雉見翁の風流人としての雷名は天膳にも伝わっていた。その雉見翁より
「ぜひ拙宅へお出かけくだされ、近頃なまずの暴れかたも尋常ではなく、屋敷の茶室もいつ倒れてもおかしくない。天膳殿もたまには愛宕山の鶴ヶ峰を降り、しばしの休息に、我が山へ気晴らしに参られてはいかがか?お互い山の生活ゆえ、大地震がこようと、落命するようなことはあるまいが、我が庵と茶室倒壊のときには、二人で野点よりほか手だてがないゆえ、早いほうがよろしかろう。」
との話。天膳は雉見翁の庵をおとなうことにした。
「あまりに滅入る乱世の世なれば、ぜひ茶など喫しつつ、書画などともに語り合い、雉見翁の山の霊気で身を清め、しばし、この世のうさを忘れたく候。ありがたく御招待の儀お受けいたしく候」
とのふみを天膳はしたためた。
雉見翁の庵は深山幽谷にある。江戸市中のこのような場所にかくも深き山が残されているのは奇跡に近い。家康公の鷹狩御殿から二里と離れていない。
駕籠屋に住所を告げると、首をひねった。
「だんなも酔狂だ。何にもありやしやせんぜ。道がどんづまっておしまいだ。あっしは駕籠を後ろ向きに坂をおりなきゃいけません。」
「我が朋輩がおるゆえゆくのだ。行けるところまで道を行けば、そこから先は予がみずから歩いてまいる。」
「あんな藪の奥にいるんじゃあ、世捨て人か仙人にちげえありません。」
「面白いではないか。この江戸のなかにも仙人がおるというだけでもたいしたものだ。」
駕籠は細い道をゆく。
「行けるのはここまでです。ここから先は歩いてゆきなさるしか方法がないんで、あっしはここで帰らせてもらいやす。」
天膳は支払いを済ますと駕籠をおりた。ずいぶん鳥がいる。
「鳥たちも守銭奴どもがつくりあげた『練り石の俗世』を捨てて、ここへ避難してきたのであろう。いや、ここは鳥獣草木の神仙郷じゃ。」
山道をしばらく歩くと石の唐子が立っていた。その先にはとこしえに瞑想する石仏がたたずんでいる。ここに相違あるまい。唐子を道しるべにさらに登ると門があった。さらにゆくと石をくりぬいた手水がある。表札はないがここに間違いない。石には打ち水がしてあった。
「御免。誰かある。鶴ヶ峰の愛宕転輪坊、参上つかまつった。」
天膳が大音声で声をかけると奥で人の気配がした。
(つづく)