最近の風景で私が理解できないのは、常にイヤフォーンをしたり、ヘッドフォンをして歩いている人たちの多いことです。
本屋へ行っても、レストランへ行っても、古本屋へ行っても音楽が鳴っている。というか、強要されている。そういう「壁紙音楽」は曲を刷り込んで売るための広告なのでしょうが、きわめてわずらわしい。
キンキラの声で、学芸会のような感じのものがのべつ耳に入ってくる。これには参ります。「それを聞きたくない人にも、聞かざるおえなくする」のが最近のやりかたのようです。
最初に英国に行った頃、音楽はほとんど街に流れていなかったのが印象的でした。店内には音楽は流れていない。パブですら、伝統的なところでは音楽も流れておらず、もちろんテレビのたぐいもありません。
レストランではしずかな衣擦れの音と、あちこちで低い声で話されている会話。もちろん内容はききとれません。
表通りには、石畳の上を走る自転車の音。
美術館に行くと、数百年前の時計が静かな音で時を刻んでいる。一方で定刻になると、教会の鐘楼や大学のランタンから鐘の音が聞こえてくる。これはスピーカーを介さずに聞こえてくるので、たいそう贅沢な感じがしました。ちなみに、イランは日本と同じでスピーカーから時刻になるとさまざまな音が雑音とともに流されていました。
しかし、ひとたび音楽があるとなると、それはほとんどのものが、「実際の演奏」でした。
そういう状態で、音楽が聞きたいときは、自らやっているところへ足を運ぶか、自分たちで演奏するか、高品質オーディオで聞くよりほかはありません。
それはある意味、しばらく「自然のなかにでもいて、惰性で食べるのをやめ、久しぶりに食べたいものを選ぶような感覚だろうと思います」。
英国の作曲家、エルガーは「英国の第二の国歌」と言われる威風堂々を作曲したことで有名ですが、日本ではそれがネコの餌のCMやインスタント・レトルト中華のCMのバックでも流れている。
こういうのはじつはすごく「貧しい」のではないか。音楽が大事にされていない。
今日は休憩のときにキャサリーン・フェリアーのヘンデルを聞いていました。今ぐらいの、風が梢をわたってゆく音が聞こえる時期には、なんとなく聞きたくなります。
私はこのキャサリーン・フェリアーを英国に行くまで知りませんでした。ひょんなことから、彼女が、英国で私の住んでいた家へ、生前たまに訪れていたと言うのを聞き、レコードを買ってみたのでした。
まったく手入れをされていない広大な庭に向かって、フランス式の窓があり、そのわきにジョン・ブロードウッドのピアノがありました。
気が向くと、そのピアノの脇に立ち、B.ブリテンの伴奏で歌うこともあったと言います。
私はよく、フレンチ・ウインドーを開け放ち、そのレコードを聴いて、彼女がピアノの脇に立っている姿を想像していました。
ある時、家の主人が、脳血栓の後遺症が残る足を引きずって、そおっと部屋に入ってきて、ソファに腰掛けると、一曲静かに聴いてゆき、私のほうを見て一言「マーヴェラス」と言い、大きな笑いを浮かべ、満足げに、また部屋から出てゆきました。
youtubeに入っているか見てみました。
Ombra Mai Fu "Xerxes" by Kathleen Ferrier
で出ます。