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Channel: 英国式自転車生活
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「最高」の不幸

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週末に自転車関係者の仲間がきまして、夜インド料理を食べに行きました。

一人1200円かそこらのものなのですが、たいそう二人とも満足できました。ものすごく美味い。もう一歩足を踏み入れた時から、日本ではない。私が行くと、必ず「まかない」のものが1品オマケでつく。チャイのおかわりにお金はとりません。スタッフは全員フレンドリーなので、じつによい雰囲気で食事ができます。

先日、普通のチキンカレーをたのんだら、味がずいぶん違う。
「なんかずいぶん美味くなったね。」
「きょーはガーリックオオク入れた。スパイスもタクサンツカッタ。」
そういう感じ。

高級店へ行く必要はまったくない。美味いところを探す必要もありません。これが私の考える幸せ。

その仲間、「世の中で最高級と言われる自転車」と「さりげない普通のものでたいへんいい自転車」を持っています。その「さりげないもの」のほうは、私が英国で乗っていたものなのですが、ちょうどその頃昔の古傷がややぶりかえしていて、弱気になって彼に譲ったのでした。今考えると惜しいことをした。あれほど乗りやすく、貫禄のある車輌はめったにあるものではありません。

いまだに乗るたびに新鮮な感動があるといいます。「世に言う最高級」のほうはどうでもいいらしい(爆)。これは不思議なものですが、2つ持ってみてはじめて「わかる」ことがあると思います。

しっくりくる絶妙のものしか使わなくなり、たとえそれが世の中で人も羨むものであろうと使わなくなってお蔵入りになることがよくあります。

そこで、「手放す人」と「なんかの時にあったほうがいい」と心の奥底では自分にはなくてもいい、と思いつつやはり次から次へと買って数を増やす人がいます。

ここで大きく2つのタイプに人は別れてゆく気がします。「解脱できる人」「出来ない人」。

私は英国の高級車は持っていません。「R&Fは手に入れられなかった」とか「レストア出来ないからだ」とか「知らないんだ」とか、私の前で言える人は一人もいないだろう、という密かな絶対の自信があります(爆)。

私は、先のレストラン同様、一番気楽でおいしいところを2つか3つ古い自転車で残そう、と思ったのでした。残す時に「すべての頭でっかちな部分を捨てる」。「ああ、これは味があるな、厭きないな、使いやすいな」というところのみを残す。

私は大学時代から、100~250年前の透明なグラスをずいぶん集めたことがありました。「あらゆる種類のカットとボウルの部分のシェープ、脚の部分の「ノップトステム」のパターンを集めようと思ったのでした。」一時期グラスの数は150を越えていました。ある時、8個を残してあとは全部売った。これは「一週間分+壊れたときのスペア一個」の計算でした。

以来厭きることがありません。買い足したこともありません。

自転車も密かにそれを目指したのでした。

古いもので、満足できない部分は「自分の制作する車輌で実現する」。これが基本のスタンスだったのです。ですので、うちの28号に「ブレーキケーブルをトップチューブ内蔵にしてください」とか言われると、「そういうのは作る気がないから」と言うよりほかしかたがありません。28号とバルケッタには今までに乗った6000台を越える歴史的車輌の実経験が入っているのです。

この歳になると、どんなものも「最高級」というのはじつは不幸なのではないかな?という気が濃厚にします。

100万円、いや50万円を越える自転車でも、私などは気を使うのが嫌だな、と思う。

私にいろいろとガラスのことを教えてくれた恩人がいるのですが、その方は日本最大のガラスのコレクターでした。フンペンの古いものから、ボヘミア、シレジア、もうたいへんな質のものを莫大な量持っていました。ところが、その人のところに晩酌によばれると、ワンカップのアルミの蓋をあけて私にくれて、自分もやはりワンカップを飲むのです。
「たまにはどれかのグラスに注いで飲んだほうがいいんじゃないですか?」
と訊くと、
「とんでもない。もったいなくて使えませんよ。」
との答え。
じつは一時期、私も激烈稀少車輌や高級車を持っていた時に、そういう風になったことがありました。それは懐中時計をいくつか持っていた時にもそういう風になった。

ところが、一方で、使うとどんどん「曇りがとれてきてよくなる」ものもあります。漆の器のいいものなどがそうで、古い朱の漆の小皿などは、年中使っているうちに、どんどん透き通るように良くなってくるのが見ていてわかります。これは楽しい。ピューターのビアマグなどでもそうで、なんともいえない「手で磨かれた深みのある輝きと落ち着いた中世的なグレイになってきます。

これは、じつは自転車もそうだと思うのです。「乗りこんで貫禄の出ない、いつまで経ってもばかばかしく綺麗な、八百比丘尼のような機械はつまらない」と私は思う。

八百比丘尼の大奥作ってどうする?彼女等のほうが長生きするんだよ、と言う感じ(爆)。「亡くなったあの方は、私を無理矢理二重まぶたにして鼻を高くしろろと、、、」と泣き崩れる八百比丘尼がいたりして。

私は先日、私が気に入っているメーカーのスパナを中古で買ったのですが、なかなか面白かった。同じ銘柄で、同じモデル、コンディションもずっとよいのですが、なぜか自分の使っているスパナとはまったく別のものの感じがするのです。

「最高級」とか「激烈稀少」というのは、その使い手のものとして「育てることが出来ないのではないか?」とこの頃は思います。ランボルギーニ・ミウラを改造して、果たして改造した人はフルッチョ・ランボルギーニ以上になれるのか?無理でしょう。改造は不可能。使って、それでどこへ行く時もそれで現われ、自らの一部とするほかはない。

うちの自転車は必ず意図的に「ぼんやりした部分を残します」。「最高級にならないように」(笑)。

いつまでたってもよそよそしい最高の知性の「八百比丘尼」があっちこっちのガラスケースにいて、彼女の無量の恩寵の憐憫にも似たまなざしを受ける生活では、「寿命のある自分には息苦しい」気がします。気さくな人と有限な人生を共有したほうがいい(笑)。

これら写真でわかるとおり、昔のものはいいぐあいに肩の力がぬけて、それでいて正直に出来ています。そこに味が沁みこめる。普及品のカーバイド・ランプのほうが軽くて乗った具合が捨てがたく良かったりする。このツーリングの風景で、自転車があと50g軽くなってどれほど幸福度が増すのか?昔は写真のようにマースバーでツーリングをする人も多かった。ドロップであるだけですでに贅沢だったのです。最高のものでなくても最高に幸せ。

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