々です。

見~た~な~~(怨)

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近頃、うちの車両を見たとしか思えない色を塗った車両をよく見かける。シルエットも似せている。

先日、「寸法わかるように真横から写真を撮っておいた」と言った人の話を書きましたが、そういうことなんだろうな、と思う。

走ってみれば差は歴然なんですが、ネット上ではわからない。

昨日、電話で話していたのですが、シルバーゼファーはフランス式とは言いながら、あれは日本独自のシルエットで、今見ると日本の車両に見える。しかも、あれは不思議な乗りよさがあった。

しかも、フロントにかなり伸ばされた泥除けで回転している前輪が見えず、補強のU字ステーは、私の乗ったのは10mmで、まったくブレず、その先の砲弾型ヘッドライトも、戦艦のバルバスバウのようで、いかにもかつて海軍にいた鳥山先生の設計と言う感じが濃厚でした。

何が言いたいかというと、あれは真似ではなかった。

当ブログはかなり同業者の方が見に来ているようなので、そのせいかも知れませんが、このごろ「ああ、似たような色に塗ったな」というものを街で見るようになった。

アップした写真は10数年前に四国を28号の1号車と走って、実地テストしたときのもの。

なぜアップハンドルにフロント・サイド・バッグを27号では試し、28号でやめたかというのは、

『深い言われがある』(爆)。

ウソだと思うなら一緒にうちの最新の28号と四国の山岳を走ってみましょう。

また長いステムと、バケット・ハンドル(コの字型に曲がって手前に戻ってくるハンドル)を採用しなかったかというのも、あれは工学的にダメだからです。

基本的にハンドル自体が自動車のトーションバーのサスペンションのような働きをして、グリップが上下に動き、それが長いステムと組み合わせられると、左右にもねじれてほにゃらけて操舵性能劣悪になる。

なので、バケットハンドルに長いステムは、英国では1933年までにほぼすべて絶滅している。

英国では、アップハンドルにフロント・サイド・バッグも1928年頃を最後にやらなくなっている。

製作者はそういうこともすべて調べてから物を作るべきだ。

写真は失敗作の27号です。まったく28号の1号車に歯が立たなかった。

一度、生成り色の帆布でフロント・サイド・バッグを作ることも考えましたが、四国を回って考えが変わった。

アレックスのように言えば『あれは過去だ!』(笑)

年齢の日の当たり方

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生まれてからずっと、ひとつの道の上をライトが照らすように、人生が進んでゆく。

これは引き返せない。30歳の時のあの道へもう一度立ちたいと思っても無理なんです。

20歳の時、だての薄着で平気だったのが、45歳を超えるころからけっこう寒さに敏感になったりして、20歳の頃、何とも感じなかったカバンやコートの重さが70歳を超えると重荷になるらしい。

私も50歳を超えたあたりで、一眼のカメラやフィルム式の2眼のカメラの重さが嫌だなと思うようになった。海外旅行用のスーツケースのサイズもひとまわり小さくした。

長年ニュー&リングウッドの靴だった。それが最近、底の厚い靴が楽だなと思ったりする。外で食べる時、『ごはん少な目』と言う。

そのライトが照らしている道が、突然なくなっている人もあるだろう。

私の周りの知っている人で、43歳ぐらいで道が消えていた人がいる。48歳で消えていた人がいる。

まわりも本人も「そんなに早く道がなくなるなんて!」と思う人も少なくないに違いない。

道が消えるのか、ライトが消えるのか。どちらなのかわからない。

同じ人が歩いているのだけれど、体内の水も分子も入れ替わる。6年でその人のすべての構成要素が、分子的には入れ替わって別の物になっているそうです。それでも同じ人。

30歳の時のその人の魅力、50歳の時のその人の魅力、70歳の時のその人の魅力、すべて種類の違うものでしょう。

ある自転車の関係の人と話していて、「アップハンドルに抵抗がある。ドロップのレーサーで頑張る」というのを聞いてずいぶん違和感を感じた。「頑張って抵抗する」と言うのですが、『何に抵抗しているのか?』。

体型も体力も外観も、第三者が見たそれらすべてが、すでに50歳代半ばで隠しようもない。それを20年前のままのありかたでいたら私は不自然だと思う。

いまから30年ぐらい前、東京の電車の中で老婆を見た。75歳ぐらいだろうと思いましたが、厚化粧をして、真っ赤なミニスカートに赤いハイジのような靴をはいて、縦縞のカバンを持ち、髪にはリボンを付けていた。強烈なアイシャドウに真っ赤な口紅。

彼女も「頑張って抵抗していた」のかもしれませんが、痛々しい。

昔、ジャコモ・カザノヴァの日記を全部読破した。旅と色ごとに明け暮れた彼が晩年は「旅がつらい」とこぼしている。若き頃の美貌はもはやない。若いころには聖職者で、信徒にモテまくり、追放されたカサノヴァが見るも無残な老いを見せる。最晩年、彼はべートーヴェンの後援者のひとりワルトシュタイン伯爵のライブラリーの司書になった。ゲーテが彼に会いに行っている。時代遅れで滑稽だったと言われている。

6年間で分子総入れ替わりですから。

じつは人の形をしたものが道の上を歩いているうちに、照らすライトで自分がしだいに氷が融けるように痩せて居るのかもしれない。

だから荷物を軽くして、着るものも軽くして、歩くペースを遅くしてみて、のんびりと行く。

残りの道のりが短いから、のんびりと立ち止まりながら楽しみつつ歩む。

60,70,80,90になって30歳と同じように振る舞い、語り、考え、やっていたら、それは『未成長』、『未熟』ということだろうと思う。厚みに欠ける。

30歳と60歳と90歳では、別の分子で出来上がって、別の魅力の持ち主であるべきだ(笑)。

剣聖、飯笹長威斎は102歳まで生きた。最後はお寺まで建てて、天寿を全うした。朝日と共に起き出でる生活。そこまで道が途絶えず、日が当たるように光が当たる人生は珍しい。

30歳では30歳を生き、40歳では40歳を生き、50歳では50歳を生き、60歳では60歳を生きる。もし70歳まで30歳のままで「頑張ったら」、人生の40年分が失われると私は思う。

ほとんど同じ好みで同じようなことをやり、同じような音楽を聴き、同じようなものに乗り30年間?進歩停止の期間としては長すぎる。

味のある中年期、壮年期、初老期がなく、後期青年からいきなり後期老年(爆)。そんな人生は私は嫌だ(笑)。

励み

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Yahooブログをやっている河っちさんのところへ、昨年12月、ぎりぎりに納車がかないまして、「スターくん」と言う名前もつき、いまインプレ記事が載っています。気に入ってもらえ、激賞されているので励みになります。

まあ、納期のことは、一人でやっているのでどうしようもない。

あまり高くすると、『禁止税』のようになって、ごく一部の人のものになってしまうし、また、もうひとつの問題は、海外生産で、それより安く同じような外観で同じような色のものをぶつけてこられるおそれがある。

それをやられたらうちなどはひとたまりもなく終了ですから。海外で作って国内マージンを入れて販売できないギリギリの価格を、低くキープしている。

黒鉄さんなどは「2台も買っておいていまさら言うのもなんだけれど、あれはフレームだけの値段かと思いました」と言われた。

そういう具合なので、下働きを雇う余裕もない。梱包までやるとなると、箱の手配、梱包材料まで取りにゆくことになるので1日仕事になる。

本来は『試作屋、設計屋』までのつもりでいたので、大きな誤算だった。

アップハンドルは向かい風に弱いというのが唯一の弱点ですが、これもじつは解決策はある。極小のヘルメットサイズのカウリングで空気抵抗を激減さすアイデアもあるのですが、そこまでやる余裕がない。

昨晩、仲間のビルダーに電話をしたら、最近は電話恐怖症だと言っていた。
「納期のことで謝らなきゃいけない電話しかかかってこないからね。どこもそうですよ。みんな大酒飲むわけでもないのに、ビルダーはみんな血圧高いし、心臓やられたり、脳溢血やったり、みんなストレスですよ。」
そうだろうなと思う。

ある雑誌社の編集長から夜電話がありました。なんでもオートレースのフレームとかは、寸法も角度もみんな同じだと言うのですが、同じ人が同じ材料で作っても良し悪しがあるという面白い話を聞いた。

「だからS級の選手は10本ぐらいフレーム作ってもらって、エンジン載せてブワーーーッツと回して見て、フレームによって振動減衰性が違ってエンジンが吹けないのがあるんだって。そういうのは、アッ、これダメって捨てちゃうんだよ。」
なるほどな、と思う。人力の2輪車のフレームも同じだと思う。だからイライラしたり、腹をたててやった仕事はロクなことにならない。結局、つぶすしかない。

先のビルダーの仲間と「我々もストレスにやられないように頑張ろうね。」と言って、電話の上に座布団でも置いておいたらどうかな?と言って電話を切ったのでした。

古い乗り物を考える

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古い乗り物をやっていると、なかなか考えることがたくさんあります。

大ざっぱに言って、「動かし続けるのがたいへんな乗り物がある」。もう、どうしても自分でなんとか補修部品を作るのが難しい部分があります。

たとえばラレーにRSW16という自転車がありましたが、これはタイヤがない。どこを探しても、もうないのです。作ろうと言ってもタイヤなど、そう簡単に作れるものではありません。

近いもので代用しようとしても、乗り味が変わってしまう。

うちから出た28インチのロードスターの古いものを、友人がダンロップの古いものから現代の日本のものに変えた。

「びっくりするほどがさつになりました。」
というコメントだった。

モーターサイクルなどでもタイヤの特性は重要なはずで、サイズがあっても、もはや想定性能は出ない場合が多い。サンビームのロードスターなどはブレーキシューの補修部品がない。

「ゴムを削って作ります」と言った人がいましたが、サンビームのブレーキシューは鉄板の芯が中に入っている。ゴムのペレットから加熱して硫化させて作れない人には無理。またサンビームのロードスターには右のチェンステーがフレームとして存在しない。鉄板に穴をあけた構造材が、チェンケースの中にハンダで貼ってある。溶接ではないのです。なかの力木にあたる鉄片のハンダがとれたら修理には困難を極めます。一度たい焼きの型のように剥がして、修理して、また合わせるよりほかない。

英国の古い自転車の多くは26×1・4分の一のタイヤが使われていますが、これも現在ケンダの古いものぐらいしか入手できません。ところがケンダの1・4分の一はそれほど高性能なタイヤではない。

こうして見て行くと、レアなものほどたいへんな困難を伴うのです。私がローズを残したのは、1920年代の自転車でありながら、ほとんどスペア部品に困らないから。

そのほか古い車両ではスポークの長さが問題になる。昔の英国車だと16番のスポークが使われている競技車両があり、バテット・スポークのものも多い。このあたりもまずスペアはないと思った方が良い。28インチの15#とかバテットとかの、32H用の長さのものはまずない。古いはんぱな車輪を探してほぐす。

サンビームの古いロードスターのフロントハブの球押しは、見たこともないような形状をしているのでこれも他の部品で転用が利かない。同様にロッドブレーキのネジやボルト、ヘッド小物のネジも他のものの転用が利きません。

こういうものを動かし続けるには「人脈力」が必要なわけで、それがない人はやめたほうがよい。

さらに、もうひとつの観点として、『現代の路上で使い物になるかどうか?』と言うことがあると思う。

自動車でも、現代の路上ではヒヤヒヤするものがあるのと同様、古い自転車でもそういうものがある。ブレーキが心もとなかったり、ハンドリングに癖があったり。

完全にパレード・ライド、もしくはごくたまにタイムスリップで乗るのなら楽しいものもある。

そういう車両に出くわすまで数をこなすのもたいへんです。

ある仲間が半世紀以上前のレコード・エースを買って持っていた。それを売ろうと思っているという。私も何台か持っていましたが、「乗ると普通」なのです。つまり、あまりに現代車と変わらないので、タイムスリップ感がしない。そこがまさしく、彼が売りたい理由らしい。レコード・エースより重量も重い下のモデルのスーパーレントンやクラブマンは意外と現代にない乗り心地で面白かったりする。

私もH.R.モリスを何台か持ちましたが、良い自転車なのですが、「乗ると普通のスポルティーフ」でやはりタイムスリップ感がない。ラグは立派です。それはしかし装飾だから、自転車の本質ではない。これはへチンズなどにも同じことが言える。

私は「ああ、じつに良いな、こういう乗り味は現代車にはないな」としみじみ来るものが好き。

1930年ごろのフレディ・グラッブなどは最高だと思う。良く走るし、なによりもときめきがある。

1920年代のスローピング・トップなども奇妙なかたちだけれど、乗ると実に味わい深い。古いものなのにハンディを背負った感じがしない(上の右端、スポークは16番、実に細い)。マニアは「奇妙な形だな」と思うかもしれない。しかし、こういうものは、じつはこれだけでは本質が見えない。

この右端の自転車などは、『自転車単体で見てはいけない』典型です。もし、これに濃い目のニッカボッカをはいて、コーデュロイ・ジャケットにコーデュロイのキャスケットを被った人が乗ったらどうか?ダイアモンドフレームでは出せない味わいと迫力が出るはず。

私はじつは自転車は乗り手がない状態では抜け殻だと思っている。乗り手は全力で演出するべきだ。

また、その車両の「鮮度」も問題で、あまりに距離が出ていたり、中の錆がひどかったり、再メッキが入っていたりすると『腰が抜けている』ものがある。外観がどんなに綺麗でも腰が抜けているフレームでは乗って楽しくない。極端に薄い軽量フレームでもこれはよくある。石渡でも超軽量パイプは保証が半年ぐらいだったのではなかったか?それが何十年も経っていたらかなり危うい。握ると賞状のようにつぶれそうな手触りのものがたまにある。

だいたい重い自転車のほうが、パイプの肉厚もあって古いものでは安心できる。

昨日、Ebayでサドルを見たら、1940年代のオーバル・バッジのBROOKSが10万円ぐらいしていた。そうなると、古いサドルは良く良く注意して乗らないといけない。

そうしたふるいをくぐって、これぞという車両に絞り込む。「これだ!オレが探していた自転車は!」という感じでしょうか。その時代の絵を集め、その車両と同じ時代の工具を集め、タイムスリップ感を出す。

そういうところに古い自転車の楽しみがある。

「美学はその時代、その時代で完結している」ものです。1980年代の部品で、どこにも嫌な部分がない部品は2016年でも美しい。同じように1920年代のもので、どこにも目障りで嫌なものがないデザインは古めかしくとも2016年に通用する。

こういう「タイムレス」なものに落ち着きを見出すのも、また古いものの楽しみですが、いくら古くても、いくらレアでも、いくら高性能でも、2016年になって眺めた時に、美しいものとして、味のあるものとして通用しないものもある。

また古いものには修復家のセンスの問題もある。左から3枚目の車両のステムは別のジャンク車両から持ってきて組み合わせましたが、塗色はオレンジ色でした。不思議なことがあるもので、カシューの青がほとんどフレームの濃いブルーと同じだったので、カシューで塗った。古いステムですから、剥離剤につけたり酸洗いをすると弱くなるだろうと思った。しかも焼き付けをすると180度~210度ぐらいに温度が上がるので、70~80年前のものには過酷なことになる。カシューなら自然乾燥です。

この左から3枚目のBATESも、もとはフレームだけでした。最も苦労したのはヘッド小物。英国の自転車雑誌の仲間、レイモンドの助けがなかったら動くようには出来なかった。『ブレーキの当たり面のあるコンストリクターのリム』もこれに使ったのが私が持っていた最後の1ペア。スポーク穴によくヒビが入るので知られたリムなので、生存率がものすごく低い。つぶしたりヒビを入れたらもう次がない。こういうのは無目的に乗ってはいけない車両なのです。もともとは滑らかな木の床の六日間レースやまったく凸凹のない道路での10マイルのタイムトライアルなどを走っていたわけですから。

ブレーキを2点出してみましたが、時代を超えてどちらも完成されたデザインだと思う。どちらを好むかは好みでしょう。どちらも、いかなる時代に連れて行っても洗練されたものとして通用すると思う。

戦国ダイエット

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昨年よりかなり食事に気を使い、ついにジャケットのサイズが一サイズさがりました。

昔の3つボタンのジャケットが着れる♪。

さらに継続して春にそなえよう!と燃える。

たぶん、戦国食がずいぶん利いているのではないか?

ところで、どうしてもやってみたいものがあった。

織田信長公、柴田勝家公がお気に入りだった『戦国流ぶっかけめし』。

イワシを焼き、それをご飯の上に置き、焼き味噌、八丁味噌などを足して、熱湯をかける。

「戦国カップめし」のようなもの(笑)。

不味かったら、責任とって我慢して食べる気概でのぞむ。

う~~~~ん。これは、、、「現代日本人が忘れていた味だ」。悪くない。

イワシは薩摩の無添加の伝統的製法の物。八丁味噌は1337年からやっている岡崎城の西にあるまるやさんのもの。これは美味い。

カタクチイワシの干物の焼ける香ばしい匂い。八丁味噌が味噌汁とはちょっと違うコクを与えている。カタクチイワシから出るだしが鰹だしの替わり。イワシ自体も食べられるし。昔は胡麻などもいれたらしい。

これは非常食にもってこいなのではないか?地震で家の中に入れなくても、これなら簡単。

これはもはや「戦国兵器」の域に達している(爆)。

戦場ねこめし(笑)。春の到来とともになわばりを宣言して吠えたくなって来る。

「青年よ、カップ麺を捨て、武将ねこめしの世界へ来たれ!」

なんだか、信長公のように「キレやすくなる」感じもする。いいな、これ。

週に2食はこれでダイエットしつつ、過激になってみるのはいかが?

明日から自転車界に天下布武出来そうな気がしてきた(爆)。

ポタリングについて

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現在、ウィキペディアで「ポタリング」を引くと、「和製英語」と書いてあります。ネット上でもそれが反復されて、ご丁寧にちずかさんが最初に考案した語だと書いてあるのものも多い。

これを聞くたびにに私はイライラするので、ここにはっきり証拠として写真をアップしておきますが、ポタリングというのは19世紀から使われていた語です。古い文献を読むとでてきます。

アップした写真は1891年に出版されたバドミントン・ライブラリーのなかの1ページ。

当時はランブリングより短い、ほんとうに家の周りしか乗らないことに対して使われていた語です。

1891年というのは、まだ前輪の大きいダルマ自転車なども走っていた時代ですから、乗車技術のない人にとって、自転車はそんなに遠くへ行くためのものではない、という、「家の周りでの遊び」程度に考えている人が多かった。

それが「セイフティー自転車」(安全型自転車)という、現在の前後ほぼ同じサイズの自転車の登場により、可能性が広がり、荷物も積めるようになった。

音もなく、馬の力によらない旅人が自転車で遠くから自転車でやってくる。

ラッジ・ウィットワースは世界最古のセィフティー自転車のメーカーと広告にも書いていた。その頃、ラッジは前輪の大きいダルマ自転車も作っておりこれを『バイシクル』と呼び、安全型自転車を『ビシクレット』と呼んでいました。レットというのはリーフレットのレットと同じで小さいことを表す接尾語です。

しかし、ビシクレットという語はバイシクルよりポピュラーな語にはならず、ラッジは新たな商品名を考え出します。それが「レーサー」に対しての「ロードスター」という語で、じつはロードスターという単語はラッジ・ウィットワースの登録商標だったのです。

そういういきさつがあり、ラッジの商標が切れるまで、ラレーもBSAも『ロードスター』という呼称は自社の製品に使えませんでした。

いまやロードスターは自動車でも使っていますが、本来は自転車の登録商標です。

馬以外に、鉄道が敷かれていない地域へ旅する手立ては自転車以外になかった時代、村はずれに当然出現するロードスターは、当時、一般庶民にはとうてい手が出なかった「最新の鉄の道具」として驚きを持って眺められたことが多くの文献に残っています。

その感動を自転車にふたたび呼び起こしたいものです。

こうした自転車の出発点の基本のことも知らず、誤って伝えている自転車雑誌やサイトはすべて「眉唾フィルター」を通して読まないと、せっかくの自転車趣味も、傾いた土台の上に建てた建築のようになってしまうと危惧するしだいです。

使わざる者たち

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うちの『寿司はねフレーム』を、乗るにはあまり関係ないから、貸し出しておく、といって渡したものが先週帰ってきまして、見てみたらスペーサー部分は斬られている。エンドは『何をしたのかな?』というぐらい当たり面は凸凸。シートステーブリッジは適合しない違う規格の安物ブレーキを無理やり止めていたので潰れていた。うちはカンパの枕頭アーレンキに合わせている。6角ナットでとめるものではなかったんですが。やれやれ。80時間かけたものでも、こうなってはサンダーで斬るしかない。

ムシャクシャするので、早朝は素振りで発散。

しかし、いかに朝5時とは云え、もぞー刀など振り回していたら通報されて掴まります(笑)。そういうものは持ち歩いてはいけないことに法律で決まっている。

そこで角材に鍔だけ本物を付けて練習。

なぜかというと、さやに納める時、握ったまま一瞬で一回転させて「ち」を払う動作があるのですが、これが木製では回転しないのです。鍔の重さの慣性を利用している。1回転半や半回転では刃が逆を向いてしまうので話にならない。こうした動きが出来なければ内籠手など斬れない。あそこが鎧の縫い目で動脈があるわけですから。

それのやりやすい物、やりにくい物があって、さらにこれは本体の重さと関係させてバランスの妙を生み出さないといけない。本来、そういうことは武芸をやった人でないと良し悪しは語れない。

プラスチックの模造品では全然ダメなわけです。

最近、若い女子の間で、トーケンジョシなどと言って、アニメのキャラクターからそういうものを見に行くのが大流行らしい。そういう形にしても注目が集まり、展示する場所が栄えるのは良いことだと思いますが、それから1歩先へゆかないと仕方がない。

じつは2輪車の世界でも、そういう現物を買ってみたという人がまわりに3人ばかりいます。

抜く動作でも、『重いものはいつまでも動いていようとする性質があり、動いていない物はいつまでもじっとしていようとする』。抜くときも手の動きだけではダメで、そういう性質もすべて理解して、合理的な無駄のない動作が出来て、はじめて神速の動きが可能になる。

その先で「機材としての良し悪し」が出てくるわけです。本当の鑑賞はそこからはじまる。

名品はすべからく、そういう要件をすべて満たしていて名品の雷名を獲得したわけで、私は自転車もまったく同じだと考えている。

実際の使用を飛び越した抽象的な部分や、デザインや意匠だけで物を語るのは的を外していると私は考える。

フランク・パターソンの思想2

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今から十数年前、パターソンの原画を6枚ばかり買って日本へ持ってきたことがあります。その後すべて手放してしまいましたが、その時にじつに興味深い会話があちこちで交わされたことを思い出します。

その中の一枚が「単彩」であると言ったのですが、多くの人が実物を見て「なぁ~~んだ。総天然色じゃないんですね」と言ったこと。さらに「色が入っていた方がずっと良いですよね。でも、ペン画を買って自分で色を付ければいいんですものね」。と言った自転車関係者がじつに3人もいた。

私はこたえて、
「じゃあ、君は、雪舟の墨絵やラファエロのデッサンも、レンブラントのエッチングも色がないからつまらない、『自分で色を付ける』と言うのか?マチスの炭のデッサンも、ルオーのミゼレーレの連作も、アルブレヒト・デューラーのメレンコリアの連作も白黒だからつまらないというのか?」
かなり怒気をこめて言ったのを思い出します。

ある種の絵は、じつは白黒に置き換えているところに意味がある。樹の茂る緑を黒くするか、逆に白く描くか?そこに画家の視覚で得たものを抽象的に白黒に置き換えるところで、その画家の技量が出る。

そこには抽象作用が必要なのです。絵を見るというところは、そういう部分に画家の感じたもの、精神の作用を見て味わうことなわけで、もし、総天然色の描かれた対象が見たいなら、カラー写真を見るか、英国へ行って自然を眺めれば済むことだ。

そうではなく、我々はボッティチェリの見たように女性を絵を通して見て、コローの見たように樹々を絵を通して眺め、モネが見たように水や雲を見るのが楽しいから絵を見るわけです。

実際のところ、モネの庭の写真集をカラーで見ても、モネの絵を見るほど楽しくない。フィレンツエにゆくと、ボッティチェリの絵はかなりリアルなんだな、というまさに絵のタイプの女性がたくさんいる。しかし、やはり絵には現実より真実な何かが宿っている。

彼らの見方、感じ方を絵を通して楽しんでいる。

じつは、パターソンの活躍した時代は、英国ではずいぶん水彩画がさかんでした。あのヴイクトリア女王もずいぶん水彩画を残しています。出版物でも克明な水彩画が「地方紹介の書籍」でずいぶん使われている。

日本からも多くの画家が明治時代に英国の水彩画を見て、かなりレベルの高い水彩画をものにしている。

しかし、私は左の2枚などは達者でも面白くないと思う。

そう云う流れの中で、あえて線画とセピアインクによる単彩にこだわったフランク・パターソンを考えないと、彼の真価はわからない。

パターソンの絵の中には、『ある種の空気が凝縮されている』のです。私は英国時代、彼が好んで描いた地、そのものの場所を訪ね歩きましたが、やはり絵よりもあきらかに『薄い』部分が多い。

ある意味で『整理され』、ノスタルジーの塊のような絵も少なくない。

それは彼の描く自転車風景に関しても同じで、単なるスナップ写真ではいけないのです。

産業革命が終わらんとして、まさに現代に突き進んでいく時代に、彼はある意味、徹底抗戦していた。

考えてみても、彼の活動期の1920~1952年までの間には、鉄道も自動車もかなり普及していて、特に都市部では、建築はディヴイッド・スーシェのアルキュール・ポワロの時代と完全にオーヴァーラップしていた。にもかかわらず、彼の絵にはヘースティング大佐の乗るオープンのラゴンダのような自動車と自転車の絵も、アールデコのロンドンの建築の前に駐輪された自転車も、流線型の弾丸列車が走る田園風景も、港町に停泊する巨大客船も、そんなものはまったく存在しなかったかのように描かれていない。

ただ、自転車と田園風景と、13~15世紀の廃墟、16世紀~18世紀のパブやインばかりが自転車と共に描かれている。

さらに言うと、古いものを描きつつも18世紀のジョージアン期の内装も建築も、19世紀初期のアンピールも中期~後期のヴイクトリア建築や内装すらもまったくといってよいほど描かれていません。

これは日本でいうならば、明治時代後期から昭和にかけて生きて、昭和も大正も、明治も、幕末も江戸中期も一切描かず、江戸前期と桃山、室町の面影が残る風景しか描かなかったようなものです。

それも、「カントリースタイル」のものにしか興味を示していない。ここにフランク・パターソンという画家の持っていた「近代・現代文明に対する彼の態度が明確にあらわれている」と私は考える。

それは今のスチームパンクの人が、「蒸気機関までの時代の科学」という枠組みをはめているのと同様、パターソンは産業革命以前までの田園生活とそこに自転車があるだけ、、そういう枠組みのなかで達成される「地上の楽園」を考えていたとしか思えない。

まさにそれこそ、『サイクリング・ヘヴン』であり、パターソンが現代文明に警鐘を鳴らしつつ、かたくなに自転車にしがみついて守ろうとした、「まだ引き返せる楽園生活」だったと私は思う。

フラフラしない自転車

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昨日、またNHKがフラフラしない自転車の対決番組を凄ワザでやっていたと夜電話がありました。

私は観ていないので、リポートを聞いただけですが、工学系の人たちの惨敗だったらしい。

どういうものだか、倒れない自転車というと、『自転車の仕組みがわかっていない人はすぐジャイロというものを持ってくる』。

1)走行中の自転車の中で最も重い慣性体は乗員であり、その60kgも70kgもある乗員が上部に乗った自転車を倒れなくさせるためにはいったいどれほど巨大なジャイロが必要になるのか?

2)自転車が立っていられるのはジャイロ効果のためではない。なぜなら熟練者は停止した自転車の上でも、足をつかずに立っていられるからです。

3)2人乗りの自転車で、後ろに自転車に乗れない人を載せると、後ろで傾くのを怖がって操縦者とは切り離されてバランスをとろうとするので、非常に乗りにくく、かつ危険である。

ジャイロなど、ついていればいるほど別の危険が出てくる。ロータリーエンジンのモーターサイクルの開発が(ヴァンケル・タイプ)ヨーロッパで行われなくなった背景にはそういう強いジャイロ効果をもつロータリーエンジンの操縦性能の性格が問題になった。

人間のバランス感覚で『脳が総動員されているさまは、小さいCPUなどの制御の遠く及ぶところではない』。

また、そのジャイロ一式の荷台に付けた重量の重さがさらにバランスを不安定にする。

私は電話で「ジャイロは後ろと前とどっちに積んでいた?」か訊いた。
「後ろでした。」
「それは百害あって一利なしだ。もしどうしてもコンピューター制御のジャイロを積むなら前だろう。」

こう書くと、フロントキャリアにジャイロを積むようなことを考える人がいるかもしれませんが、そうではない。グンデルの重量運搬車のようにフレーム本体から前へフロントキャリアを伸ばし、そこへジャイロを積み、フロントのホイールの『回頭バタフライ効果』を小さくしないといけないはず。

キャンピング自転車でも重量物をうしろに積まず、前へ積むのは常識。そうしないとふらつく。いかに電子制御の専門家でも自転車工学の基礎に対する理解が浅いと感じる。

電話リポートによると、その開発の人は母校の東工大へアドバイスを受けに行ったと言っていましたが、その方は東工大の近藤教授がいまから半世紀以上も前にやった自転車の工学の研究を知らないのかな?と思った。

私は近藤教授のメソッドのことをウィーンの国立科学博物館の国際会議で発表したことがある。近藤教授はアメリカで自転車の殿堂入りしており、その時代に、「無人で客観的に自転車のコーナリング特性を調べるためのロボットまで制作している。」

この近藤教授の話は、今度のテレビに出ていたSHIN-ICHI君の父、仁さんとよく話していた。

私のいとこが、娘に買った自転車に乗ってみた話をしていた。
「こどもが自転車に乗っていて、フラフラしているのをみると、あれはこどもが下手だからと思うじゃない?そうじゃないんだな。オレが乗ってもフラフラするよ。あれは自転車がダメなんだな。ただサイズだけ小さくして、走行性能もテストしないC國製の安物だからだよ。」

本来、手放しが得意でなくても、バランスの修正が容易で直進性が良い自転車は存在する。そもそも「手放しでどのくらい長く走れるか?」というのと「ふらつかない」ということは科学的・工学的に別のことだ。博士のしょーけー車は手放しは難しいがふらつかない。

昔のヘッドアングルの寝ている実用車もふらつかないが手放しはきわめてむずかしい。

上に出した競技車両ではヘッドアングル75度にしたら、すでに手放しが極端に難しくなる。しかし、それでふらつかず、路上で安全か?と言ったらそんなことはない。だからNHKの凄ワザの前提条件がすでに無意味なのです。それも工学系もビルダーも何も言わないのはどういうことか?

「SHIN-CHANはどんな自転車を作っていた?」
「フロントのエンドがノコギリみたいになっていて、フォーク・オフセットを変えられるようになっていました。」
「着眼点は合っているよ。ただ、オフセットをいくつにしたらいいか、パラミーターを持っていなくてわからないので、オフセットを可変にして、試行錯誤しようとしたんだろう。アレックスもホイールを小さくするのに、接地面でのセルフ・ライニング・トルクの働く腕の長さをいくつにしたらよいかわからなくて、可変フロント・フォークエンドで実験していたよ。つまりそういう場合のオフセットが掴みきれていなかったということだろう。」

猫式メンドクサイクリングと言うブログをやっている方の『解脱2号』は天使印ですが、彼はその後うちの自転車を入手し、いま28号しか乗っていない。
「いや~、なんていうのかな。解脱2号だとハンドルがキョロキョロして、真っ直ぐ走るのにいつも修正ハンドルをきっていないといけないんですよ。」

28号なら矢のように走り、吸い込まれるように曲がる。自転車の扱いの良さはそこにかかっている。

人間の本来備わっているバランス感覚がもっとも自然に発揮できる設計、、ということが重要なわけで、そうすると、細いサドルの上にヤジロベーのように乗るわけには行かず、サドルが細ければ、ペダルに立たざるおえない。だから手放し実験の車両で細いサドルはありえなかったはず。写真の室内自転車競技のサドルようなものを使えば、トップチューブにぶざまな板を付けて膝でコントロールするような動作は不要だ。そもそもそういうところに金属板を取り付ければ、事故の時には刃物になる。

「正太郎君!28号は無敵だよ!」By 敷島博士(爆)。

1920年代のアップハンドル

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アップハンドルのポジションのことをよく訊かれるので、1920年代の写真をいくつか載せておこうと思います。

人間は楽な方へにじりよりますから、どうしてもアップハンドルにすると『直立に近くなりがち』なのですが、私は実際、自分の車両はやや前傾ぐらいにしている。

上の写真にある右から3枚目の『クラブマン・スタイル』よりかすかに状態が起きているぐらい。

そのポジションだと手のひらにかかる体重が、アナトミック・グリップで緩和されるので、1920年代のクラブマンスタイルよりかなり楽です。

身体を垂直近くにするのは、日本では「天神乗り」と言われています。英国では「打ち込みボルト」と言っている(笑)。真っ直ぐボルトをねじ込んだ感じ。

打ち込みボルト式でやると、肩がハンドルのところへ行くのに肩を丸めてしまいやすく(右から2番目、実に悪いポジション。ハンドルも近すぎる。脚だけで回す感じになる)、こうなると胸郭が狭まり、呼吸の取りこみ量が少なく、まったく『高性能』は期待できない。英国だとおまわりさんがよくこの乗り方をしていました。

それよりもう少し前傾すると、へヴイ・ロードスターのポジションになります。これも楽ですが、このポジションで具合がよいのは60~80kmまで。サドルへの加圧が過大になりがちなのです。また脚でトルクで回す感じになる。写真ではタウンでのポジションと書いてありますが、英国のタウン乗りは、文字通り『タウン』で使い、そこから衛星都市状態にある村まで行く。それはだいたい一日での乗り方で60~70kmぐらいが最も多いだろうと思う。

4枚目の写真を見てイメージすると、より速く走ろうとするなら、わずかに前傾が強まる。逆に言うと、そういうポジションをとることで、『自転車にせかされる』感じがする。そういうことから一切解放されて歳をとったら楽しみたいと思った。

私が仙人クラウドで、「これで180kmなどは走ることはない。そういう使い方をしない」と割り切って、かなり上体を起こしたのは、私の年齢で今後10年、20年で楽しみ方を変え、別の道を歩むつもりでいるからです。それをどう使うか?のソフトのほうが今は関心がある。

距離を伸ばすにはもう少し前傾にして、サドルを前進させる必要がある。

イメージとしては、中距離走の上半身の前傾姿勢(右から4番目)ぐらいにして、ポイントは脚の全体がぺダリングで使えるようにへヴイ・ロードスターのポジション(右端)よりサドルを前進させる。

つまり「クラブマン・ポジション」をアップハンドルでやった感じに近い。

これが押さえられないと、ふとももばかりが疲れたり、膝の裏、膝から下が疲れます。

これは自ら微調節して、自分でつかむしかない。

左から3枚目はドロップの上を持った状態に近いですが、『空気椅子』のようで、中高年には長時間このポジション維持はつらい。1時間この姿勢でじっとしていろと言われたら、腰も首も肩も耐え難く痛くなる。しかし、多くの雑誌がこれで『サドルに重さをかけず、ハンドルは握りしめず、軽く手を添え、ペダルをクルクル回せ』と言っているわけですから。私は中高年には不合理なことだと考える。

つまりうちでやっているポジションは、『ありそうで、過去になかった』やりかたなのです。そして、クラブマン・スタイルのドロップの下を持つ替わりに、両手でバケツを持ちあげるような感じで、真下へ踏み込む。

私はグラント・ピーターセンの車両を見ると、彼がやはりヘッドチューブを伸ばし、偶然、ほとんど同じような結論に達したと、考えています。

このクラブマン・ポジションには、私はなにか深い真実があると思います。メルクス時代のロードにメインに乗っていた私がはじめて英国でこれを試し、「あっ、乗りやすい」と思った。持って帰ってきたラッジをイタリアもの専門の人に乗せたら、彼も開口一番『乗りやすい』と言った。

1990年代末に英国のBBCで1920年代の自転車を楽しむ人たちの様子が放映されたことがあり、楽しそうなので、自分も一度乗ってみたいと思った人たちが万の桁であった。その中で実車に乗ってみて、「どうして現代の自転車より楽なんだ?」とその会に入会したいと思った人たちが5000人も出た。

その動きから、ツイードを着て自転車というムーヴメントが派生したのです。

ついでに1920年代のレーサーのハンドルの写真も出しておきます。上を持った時の上半身は、いまのドロップよりかなり休められる。ドロップのツーリング車とほぼ同じです。

右から2番目はほぼ『垂直ボルト式』これでは長距離は絶対無理。悪い見本です。サドルの高さもよくない。

一番右と右から4枚目を較べると、サドルにずいぶん一番右の人は体重をかけているのがわかる。これはやはり長時間もたない原因になる。4番目ぐらいにしておくと、普通のランニングポジションに近いので、首や腰などの、どこか一か所に局部的な痛みがたまらないという理屈です。

右端のような調整では80kmを超えるぐらいから徐々に太ももの前と、膝から下に疲れがたまる。しかし、130km以上乗らず、上半身の疲れで走行がつらくなる人には、こういうポジションもありでしょう。仙人クラウドで上半身のどこかが痛くなることは100kmまでの走行ならまずない。

逆に言うと、『たかが100kmぐらいで股間や首や肩、腰が痛くなるドロップや一文字ハンドルなら、そんなものはやめてしまえ』と考えている。

3枚目の調整を見ると、現代の車両ではこんなにステムがあげられませんね。でも、腕の短い日本人がこの人と同様の胴体のポジションにするには、ハンドルをもう少し出す必要があります。

左から3枚目、4枚目のように白い部分をペダルに見立てて乗ってみると、白い部分から落ちずにバランスをとるには、こうした上半身の相対的な位置に来ざるおえないということがわかります。その白い台から落ちないでいられる可動範囲があります。この2つの台は実際のクランクの長さに合わせて置いてあります。

寿命を見張る

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「そういえば、ここ1年ばかりあいつに電話していないな」と、昨晩、高校時代の友人に電話をしてみました。奥さんが最初に出て、かなり声が暗い。

「ああ、R&Fさん。ちょっとお待ちください。」

驚きました。彼の呂律がまわっていない。
「どうしたの?」
「いや、去年脳内出血やってね。」

彼は酒も煙草もやらない。体型もかなり細い。とても血圧が高いとか、循環器・血管系に問題があるとは思えませんでした。人間わからないものです。

高校時代の恩師に電話。まったく声が変わらず張りがある。
「どうです?今度、うちのほうへ『フユシャク』(今の時期から3月ぐらいまでの間に居る冬型の昆虫)でも捕まえにいらしては?(彼は昆虫を調べるのがライフワーク)」
「ハハハ。この寒いのに、そこまでの信念はないなぁ。」
恩師は喫煙者です。煙草をやめたかどうか訊いたら、まだ吸っているとのこと。教え子は煙草を吸わず、肥満でもなく、はるかに若くして脳溢血。
「煙草は無添加がいいですよ。」
とここでもおせっかいを言う(笑)。
「あれっ?R&Fは煙草吸うんだったっけ?気が付かなかった。」
「ええ、歳をとって諸行無常を感じはじめてからはじめました(笑)。」

昨年12月に亡くなった友人も酒飲みでもなく、煙草もやらなかった。肥満でもない。それでも咳き込むことからはじまって、体調不良になり、病院に行ったらステージ4だった。

そうかと思うと酒、煙草の消費量がものすごい親戚がいて、90歳になろうというのにダンスをやったりしている。人間の寿命と言うのはわからない。

私は漠然とですが、さまざまなそういう他人の人生を見ていて、けっこう気が付かずに寿命を縮めているのではないか?と言う気がしてならない。

その恩師は昆虫のことでまだやることがある、という思いが人生の牽引力になっているように見える。

そうした『生き甲斐が人生のエンジンになる』のではないか?だいたい「もういいや、充分やったよ」という人は寿命が尽きてしまうように見える。

故甚田君もそう云う発言がしばしばあった。「もうバイクはいいや」と、うちからサンビームの自転車を持って行っていました。昨年12月に亡くなった友人も「もうさんざんやったからいいよ」が口癖になっていた。

その脳溢血の彼は、ここ3~4年、『あと5年生きるのが望みで、目標』とか、おかしなことを言っていた。

ウェリントン公は、自分の娘の婚約者が、ワーテルローの戦場で、いくさの前に懐中時計を持っていないのに気が付き、
「君、時計はどうした?」
「お嬢様にさしあげました。」
「まるで形見ではないか。そういう行為は往々にして、現実にそう云う事態を引き寄せる。今後は縁起の悪いことをやってはならぬ。」

しかし、その婚約者は戦死してしまうのです。

一方のウェリントン公は部下に、
「作戦の詳細をお教えください。相手は怪物ナポレオン・ボナパルトです。閣下にもしものことがあったときに困ります。」
と言われて、
「私の頭の中のことは私の髪の毛も知らん。」
と答えた。

葛飾北斎は、晩年、毎日寿命が尽きないように魔除けの絵を描いていた。

そのように、たんたんと地道に努力しつつ、「ああ、しまった」とならないように、細心の注意で、怪我もなく、病気にならないよう、大切に日々を生きるべきなのだろうと思う。
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