『草木もなびく』という表現がありますが、流行とか変化とかいうものは、こどもの時分、下敷きの下に磁石を置いて、その上で砂鉄をなびかせていたようなイメージがある。
誰かの手で、踊らされ、誘導されている。
そうしたことを繰り返し、やがては流行も現在の状態も変ってゆく。それは良いものばかりとはかぎらない。いまさかんに5Gと騒がれていますが、これは『負の面も大きい』のではないかな?と私などは考える。
通信で送れるものが大きく、速くとなれば、送りつけるウィルスも大きく、手の込んだものになるだろうし、また、どこかへ侵入して抜き出す速度も、抜き出すものの量も大きくなるということだ。
どこぞのケータイの『使い方のトラブル相談』の渋谷の場所へ数年前に行った時、『普通の椅子が一つもなかった』。みんな立って待っていて、立ったまま相談。いくつかはスツールがあったか?
それが効率化なのだろうが、足の不自由な人、腰を痛めている人、高齢者はたまったものではないと思った。
なんでもこれからはスポーツの審判もAIがやることになってゆくらしいが、私などの感覚からすると、『審判をするのも立派なスポーツ』なわけで、選手の動きを『的確に見ること自体が、すでにその競技をやっているひとつの側面』なわけです。
だから、古武道では、道場へ行っても、カリキュラムがなく、先輩の稽古をただただ、ひたすら見て、それを真似して、やってみて、先輩に直してもらう、というやりかたのところもある。
私は交通事故のパターンを考えるのに、よくYoutubeのロードレーサーのクラッシュシーンなどを見るが、なかなか興味深い。落車するというのは『失敗』なわけで、しかも全身不随になったり、命を落とす深刻な『失敗』といえる。それは乗り手が事故を引き込んでいる場合もあるし、機材の選択を誤っていることから事故が起こりやすくなっている場合もある。
これはわかりやすく言うと、たとえば、自動車の場合、4つの車輪の地面との接地面は、普通のクルマでも超車でも大差はないわけだが、超車は通常の車両よりはるかに軽い。そこへもってきて数百馬力で不必要なバカぢからがある。まさかフォーミュラ1とかリブレのような、車体と同じぐらいの幅のタイヤをはくわけにはゆかない。しかも加速が良いということは、タイヤの回転とタイヤの下を流れて行く道路の『対タイヤ円周速度の差』がたいへんなパワーでズレるわけで、一度接地を失ったタイヤがふたたびグリップを取り戻すことは難しい。
ためしにYoutubeで、英語で『超車』と『fail』とか『crash』と入れてみると良い。もう走り始めて50m、100mでコントロール不能になって大破している超車が無数に出てくる。
それは馬力とタイヤのことを考えれば当たり前にわかることで、むしろ路上でF1に乗る方が理にかなっている。
1930~1980年ぐらいまでは、スポーツカーはそんなおかしなことになっていなかった。これは自転車に関してもまったく同じことが言える。
一般の車両に関しても、事故を誘発するような挙動の運転のものが増えた。昨日も道路を横断するねこのように、歩行者や自転車を見ずに、フルスロットルで左折してくるクルマに出会った。そうした『ゲーム感覚で運転するのが巧いと勘違いした連中が増えた』。これは機材もそうした方向へ消費者を誘導している。疑うなら、豊太の『レ苦刺す』のCMを見てみるとよい。埠頭か港の倉庫かどこかで、病米利香のアクション映画もどきに車を走らせ、コンテナに入れる。そういうのが『クールだ』と思う人たちの中から、映画もどきに逆走してパトカーから逃げたりするのが現れる。『これは運動性能がよいクルマだ』と。
1週間ほど前に『ぷりぷり臼』の視界の問題とシフトレバーのとっさの判断を狂わせるパターンの話を書いたが、あれはDSなどとは、根本的に設計者の姿勢が違うのだ。
ぷりぷり臼の設計者は『何かユニークなことをやってやろう』という自我意識が先に立っている。だから、あの割れたガラスの欠片のような、奇妙な2等ヘン三角形のテールやヘッドライトはシトロエンのDSやSMのテールのモダン・テイクのつもりだろう。
しかし、本家フランスのデザインのほうは、『信号機のライトが頭上15mにあるよりは歩行者の頭の位置にあったほうが見やすい』というヨーロッパ式信号機のデザインと同様に、後続車の運転者の頭の高さに方向指示器とストップランプを持ってきている。ぷりぷり臼のデザインはそうではない。カッコから入っている。
同様に、DSの初期型はブレーキの踏み間違えを防ぐために、靴がペダルに絡まらないように、DSのブレーキペダルはゴムボールを半分にして、床にくっつけたようなレイアウトにしていた。『似たようなペダルを2つ並べるから踏み間違える。まったく違う形にすればよい』と彼らは考えたのだ。ここまで、踏み間違えの問題がクローズアップされてくると、逆に現代の日本のクルマは、DSより70年遅れていると言えるだろう。DSは自動操縦で手放しで数百キロ高速道を走る改造車を半世紀以上前に、実用レヴェルで完成させましたからね。
さて、過剰なパワーで不安定な超車。踏み間違え、ギアがどこに入っているかわからないレイアウトのシフトレバーによる突然のバックや発進。どうにも始末が付かないので、AI様に頼んで、ヨーロッパの地下鉄の運転手のように、自動運転で、『運転者はテディベアのように気休めにいる』(爆)感じになってくる。ああ、どこかの社長が、テディベアのようにニュルブルクリンクで助手席に座っていましたっけ。
それは進歩なのか?私にはただの変化に見えるのだが。物事がつまらなくなる進歩、社会が息苦しくなる変化なら、私はまっぴらごめんだ。
誰かの手で、踊らされ、誘導されている。
そうしたことを繰り返し、やがては流行も現在の状態も変ってゆく。それは良いものばかりとはかぎらない。いまさかんに5Gと騒がれていますが、これは『負の面も大きい』のではないかな?と私などは考える。
通信で送れるものが大きく、速くとなれば、送りつけるウィルスも大きく、手の込んだものになるだろうし、また、どこかへ侵入して抜き出す速度も、抜き出すものの量も大きくなるということだ。
どこぞのケータイの『使い方のトラブル相談』の渋谷の場所へ数年前に行った時、『普通の椅子が一つもなかった』。みんな立って待っていて、立ったまま相談。いくつかはスツールがあったか?
それが効率化なのだろうが、足の不自由な人、腰を痛めている人、高齢者はたまったものではないと思った。
なんでもこれからはスポーツの審判もAIがやることになってゆくらしいが、私などの感覚からすると、『審判をするのも立派なスポーツ』なわけで、選手の動きを『的確に見ること自体が、すでにその競技をやっているひとつの側面』なわけです。
だから、古武道では、道場へ行っても、カリキュラムがなく、先輩の稽古をただただ、ひたすら見て、それを真似して、やってみて、先輩に直してもらう、というやりかたのところもある。
私は交通事故のパターンを考えるのに、よくYoutubeのロードレーサーのクラッシュシーンなどを見るが、なかなか興味深い。落車するというのは『失敗』なわけで、しかも全身不随になったり、命を落とす深刻な『失敗』といえる。それは乗り手が事故を引き込んでいる場合もあるし、機材の選択を誤っていることから事故が起こりやすくなっている場合もある。
これはわかりやすく言うと、たとえば、自動車の場合、4つの車輪の地面との接地面は、普通のクルマでも超車でも大差はないわけだが、超車は通常の車両よりはるかに軽い。そこへもってきて数百馬力で不必要なバカぢからがある。まさかフォーミュラ1とかリブレのような、車体と同じぐらいの幅のタイヤをはくわけにはゆかない。しかも加速が良いということは、タイヤの回転とタイヤの下を流れて行く道路の『対タイヤ円周速度の差』がたいへんなパワーでズレるわけで、一度接地を失ったタイヤがふたたびグリップを取り戻すことは難しい。
ためしにYoutubeで、英語で『超車』と『fail』とか『crash』と入れてみると良い。もう走り始めて50m、100mでコントロール不能になって大破している超車が無数に出てくる。
それは馬力とタイヤのことを考えれば当たり前にわかることで、むしろ路上でF1に乗る方が理にかなっている。
1930~1980年ぐらいまでは、スポーツカーはそんなおかしなことになっていなかった。これは自転車に関してもまったく同じことが言える。
一般の車両に関しても、事故を誘発するような挙動の運転のものが増えた。昨日も道路を横断するねこのように、歩行者や自転車を見ずに、フルスロットルで左折してくるクルマに出会った。そうした『ゲーム感覚で運転するのが巧いと勘違いした連中が増えた』。これは機材もそうした方向へ消費者を誘導している。疑うなら、豊太の『レ苦刺す』のCMを見てみるとよい。埠頭か港の倉庫かどこかで、病米利香のアクション映画もどきに車を走らせ、コンテナに入れる。そういうのが『クールだ』と思う人たちの中から、映画もどきに逆走してパトカーから逃げたりするのが現れる。『これは運動性能がよいクルマだ』と。
1週間ほど前に『ぷりぷり臼』の視界の問題とシフトレバーのとっさの判断を狂わせるパターンの話を書いたが、あれはDSなどとは、根本的に設計者の姿勢が違うのだ。
ぷりぷり臼の設計者は『何かユニークなことをやってやろう』という自我意識が先に立っている。だから、あの割れたガラスの欠片のような、奇妙な2等ヘン三角形のテールやヘッドライトはシトロエンのDSやSMのテールのモダン・テイクのつもりだろう。
しかし、本家フランスのデザインのほうは、『信号機のライトが頭上15mにあるよりは歩行者の頭の位置にあったほうが見やすい』というヨーロッパ式信号機のデザインと同様に、後続車の運転者の頭の高さに方向指示器とストップランプを持ってきている。ぷりぷり臼のデザインはそうではない。カッコから入っている。
同様に、DSの初期型はブレーキの踏み間違えを防ぐために、靴がペダルに絡まらないように、DSのブレーキペダルはゴムボールを半分にして、床にくっつけたようなレイアウトにしていた。『似たようなペダルを2つ並べるから踏み間違える。まったく違う形にすればよい』と彼らは考えたのだ。ここまで、踏み間違えの問題がクローズアップされてくると、逆に現代の日本のクルマは、DSより70年遅れていると言えるだろう。DSは自動操縦で手放しで数百キロ高速道を走る改造車を半世紀以上前に、実用レヴェルで完成させましたからね。
さて、過剰なパワーで不安定な超車。踏み間違え、ギアがどこに入っているかわからないレイアウトのシフトレバーによる突然のバックや発進。どうにも始末が付かないので、AI様に頼んで、ヨーロッパの地下鉄の運転手のように、自動運転で、『運転者はテディベアのように気休めにいる』(爆)感じになってくる。ああ、どこかの社長が、テディベアのようにニュルブルクリンクで助手席に座っていましたっけ。
それは進歩なのか?私にはただの変化に見えるのだが。物事がつまらなくなる進歩、社会が息苦しくなる変化なら、私はまっぴらごめんだ。