このところヨーガの本がコンビニにもあってビックリします。私は英語の辞書を買う時に、いくつか『かなめの単語』をひいてみる。そうすると、だいたいその辞書のレヴェルがわかる。
このあいだ自転車の仲間でヨーガの先生をしている人がいて、『R&Fさんの時代では、、』といろいろ訊かれることがあった。
ヨーガと云うのはもともとは、梵我一体の境地を目指して、自分の身体とチッタ(日本語いうこころに似ている)の一体を目指し、さらに、それが我々を取り巻く自然、さらには宇宙と同体につながっていることを自覚・体感するための修行だから、本来哲学的なものだ、という話をした。
よく使う『アーサナ』という単語ももともとは『坐り方』を意味する。さらに魂、真我というのはプルシャですが、チッタはプルシャがあるのはわかる。しかし、チッタの動きや働きは、なかなかチッタ自体にはわかることが難しい。このあたりまではヨーガと禅は似ているのです。禅というのはJhanaあるいはJahnの漢語訳ですから(つづりが正しいかどうか?ご確認は御自分で、笑)。
禅では『自分の目玉で自分の眼玉を見ることが出来ない』などと表現しますが、チッタ(こころ)の動きをこころで正確につかむのは難しい。そこでこころを空にして、意識がちょろちょろ動き回るのをとめて、まず、チッタが動いていなくても自分の本質は存在していることからはいる。
私は実際にやってみて、ヨーガの坐法と禅の坐法はほとんど同じと言ってよいと考えている。これは佐保田先生などもそう言っています。
古来、マントラを唱えることもインドでは行われてきたわけですが、これも、ウロチョロする意識を落ち着かせるのに有効だと私は思う。日本の仏教でも『真言』としてマントラを使いますが、スリランカのテーラワーダ仏教(最近では上座部とか南伝とかは言わなくなってきている)では『あれはヒンドゥー教の習慣だ』として用いない。テーラワーダ仏教では、『あれはまじないの呪文』だといいますが、日本仏教では、そうした言葉は『意味がわからないほどよい』と言われてきた。それは、それらが本来、動き回る意識を止めて、直観を呼び覚ますための導入で用いられてきた背景がある。
ウロチョロする意識をとめないと、それより下にある深層部分からの直観は湧き上がってこない。そして、最新の脳科学では、意識が「あれをしよう』とか意識が決断しているように思うのは錯覚で、じつは深層意識が決断する方が先で、意識はそれのあとを追いかけている。この点で、ヨーガやヒンドゥー教、仏教のほうが、科学の数千年先を行っていたといえるだろう。
さらに、ヨーガでは1本足で立ったり、さらに腕を絡ませたり、意図的にバランスがとりにくいようなポーズをとる。あれは、意識をつかさどる大脳皮質より、小脳や間脳などを働かせ、カンやひらめき、直観を養うためのものだといえる。
これは呼吸法にも、背景に同様の思想があるわけで、『どうしてそういう呼吸をするのですか?』『なんで呼吸法にも種類があるのですか?』と訊いて、『これは~~の時に使い、こういう役に立つ』あるいは『どうしても』では答えになっていない。1本足で立つのと同様に理由と理論があるが、それは口伝として、ここには書きません(笑)。
『もしヨーガの先生に、どうして1本足で立つんですか?』と質問して、そうした答えが返ってこなかったら、それは器械体操・床運動に限りなく近いものだと私は思う。
誰かがくすぐったくなるような一点を人差し指でさわるそぶりをしたら、触れていなくても、くすぐったくなる。同様に、ヨーガで意識を一点に集中すると、そこにパワーが行くような感覚が出来て来る。それが健康に良いわけで、汗を流して、難しいポーズができることが健康に良いわけではない。そういう難しいポーズを連続でやる流派は1990年代に出来たわけですから。私の友人のそのヨーガの先生も、そこから入って、身体を壊しかかって、別の流派へ行った。
私の若い頃は、ひとつのポーズごとにデッド・ポーズで、『身体の声を聞いた』。悪いところがあると、必ず、そのまわりで凝ったところや痛いところが出る。
つぎからつぎへ、ヨーガで難しいポーズをするのは、あれはボディビルのコンテストの発想なのではないかな?と思う。私がやり始めたころにはなかったものだ。
このあいだ自転車の仲間でヨーガの先生をしている人がいて、『R&Fさんの時代では、、』といろいろ訊かれることがあった。
ヨーガと云うのはもともとは、梵我一体の境地を目指して、自分の身体とチッタ(日本語いうこころに似ている)の一体を目指し、さらに、それが我々を取り巻く自然、さらには宇宙と同体につながっていることを自覚・体感するための修行だから、本来哲学的なものだ、という話をした。
よく使う『アーサナ』という単語ももともとは『坐り方』を意味する。さらに魂、真我というのはプルシャですが、チッタはプルシャがあるのはわかる。しかし、チッタの動きや働きは、なかなかチッタ自体にはわかることが難しい。このあたりまではヨーガと禅は似ているのです。禅というのはJhanaあるいはJahnの漢語訳ですから(つづりが正しいかどうか?ご確認は御自分で、笑)。
禅では『自分の目玉で自分の眼玉を見ることが出来ない』などと表現しますが、チッタ(こころ)の動きをこころで正確につかむのは難しい。そこでこころを空にして、意識がちょろちょろ動き回るのをとめて、まず、チッタが動いていなくても自分の本質は存在していることからはいる。
私は実際にやってみて、ヨーガの坐法と禅の坐法はほとんど同じと言ってよいと考えている。これは佐保田先生などもそう言っています。
古来、マントラを唱えることもインドでは行われてきたわけですが、これも、ウロチョロする意識を落ち着かせるのに有効だと私は思う。日本の仏教でも『真言』としてマントラを使いますが、スリランカのテーラワーダ仏教(最近では上座部とか南伝とかは言わなくなってきている)では『あれはヒンドゥー教の習慣だ』として用いない。テーラワーダ仏教では、『あれはまじないの呪文』だといいますが、日本仏教では、そうした言葉は『意味がわからないほどよい』と言われてきた。それは、それらが本来、動き回る意識を止めて、直観を呼び覚ますための導入で用いられてきた背景がある。
ウロチョロする意識をとめないと、それより下にある深層部分からの直観は湧き上がってこない。そして、最新の脳科学では、意識が「あれをしよう』とか意識が決断しているように思うのは錯覚で、じつは深層意識が決断する方が先で、意識はそれのあとを追いかけている。この点で、ヨーガやヒンドゥー教、仏教のほうが、科学の数千年先を行っていたといえるだろう。
さらに、ヨーガでは1本足で立ったり、さらに腕を絡ませたり、意図的にバランスがとりにくいようなポーズをとる。あれは、意識をつかさどる大脳皮質より、小脳や間脳などを働かせ、カンやひらめき、直観を養うためのものだといえる。
これは呼吸法にも、背景に同様の思想があるわけで、『どうしてそういう呼吸をするのですか?』『なんで呼吸法にも種類があるのですか?』と訊いて、『これは~~の時に使い、こういう役に立つ』あるいは『どうしても』では答えになっていない。1本足で立つのと同様に理由と理論があるが、それは口伝として、ここには書きません(笑)。
『もしヨーガの先生に、どうして1本足で立つんですか?』と質問して、そうした答えが返ってこなかったら、それは器械体操・床運動に限りなく近いものだと私は思う。
誰かがくすぐったくなるような一点を人差し指でさわるそぶりをしたら、触れていなくても、くすぐったくなる。同様に、ヨーガで意識を一点に集中すると、そこにパワーが行くような感覚が出来て来る。それが健康に良いわけで、汗を流して、難しいポーズができることが健康に良いわけではない。そういう難しいポーズを連続でやる流派は1990年代に出来たわけですから。私の友人のそのヨーガの先生も、そこから入って、身体を壊しかかって、別の流派へ行った。
私の若い頃は、ひとつのポーズごとにデッド・ポーズで、『身体の声を聞いた』。悪いところがあると、必ず、そのまわりで凝ったところや痛いところが出る。
つぎからつぎへ、ヨーガで難しいポーズをするのは、あれはボディビルのコンテストの発想なのではないかな?と思う。私がやり始めたころにはなかったものだ。