「春のランラン・セール」なんていうのが、かつて自転車の世界ではありましたが、いまや桁違いの花粉が飛ぶようになり、電車に乗ってもマスクをしてグスグスしている人がものすごく多い。
何年か前、ある大学の先生が、「日本人に花粉症が増えたのは、衛生的で綺麗な生活になれたからだ、むかしのように汲み取り式のトイレに住むような生活に戻れば、花粉症などなくなる」という珍説・奇説を打ち出し、大手の新聞にもたくさんとりあげられました。
ところで、「みんなが並んで入る、腰のところに扉のあるだけの汲み取り式のトイレの土地からやってきた近くのチューカ料理屋の店長がたいへんな花粉症に苦しんで、吸入式のスプレーでしのいでいます。
同じく、電気も通じていない、汲み取りトイレの里からやってきたネパール人のシェフがうちの近くで4人ばかりがひどい花粉症で苦しんでいる。
多くの人の知らないところで、どんどん杉ばかりを植えた。問題が出た後はしらんぷり。原発の事故のあと「えっ、そんなにあったの?」と言うくらい、多くの一般人の知らないうちにつくっていた。誰も責任をとらないで、「なければみんな困ったんでしょ」と居直る特有のシステムを感じます。
杉はヨーロッパにもありますが、ほとんどの花粉症の人はヨーロッパへ行くとピタリととまる。
ようするに、日本では「縄文時代からあと大正時代まで」とは比較にならないくらいの「度外れた量のスギ花粉が飛んでいる」ことが問題なのです。
なぜそうなったかといえば、杉を植えすぎた。そしてその杉のまびきや枝払いをしないから。
栗やどんぐりなどと違って実をつけない針葉樹の木ばかりになったので、いのししや熊が山で食べるものがなくなって里へ降りてくるようになった。
それはみんな環境を破壊した奴が悪い。この国ではそういう点の責任追及も、具体的な方策の検討もしない。なかには「花粉を出なくするためにある種のホルモン注射を杉にする」とか言っている人もいますが、そんなことをすれば、環境ホルモン汚染で、山から出る水にかかわる川魚から農作物までどうしようもならない事態になるでしょう。いったいどこまで場当たり的なのか。
昨日、塗りあがったフレームを塗師のところへ取りに行きましたが、新宿西口で地上に出たらくしゃみがとまらなかった。たぶん、高層ビルにさえぎられて花粉が落ちる。それは原発事故のときも高層ビルにさえぎられて、汚染された塵が落ちて、あのあたりは放射能値が高かった。同じことでしょう。
下が泥の地表であれば、花粉はそこへ落ちてやがては土になるのでしょうが、下がセメントとアスファルトでは、雨が降るまで流れない。そこへとどまって、ビル風のなかで舞っているのでしょう。
そこを歩くと、人間が呼吸によって「ヒューマン集塵器」のようになる。度外れた花粉を吸って花粉症となる、こういうことなのではないか?
ちょっと、そういうところを自転車で走るのは嫌な気がします。
そこに加えてPM2・5なるものがやってきた。隣国に出来る限り安いものを作ってもらい、「ピンハネ経済」で儲けようと国内の雇用と工場をなくして、隣国に「世界の工場」となってもらい、じゃんじゃん作ってもらった。ところがそこは公害垂れ流しの工場だった。その汚染空気が日本へ製品と共にやって来る。
そういうことは予想可能だったのです。そうした「越境公害汚染」は1970年代にヨーロッパではさんざん騒がれていたので。
PM2・5については強く言えないのではないか?それを言うと、福島の原発から拡散した放射能汚染が、アメリカのサン・ディエゴで水揚げされた魚からも検出されているので、太平洋に関係する諸外国から、補償問題を持ち出されるおそれがある。
それはみんな環境を破壊した奴が悪い。
自転車は環境にやさしい移動手段ですが、人間がエンジンですので、その人間がやられるような環境では活躍できない。
自転車に乗る者は、地球の環境の問題をもっとトータルに考えるべきではないのか?
しかし、どの自転車雑誌を見ても、地球環境・自然破壊に関する話題など絶無です。さんざんドーピングをやって勝っていた選手を礼賛していたかと思うと、自白の後では沈黙する。触れようとしない。環境に関する発言記事はまずない。雑誌は「束ねた広告」と、業界用語でいう「タイアップ記事」(広告であると読者に悟られないように記事として書かれた広告)で成り立っている時代になってしまった。
こうした花粉やPM2・5の問題が慢性化したら、自転車はスキーのように、秋冬しか乗れないものになりかねない。春はPM2・5で乗れず、その後は梅雨、梅雨が終れば私の少年時代には決してなかったような高温の灼熱地獄。私の小学生の頃の日記では33度あると「すごかった」ものです。35度以上などというのは考えられなかった。
そういう環境が壊れれば、自転車の有用性自体が揺らぐということを自転車関係者はよく自覚したほうが良いと思う。一般のひとが「こんなに花粉がおおいんじゃあ」とか「PM2・5が来るようでは」と自転車を控えるようになったら、大打撃でしょう。
アームストロングの事件と同様、こうした問題に関して『発言していた人』と『まったく寄り添って口をぬぐっていた人』が後世にははっきりするでしょう。言うべきことは発言するのが文明国だと思う。
私は自転車に乗れない世の中になったら、日本を出てゆくか、「名曲喫茶ビンボー亭の主人」になるからいいですけれど。つぶしが利かない人はたいへんだと思います。
何年か前、ある大学の先生が、「日本人に花粉症が増えたのは、衛生的で綺麗な生活になれたからだ、むかしのように汲み取り式のトイレに住むような生活に戻れば、花粉症などなくなる」という珍説・奇説を打ち出し、大手の新聞にもたくさんとりあげられました。
ところで、「みんなが並んで入る、腰のところに扉のあるだけの汲み取り式のトイレの土地からやってきた近くのチューカ料理屋の店長がたいへんな花粉症に苦しんで、吸入式のスプレーでしのいでいます。
同じく、電気も通じていない、汲み取りトイレの里からやってきたネパール人のシェフがうちの近くで4人ばかりがひどい花粉症で苦しんでいる。
多くの人の知らないところで、どんどん杉ばかりを植えた。問題が出た後はしらんぷり。原発の事故のあと「えっ、そんなにあったの?」と言うくらい、多くの一般人の知らないうちにつくっていた。誰も責任をとらないで、「なければみんな困ったんでしょ」と居直る特有のシステムを感じます。
杉はヨーロッパにもありますが、ほとんどの花粉症の人はヨーロッパへ行くとピタリととまる。
ようするに、日本では「縄文時代からあと大正時代まで」とは比較にならないくらいの「度外れた量のスギ花粉が飛んでいる」ことが問題なのです。
なぜそうなったかといえば、杉を植えすぎた。そしてその杉のまびきや枝払いをしないから。
栗やどんぐりなどと違って実をつけない針葉樹の木ばかりになったので、いのししや熊が山で食べるものがなくなって里へ降りてくるようになった。
それはみんな環境を破壊した奴が悪い。この国ではそういう点の責任追及も、具体的な方策の検討もしない。なかには「花粉を出なくするためにある種のホルモン注射を杉にする」とか言っている人もいますが、そんなことをすれば、環境ホルモン汚染で、山から出る水にかかわる川魚から農作物までどうしようもならない事態になるでしょう。いったいどこまで場当たり的なのか。
昨日、塗りあがったフレームを塗師のところへ取りに行きましたが、新宿西口で地上に出たらくしゃみがとまらなかった。たぶん、高層ビルにさえぎられて花粉が落ちる。それは原発事故のときも高層ビルにさえぎられて、汚染された塵が落ちて、あのあたりは放射能値が高かった。同じことでしょう。
下が泥の地表であれば、花粉はそこへ落ちてやがては土になるのでしょうが、下がセメントとアスファルトでは、雨が降るまで流れない。そこへとどまって、ビル風のなかで舞っているのでしょう。
そこを歩くと、人間が呼吸によって「ヒューマン集塵器」のようになる。度外れた花粉を吸って花粉症となる、こういうことなのではないか?
ちょっと、そういうところを自転車で走るのは嫌な気がします。
そこに加えてPM2・5なるものがやってきた。隣国に出来る限り安いものを作ってもらい、「ピンハネ経済」で儲けようと国内の雇用と工場をなくして、隣国に「世界の工場」となってもらい、じゃんじゃん作ってもらった。ところがそこは公害垂れ流しの工場だった。その汚染空気が日本へ製品と共にやって来る。
そういうことは予想可能だったのです。そうした「越境公害汚染」は1970年代にヨーロッパではさんざん騒がれていたので。
PM2・5については強く言えないのではないか?それを言うと、福島の原発から拡散した放射能汚染が、アメリカのサン・ディエゴで水揚げされた魚からも検出されているので、太平洋に関係する諸外国から、補償問題を持ち出されるおそれがある。
それはみんな環境を破壊した奴が悪い。
自転車は環境にやさしい移動手段ですが、人間がエンジンですので、その人間がやられるような環境では活躍できない。
自転車に乗る者は、地球の環境の問題をもっとトータルに考えるべきではないのか?
しかし、どの自転車雑誌を見ても、地球環境・自然破壊に関する話題など絶無です。さんざんドーピングをやって勝っていた選手を礼賛していたかと思うと、自白の後では沈黙する。触れようとしない。環境に関する発言記事はまずない。雑誌は「束ねた広告」と、業界用語でいう「タイアップ記事」(広告であると読者に悟られないように記事として書かれた広告)で成り立っている時代になってしまった。
こうした花粉やPM2・5の問題が慢性化したら、自転車はスキーのように、秋冬しか乗れないものになりかねない。春はPM2・5で乗れず、その後は梅雨、梅雨が終れば私の少年時代には決してなかったような高温の灼熱地獄。私の小学生の頃の日記では33度あると「すごかった」ものです。35度以上などというのは考えられなかった。
そういう環境が壊れれば、自転車の有用性自体が揺らぐということを自転車関係者はよく自覚したほうが良いと思う。一般のひとが「こんなに花粉がおおいんじゃあ」とか「PM2・5が来るようでは」と自転車を控えるようになったら、大打撃でしょう。
アームストロングの事件と同様、こうした問題に関して『発言していた人』と『まったく寄り添って口をぬぐっていた人』が後世にははっきりするでしょう。言うべきことは発言するのが文明国だと思う。
私は自転車に乗れない世の中になったら、日本を出てゆくか、「名曲喫茶ビンボー亭の主人」になるからいいですけれど。つぶしが利かない人はたいへんだと思います。