私が中学時代からでしょうか、私は漠然と、「自分は人類の歴史上、きわめて特異な時代に生まれたのではないか?」という思いが強くありました。これは、このブログを読んでいるみなさまも、きわめて「特異な時代に生まれたわけです」。
しかし、この意識は、驚くほど世の中に希薄な気がするのです。
私が生まれた時代に、地球上に生命が生まれてからはじめて、人類は地球の外に出て、月から自分を生み出した惑星、地球を眺めました。
地球が出来てから47億年、そこに生命体が生まれて38億年。そして、そこに生まれた人類がついに月に降り立った。47億年のなかのほんの数十年のところに我々はいるのです。
先日、BBCの作った地球の歴史、太陽系のなかの地球の番組を見ましたが、なかなか面白かった。地球が運良く適当な大きさになったおかげで、地球のなかの核の部分は冷えてしまわず、いまだに熱く、地球の内部をマントルが対流している。その対流のおかげで地磁気が生まれ、多くの生物の役に立っている。
BBCの番組によれば、ほかの太陽系の惑星のなかには、火山活動がすでに完全に停止している星もあり、地球にも火山活動がなければ、生命は生まれなかったかもしれない可能性すらあることを語っていました。
その対流するマントルのために大陸も動く。大地震も起こる。津波も起こる。
そういうなかで、単細胞生物が生まれ、植物が生まれ、それがさらに複雑な生物に進化し、我々がいま呼吸している大気も作られました。
石油が作られた時代、地球の大気は今より酸素が濃く、昆虫もそのため、彼らの効率の悪い呼吸方法でも巨大化できたらしい。
石炭も石油もそういう地球進化のごく特殊な一時代に、気の遠くなるようなたいへんな時間をかけて、太陽エネルギーを蓄積し、それをもとに石油・石炭が作り出されたわけです。
しかし、地球上のすべての生物は、石油・石炭に依存せず、この地球上で長年生きてきました。まあ、38億年弱、それなしで済ませてきたわけです。
地球上のすべての生物は太陽エネルギーなしでは生きられません。太陽は球形の全方位に太陽エネルギーを発しているわけですが、地球はその全方向のエネルギーの、ほんの地球の半分に当っているエネルギーだけを利用している。それと周りを回っている月の潮汐力のエネルギーが地球上のすべての命のゆりかごなわけです。
それら、わずかばかりの太陽からのエネルギーのめぐみだけで、人間は大仏殿を建てたり、ピラミッドを建てたり、ダヴィンチやミケランジェロは電気照明器具やエアーブラシもなく傑作を描いてきた。シェークスピアもセルバンテスも、ミツバチの巣からつくったロウソクの灯りで傑作が執筆できた。
それが、20世紀になって、地球が数億年かかって石油・石炭として溜め込んだ太陽エネルギーを人類は急速に使い始めました。それをたかだか数百年で使い切る勢いです。
地球が38億年かかって育んできた生物多様性ピラミッドは崩壊の危機にある。
人間の胎児は人類の進化、あるいは生物の進化を10ヶ月ぐらいでたどります。エラがあったりしっぽがある時期もある。人間だけが特別な存在で、他の生物や植物との関係無しに生存を続けられると思うのは大きな驕りでしょう。
その石油。これはいったいどの程度有効に使われているのでしょう?
たった一人、二人の人間を数十キロ、より速く移動させるのに、2リッターも6リッターもあるようなエンジンを持った巨大なクルマを走らせる。そして、さらに、それらは1時間ごとに高速道路で2リッターペットボトル数万本分の高熱の汚染空気を出す。驚くべきことは、それらを「楽しみのためだけに走らせる」ような文化も20世紀になって登場した。その「楽しみへの欲求」のかなりの部分は自転車で済ませられるのではないか。あるいは、そういうものは貨物輸送や、公共の移動用車輌をメインにして、自転車をそれらとハイブリットにしてゆくのはどうなのか。
そして20世紀の半ばを過ぎた頃、天文学的時間をかけて蓄積された石油・石炭のエネルギーを短期間に消費するだけでは足りず、太陽から受け取るエネルギーだけでは足りず、人類は原子力に手を出した。
原子力はその生まれ・生い立ちから暗い。それはまず原子力発電として考案されたものではありません。それは戦争で勝とうと思って作られた。
その最初の開発にたずさわったロバート・オッペンハイマーは、「それはほんの少し、それまでのもののカタチが変わったり、進化したものではない、根源的に違う、非常に恐ろしいもの」としてとらえ、のちに批判的な言動をして、アメリカは彼を公職から追放しました。
オッペンハイマーはウランの採掘すら、国際機関によって監視されるべきだ、と考えていました。言うまでもなく、原子炉は核兵器を作り出すための「潜在力のあらわれ」であったわけで、それゆえ、隣国と軍事衝突の可能性のある国は、今日にいたっても、中東でもアジアでも、まず原子炉を持とうとする。
しかし、オッペンハイマーは興味深いことを言っています。「そうした兵器は、防御に対して侵略が、防御に対して攻撃が優位になってきている」(「原子力時代と科学者」のなかの一文)。
我が国でも、「御一新」を唱える上方の弁護士さんはかつて「日本の核物騒」を主張しておりました。
しかし、そうした戦略は現実性がありません。なぜなら、日本を負かしたいと思えば、原発の2つ3つを破壊すれば、一国の経済はすべて崩壊し、人々は汚染食物を食べねばならず。やがては亡びる。その国の頭脳と科学技術、生産設備、文化遺産のみを奪い、あとは放射性廃墟として人間ともども捨てればいいと考えるのではないか。実際、アメリカは中東では劣化ウラン弾を撒き散らし、「あとで綺麗に除染しよう」なんてやっていません。
それはネヴィル・シュートのSF小説「渚にて」のように、たとえ、日本が同様のものを持ったとしても、そこには「勝者はない」。英国ではマウントバッテン卿が軍服でポスターにあらわれ、「核兵器による戦いに勝者はない」という一言が書かれたものをつくらせていました。
そうすると、そういう利用価値が無い。地殻はマントル対流で動いていて、地震も津波も一定の期間で繰り返しくることがわかっている。一度事故が起これば、とてつもない大惨事・大赤字になる原子炉。はたして、そんなものを作って割があうとまともに考えているのか。
原子力を客観的にその歴史を眺めてみれば、爆弾としてつくられ、航続距離の長い空母の動力としてつくられ、潜水時間の長い潜水艦の動力としてつくられ、冷戦時代の米ソの人工衛星の動力として作られ、それは「よからぬ恐ろしい目的のためであった」と言えるのではないか。
そうしたものの「裾野」に原発はある。
ドイツ政府は1977年にある試算をしています。もしドイツのニーダーダクセンに核再処理工場が建設され、それの冷却事故が起こったとしたら、ドイツ人の全人口の半分が死ぬ、と。しかし、日本では再処理工場のプールも一杯。
それの候補地さがしとPRのためと人件費のために487億円もかけて、候補地ゼロというのが9月2日の朝日新聞のトップにでていました。そういう金を使えた人、使ってもらい受け取った人は、なにがなんでもやりたいのかもしれません。
しかし、そういう人たちには、地球をじっくり見て欲しい。科学が無限に進歩するというのも幻想であることがそろそろ見えてきている。このリンゴの皮ほどに薄い大気の層のなかでしか人類は生きられないのです。
右肩あがりの経済が成長するなかでの幸福は、すでに20世紀半ばでその限界が見えていた。資源的に、エネルギー的に、地球環境的にそれでは人間の生きている地球の生物圏が破綻することが明らかになりました。
みんながクーラーや大画面テレビを付け、店や都市は24時間やって電気を煌々と点け、大型車で個人移動して、石油を使いまくり、足りなくなったら、原子力、、、冷静に考えて、それでは100年後に人類が幸福に繁栄しているかどうか、きわめて危うい気がします。