最近、テレビをつけると、クルマのCMとビールのCM,携帯電話のCMがやたら多い気がする。
その中で、興味深いのはクルマのCMのほとんどが『外国でロケしたもの』。つまり、『日本では何に乗っても同じ』というのはメーカーもよく知っているのではないか?日本国内で新車を走らせて、クルマを買いたくなるシーンを撮るのは難しいだろう。
私は昭和30~40年代の道路状態を覚えている。ガラガラだったし、クルマはまだ、その本領を発揮できるフィールドがあった。
同じことは『犬』や『ねこ』もそうで、彼らもずいぶん不自由になったな、と思う。狭い家の中で飼われて、表へ散歩に出ても、何の自然があるわけでもなく。ただ運動と排便のために連れて歩かれているようにみえる。
高級自動車もいぬやねこも現代ではよく似ている(笑)。たまに運動と排便に連れ出してもらうように、ゆるゆると渋滞の中を流して走る。決して、思いっ切り全力疾走する機会はない。
昔のねこは、いまよりはるかに自由だったし、首に鈴などつけて、あまり野鳥などを捕まえないようにしていた。塀伝いに歩いていって、多少の悪さをしても、誰それさんとこの◎×だ。ぐらいで、べつに大騒ぎしなかった。みなさん寛大だった。
いぬも同じで、あちこちに原っぱがあったり、河川敷へ行ったりして、自由に駆け回らせた。彼らも『野生満喫』で川に飛び込んで泳いだり。そこそこ幸福だったろうと思う。いまや、原っぱなんかありませんから。
私は『高級犬』と『高級車』は現代では似ていると思うんだなぁ(爆)。
英国にいた時、バースの郊外のドッグ・ハウスへ、よく遊びに行った。飼い主に見捨てられた犬を保護する施設で、いぬを借り出して、草原のなかを散歩させる。相性が良かったら引き取っても良い。そこへいって私が感じたのは『自分は犬種はなんでもいい』ということだった。性格がよさそうで、連れて出してほしいと眼で言っているいぬは、そのまま連れ出した。
私はスパニエルとかコリーとかマルチーズとか、縁あってきたいぬを数十年飼っていたので、いぬにはだいたいすぐ気に入られる。ねこもそうです。
ところが、世の中には『犬種』をすごく気にする人たちがいる。私はいつもそこで『ああ、根っこが違うんだな』としみじみと思う。
これは実は、自転車でもそうで、部品でも旧い車両でも、縁があってきたもので、それで良しとする。
クルマからいぬ、あるいは自転車に至るまで、これでないといけない、、、という『こだわり』の根底には『オレはこういう人』とか『ワタシはこういう人』というのを、持ち物や使う物に託している。
そこには『自分の欲』、『他人の眼』がどこかに潜んでいる。『自分はこれを我がものとしたい』、『自分はこういう趣味の人だと見てもらいたい』と表現を置き換えても良い。
それは、動物や乗り物を『物』として扱っているようにみえる。
多くの醒めたひとたちは、もはや、連れている高級犬や高級自動車で、そのひとを判断することは、全世界的になくなっていると私は思う。
高級犬であるかどうかより、そのいぬが飼い主といて幸せそうかどうかしか、私は見ない。
これは自動車や自転車もそうで、まあ、趣味やらセンスやら財力やら、見て欲しいのか、『これでもかッ!』なものをたまに見ると、私などは逆にひきます(笑)。
與邦国島でも屋久島でも記録的な大雨が降り、いよいよ地球環境は深刻にバランスを崩しているのが日本へも迫ってきている。そういう中でデカい趣味クルマを乗るのは時代錯誤だろう。
テレビで『環境保護からクルマ乗り入れ禁止』(実際には都市構造上乗り入れられない)のヴェニスに、行ってラフトを浮かべてクルマを走らせるなどというのは、まったくとんでもないドイツの横暴だろう。
たまに『英国のものが好きで、、、』と言って寄って来る人がいて、英国の服、英国のクルマ、英国の家具、英国の自転車、などをやっていて、英語はからっきしダメで、じつは英国に住んだことも行ったことも無い人がいる。それは、フランスのものでも同じ。『キミはフランス人じゃないし、フランス語も出来ず、フランスの芸術も文学も知らず,住んだこともない。日本のものには興味がないのか?』と訊きたくなる。私にはそれは『深刻なアイデンティティー問題に見える』。
いまや、『高齢者の自動車運転が危険』と言われ始めたが、日本は長年、クルマ社会アメリカの都市づくりなどを参考にやってきた。ニュータウンも学園都市もクルマや最低線スクーターがないと生活が成立しない。それらが、高齢者社会になりつつあり、一気に時代遅れになりつつある。
ヨーロッパのオランダとかポルトガルとかは美しく斜陽化に成功したとみえるが、日本はこれからどうなるのかな?と、ある意味、私は興味津々なのです。
その中で、興味深いのはクルマのCMのほとんどが『外国でロケしたもの』。つまり、『日本では何に乗っても同じ』というのはメーカーもよく知っているのではないか?日本国内で新車を走らせて、クルマを買いたくなるシーンを撮るのは難しいだろう。
私は昭和30~40年代の道路状態を覚えている。ガラガラだったし、クルマはまだ、その本領を発揮できるフィールドがあった。
同じことは『犬』や『ねこ』もそうで、彼らもずいぶん不自由になったな、と思う。狭い家の中で飼われて、表へ散歩に出ても、何の自然があるわけでもなく。ただ運動と排便のために連れて歩かれているようにみえる。
高級自動車もいぬやねこも現代ではよく似ている(笑)。たまに運動と排便に連れ出してもらうように、ゆるゆると渋滞の中を流して走る。決して、思いっ切り全力疾走する機会はない。
昔のねこは、いまよりはるかに自由だったし、首に鈴などつけて、あまり野鳥などを捕まえないようにしていた。塀伝いに歩いていって、多少の悪さをしても、誰それさんとこの◎×だ。ぐらいで、べつに大騒ぎしなかった。みなさん寛大だった。
いぬも同じで、あちこちに原っぱがあったり、河川敷へ行ったりして、自由に駆け回らせた。彼らも『野生満喫』で川に飛び込んで泳いだり。そこそこ幸福だったろうと思う。いまや、原っぱなんかありませんから。
私は『高級犬』と『高級車』は現代では似ていると思うんだなぁ(爆)。
英国にいた時、バースの郊外のドッグ・ハウスへ、よく遊びに行った。飼い主に見捨てられた犬を保護する施設で、いぬを借り出して、草原のなかを散歩させる。相性が良かったら引き取っても良い。そこへいって私が感じたのは『自分は犬種はなんでもいい』ということだった。性格がよさそうで、連れて出してほしいと眼で言っているいぬは、そのまま連れ出した。
私はスパニエルとかコリーとかマルチーズとか、縁あってきたいぬを数十年飼っていたので、いぬにはだいたいすぐ気に入られる。ねこもそうです。
ところが、世の中には『犬種』をすごく気にする人たちがいる。私はいつもそこで『ああ、根っこが違うんだな』としみじみと思う。
これは実は、自転車でもそうで、部品でも旧い車両でも、縁があってきたもので、それで良しとする。
クルマからいぬ、あるいは自転車に至るまで、これでないといけない、、、という『こだわり』の根底には『オレはこういう人』とか『ワタシはこういう人』というのを、持ち物や使う物に託している。
そこには『自分の欲』、『他人の眼』がどこかに潜んでいる。『自分はこれを我がものとしたい』、『自分はこういう趣味の人だと見てもらいたい』と表現を置き換えても良い。
それは、動物や乗り物を『物』として扱っているようにみえる。
多くの醒めたひとたちは、もはや、連れている高級犬や高級自動車で、そのひとを判断することは、全世界的になくなっていると私は思う。
高級犬であるかどうかより、そのいぬが飼い主といて幸せそうかどうかしか、私は見ない。
これは自動車や自転車もそうで、まあ、趣味やらセンスやら財力やら、見て欲しいのか、『これでもかッ!』なものをたまに見ると、私などは逆にひきます(笑)。
與邦国島でも屋久島でも記録的な大雨が降り、いよいよ地球環境は深刻にバランスを崩しているのが日本へも迫ってきている。そういう中でデカい趣味クルマを乗るのは時代錯誤だろう。
テレビで『環境保護からクルマ乗り入れ禁止』(実際には都市構造上乗り入れられない)のヴェニスに、行ってラフトを浮かべてクルマを走らせるなどというのは、まったくとんでもないドイツの横暴だろう。
たまに『英国のものが好きで、、、』と言って寄って来る人がいて、英国の服、英国のクルマ、英国の家具、英国の自転車、などをやっていて、英語はからっきしダメで、じつは英国に住んだことも行ったことも無い人がいる。それは、フランスのものでも同じ。『キミはフランス人じゃないし、フランス語も出来ず、フランスの芸術も文学も知らず,住んだこともない。日本のものには興味がないのか?』と訊きたくなる。私にはそれは『深刻なアイデンティティー問題に見える』。
いまや、『高齢者の自動車運転が危険』と言われ始めたが、日本は長年、クルマ社会アメリカの都市づくりなどを参考にやってきた。ニュータウンも学園都市もクルマや最低線スクーターがないと生活が成立しない。それらが、高齢者社会になりつつあり、一気に時代遅れになりつつある。
ヨーロッパのオランダとかポルトガルとかは美しく斜陽化に成功したとみえるが、日本はこれからどうなるのかな?と、ある意味、私は興味津々なのです。