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Channel: 英国式自転車生活
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ツイードと自転車

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自転車にツイードを着て乗る、というのは元来英国の文化です。これはイタリアのものでも、ドイツのものでも、フランスのものでもありません。

イタリアは戦後しばらくして、英国のツイードを真似たものをロンバルディアで作り始めましたが、ヨーロッパでイタリアのツイードは、知名度は低い。フレンチ・ツイードはもう色が違うのと、これはむしろシャネルが愛人の公爵のもっていた男物のツイードを着てみたことに端を発するくらい新しい。

日本では、菅沼達太郎さんが、すでに戦前にツイードでサイクル・ツーリングをしておられた。

ところが、ツイードの仕立てなどの問題から、途中で昭和30~40年代から「フラノのブレザー」に日本ではなってしまいました。これは英国の自転車雑誌を見て、「アルパカ・ジャケット」と「紺のブレザー」を間違えたことのようです。

フランク・パターソンの絵を見ると、ツイードのキャップを被っている人と、被っていない人がいるのに気が付くだろうと思います。これは当時には明確なルールがありまして、「自分の町で帽子をかぶるのはワーキングクラス」なのです。ですので大学生以上の学歴、紳士、貴族は街中では「無帽が原則」だったのです。パターソンの画集には説明がないので、そこまで知って真似している人は少ないでしょう。

昨日は仲間4人ばかりが、ツイードランを遠巻きに見に行ってみようか、などと言っていたのですが、
「別にいいんじゃない。我々はもう日本で20年以上前からずっとやっているんだから。」
「じゃ、明日かわりに食事でも。」
「『誰が為にツイードを着る?』というところでしょう。オレは今日はやることがあるし。」
という話で、朝7時30分にかかってきた電話で行かないことを告げました。

じつは今日(土曜日)は関戸のフリマがあって、「業者はみんなケーオーカクのフリマへ移ったんで、昔ながらののどかなひなたぼっこのフリマに戻りそうだ」というので、ちょっと顔を出しました。

知り合いが10人ばかりいて、世間話を40分ばかりして、私は自転車の散歩コースへ。昼は英国式の食事。スープ、サラダ、ソテー、焼きたてのパン、珈琲とブルーベリースクランブル。それで1000円とちょっとですから、満足度は高い。そして、柿の実がたわわに実る木の下で珈琲と煙草。オーナーとは仲が良いので、自転車は庭に入れて、庭での食事。英国から持ってきた建築ですが(オーナー自らが大工仕事をして建てた)、これは私にとって、別に日本家屋でもかまわない。自分で作った石釜で焼いたパンを食べさせたり、という、このお店のスタンスそのものが、「根がある本物」なのです。こういう時間はしばらくぶりの『週末』の気がします。忙しくない時はこれが日常だったのです。こういう『自転車生活』を求めて、わざわざ「ひのたまはちおうじ」に移ってきたので、これが本来の自分の生活です。

仲間のバイクが「嫁入りする」というので、見に行きました。はるか遠くへとつぐので、行ってしまったらもう滅多に見れないでしょう。私も少々、磁力を入れたりするのに智慧を貸しました。深夜、ファミレスで、ああでもないこうでもないと二人して話しておりました。彼は屋外駐輪場に停めておくのがしのびなく、手放すことにしたのですが、じつは、なかなか冷やかしばかりで買い手が付かず、いよいよ引き取り手がなかったら、私が買おうかとすら思っていました。しかし、「自転車一筋」がぼやけるからな、と常にそこで待ったがかかった。

いまや「始動一発」で轟音ととももに目覚めます。めでたしめでたし。今から80年以上前のバイク。なんとなく、蒸気機関車が走っているのを見るような独特の感じがします。すべてを分解し、なにもごまかさないでレストアしてある。そういう過程で「有意義な時間で自分が伸びた」と思える世界。

ツイードも自転車も、バイクも、すべて根は同じ、「味わい深い日常」のためのものなのです。

お手軽「擬似クラシック」、「擬似ヴィンテージ」、「擬似英国風」では、『本人の心の底で、それが偽者であることがわかっている』以上、本当の味わい深さは得られないと思う。それら『擬似物』が『地道に積み上げてきた重みを持った本物』に対峙したとき、それはみじめなのではないか?「紙の付けヒゲをした人」が「ヒゲを生やしたジョージ・バーナード・ショー」に会ったら?それは付けヒゲの本人が一番痛いほどわかる。

蜜丘のベントレーもどきのとなりに、本物のフライング・スパー・Rタイプコンチネンタル・ベントレーが来たら?「最是離亜」のイタリアンへ接待で連れて行ったお客が、じつは昔イタリアに滞在していて、トラスティベーレのカノニカの常連だったら?それは「かなり気まずい」と思う。

明治時代以降、繰り返し出てくる、天麩羅のコロモの厚さしかない「鹿鳴館コンプレックス」を消し去るのは、「本当に深いところでの試行錯誤」と、「他人に気に入られようとするするところとは別の価値観」ではないのかな、としみじみ思います。

実際で示すほかありません。

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