このところ、あちこちのブログで『絵描き』のことに関して議論を売っています。ずいぶん誤った意味で『絵描き』という語が使われているようにみえてならない。
私が『絵描き』という人たちともっとも多く接したのは1960年代から1982年まで。その頃までの『絵描き』という人たちはまったく画家とは違う人たちでした。
大雑把にわかりやすく言うと、私の同級生で、東京大学の法学部へ入るためにひたすら浪人しているのがいた。最後はどうなったのか知りませんが、5浪ぐらいしていた。そのあとはどうなったのか知らない。
そうかと思うと、毎年100人の桁で東大に行く進学校を首席で中退したのがいる。ひたすらロックが好きでそれ以外のことには関心がない男だった。その後、資格をとるわけでもなく、中卒の状態で一生を終えた。音楽以外やりたくなかったということでしょう。あまり詳細に書くと、すぐわかってしまうような人。有名な雑誌が経済的に苦しかった時、学習塾を経営して乗り切ったりもしたので、音楽関係の人の間では知っている人は知っている。まったく無名でNAKUなり、そーぎには8人しか来なかった。それでも、彼がいなかったら、その雑誌も立ち消えていたであろうことから、ほんとうはその分野の音楽関係者は大恩があるはず。
これは、『東大が芸術界系の何か』である場合もあるわけです。特定の美大に入るために3浪、4浪、5浪する人はいる。さらにはどこかの美術団体の役員になったり、どこかの展覧会の入賞歴などを、卒業証書のようにいたるところに引きづっている人もいる。そういう人たちは『画家先生』であって、けっして『絵描き』ではない。
『絵描き』とは絵に殉ずる人のことで、自分が実現したい絵を描くのに、肩書も名誉も金も本来は必要ない。だから、無用の美術世界での『政治的な動きや運動』は徹底して無視を決め込む。いくら賞をとろうと、賞を取った絵が自分を満足させるとは限らないので、受賞歴も語らない。そういうことは無意味だと思っているので、賞をくれるようなところに出品することすらしない。
こうした点からみてゆくと、名を成した人の中にも、絵描きと画家とはっきりタイプが別れる。レンブラントのように破産して、機転の利くヘンドリッキェのおかげで無一文になるのはまぬがれたものの、貧乏の底でこびることなく絵を描き、汚い身なりで歯の抜けた自分の自画像を描くのだが、絵を描きはじめるやいなや、すべてのしがらみから解放され、最高度の自由な運筆を見せる。肩書も賞も金も名誉も後世も、一切関係ない。絵を描くことですべての日常の苦悩から解放されている。その運筆に胸のすく、ひとを苦悩から救う力が宿っている。絵描きの典型でしょう。
ある人のブログでレオナルド・ダ・ヴインチが『絵描き』だと表現されていて、ずいぶん違和感を持った。ダ・ヴインチほど理知的な人間はいない。彼は『視覚的な人間』だが、彼が花を描く時、そこには目に見えない神の神秘の法則を視覚化しようとしているようなところがある。レオナルドにとってはそれは認識手段、探求手段で、その天賦の才能と美意識がずばぬけていたわけで、絵描きと云うのとはちょっと違う。
私の絵の師と『絵描き談義』をしたことがあって、絵描きという語には、権威・肩書・権力に一切媚びない生き方である、という意味がこもっていると理解した。世俗的な成功や名誉とは無縁なのだ。一切媚びないし、それを身にまとって他人に対し自分を大きく見せることもしない。
これはたいへんな覚悟がいる。
だから、宗達の雷神風神図だって名前は入っていない。『自分がやった』という自負すらも超えている。
北斎などは、たいそう売れっ子で稼いだようだが、支払いは紙にくるんで渡されたまま、開きもせず放り投げて置き、代金の取り立てに人が来ると、また開きもせず、それをなげて渡し、ずいぶん損をしていたらしい。彼の晩年、毎日魔除けで描いていた虎の絵の中に、雪の中を不敵な表情でにじっている弱った虎の絵があるが、自分がそうした体調であっても、絵を描き始めるや画狂人の冴えがでる。
一方で、日本人は『不遇の天才が好き』なので、夭折した画家などをやたらともちあげる。またそれを狙って『たいへんだ、苦しい、自分はこんなに苦労して描いている』とウンウン言いながら描き、それに肩書や賞歴を付ける人もいる。私はそういうのは絵描きではないよな、画家だよな、と思う。
私は昔も今も梅原龍三郎が好きなのだが、『彼は絵描きか?』と絵の師に訊ねたことがある(笑)。2人は浅井忠の系統からスタートし、帝展で面識があり、お互いよく知っていた。『彼は良い絵を描くし、本来は絵描きの人なんだが、君もわかるだろう、彼は売り絵も頼まれれば描ける人なんだ、どうしてもっと純粋にやってくれないのか、そこだけがボクは気に入らないんだ。』とムキになって言っていた。
それ以来、絵描きというのはじつに厳しいカテゴリーなんだなと考えている。
私が『絵描き』という人たちともっとも多く接したのは1960年代から1982年まで。その頃までの『絵描き』という人たちはまったく画家とは違う人たちでした。
大雑把にわかりやすく言うと、私の同級生で、東京大学の法学部へ入るためにひたすら浪人しているのがいた。最後はどうなったのか知りませんが、5浪ぐらいしていた。そのあとはどうなったのか知らない。
そうかと思うと、毎年100人の桁で東大に行く進学校を首席で中退したのがいる。ひたすらロックが好きでそれ以外のことには関心がない男だった。その後、資格をとるわけでもなく、中卒の状態で一生を終えた。音楽以外やりたくなかったということでしょう。あまり詳細に書くと、すぐわかってしまうような人。有名な雑誌が経済的に苦しかった時、学習塾を経営して乗り切ったりもしたので、音楽関係の人の間では知っている人は知っている。まったく無名でNAKUなり、そーぎには8人しか来なかった。それでも、彼がいなかったら、その雑誌も立ち消えていたであろうことから、ほんとうはその分野の音楽関係者は大恩があるはず。
これは、『東大が芸術界系の何か』である場合もあるわけです。特定の美大に入るために3浪、4浪、5浪する人はいる。さらにはどこかの美術団体の役員になったり、どこかの展覧会の入賞歴などを、卒業証書のようにいたるところに引きづっている人もいる。そういう人たちは『画家先生』であって、けっして『絵描き』ではない。
『絵描き』とは絵に殉ずる人のことで、自分が実現したい絵を描くのに、肩書も名誉も金も本来は必要ない。だから、無用の美術世界での『政治的な動きや運動』は徹底して無視を決め込む。いくら賞をとろうと、賞を取った絵が自分を満足させるとは限らないので、受賞歴も語らない。そういうことは無意味だと思っているので、賞をくれるようなところに出品することすらしない。
こうした点からみてゆくと、名を成した人の中にも、絵描きと画家とはっきりタイプが別れる。レンブラントのように破産して、機転の利くヘンドリッキェのおかげで無一文になるのはまぬがれたものの、貧乏の底でこびることなく絵を描き、汚い身なりで歯の抜けた自分の自画像を描くのだが、絵を描きはじめるやいなや、すべてのしがらみから解放され、最高度の自由な運筆を見せる。肩書も賞も金も名誉も後世も、一切関係ない。絵を描くことですべての日常の苦悩から解放されている。その運筆に胸のすく、ひとを苦悩から救う力が宿っている。絵描きの典型でしょう。
ある人のブログでレオナルド・ダ・ヴインチが『絵描き』だと表現されていて、ずいぶん違和感を持った。ダ・ヴインチほど理知的な人間はいない。彼は『視覚的な人間』だが、彼が花を描く時、そこには目に見えない神の神秘の法則を視覚化しようとしているようなところがある。レオナルドにとってはそれは認識手段、探求手段で、その天賦の才能と美意識がずばぬけていたわけで、絵描きと云うのとはちょっと違う。
私の絵の師と『絵描き談義』をしたことがあって、絵描きという語には、権威・肩書・権力に一切媚びない生き方である、という意味がこもっていると理解した。世俗的な成功や名誉とは無縁なのだ。一切媚びないし、それを身にまとって他人に対し自分を大きく見せることもしない。
これはたいへんな覚悟がいる。
だから、宗達の雷神風神図だって名前は入っていない。『自分がやった』という自負すらも超えている。
北斎などは、たいそう売れっ子で稼いだようだが、支払いは紙にくるんで渡されたまま、開きもせず放り投げて置き、代金の取り立てに人が来ると、また開きもせず、それをなげて渡し、ずいぶん損をしていたらしい。彼の晩年、毎日魔除けで描いていた虎の絵の中に、雪の中を不敵な表情でにじっている弱った虎の絵があるが、自分がそうした体調であっても、絵を描き始めるや画狂人の冴えがでる。
一方で、日本人は『不遇の天才が好き』なので、夭折した画家などをやたらともちあげる。またそれを狙って『たいへんだ、苦しい、自分はこんなに苦労して描いている』とウンウン言いながら描き、それに肩書や賞歴を付ける人もいる。私はそういうのは絵描きではないよな、画家だよな、と思う。
私は昔も今も梅原龍三郎が好きなのだが、『彼は絵描きか?』と絵の師に訊ねたことがある(笑)。2人は浅井忠の系統からスタートし、帝展で面識があり、お互いよく知っていた。『彼は良い絵を描くし、本来は絵描きの人なんだが、君もわかるだろう、彼は売り絵も頼まれれば描ける人なんだ、どうしてもっと純粋にやってくれないのか、そこだけがボクは気に入らないんだ。』とムキになって言っていた。
それ以来、絵描きというのはじつに厳しいカテゴリーなんだなと考えている。