バブルからあとの日本での生活を見ていて、よく思うのは『すべてがせわしく』なって、『バカっぱたらき』があたかも良いことのように考える人が一定の割合いて、働き方が果てしなくブラック化してきたことがあげられると思う。
また、そう言う具合に『バカっぱたらき』を会社なり職場でやらざるを得ない立場にある人は、今度は、それがのんびりしている人に向かって『怨嗟』(えんさ)となって発散されて、それがネット上などで攻撃対象になったりする。
年末の食事会で会った人の奥さんがギュードン屋で働いていて、それが海外から来た出稼ぎの人を教える仕事だという。決して時間内に終わらないような量の仕事に設定されるそうで、朝7時から出て行って、帰って来るのは夜7時過ぎ。その旦那は夕食がいつも作られていないので、帰ってきても外食。しかし、家庭内のそうした事情から、決してギュードンは間違っても食べないと言っていた。風呂も入る前に掃除からはじまるので、スーパー銭湯へ毎日行っているという。
その奥さんのほう、べつに仕事が出来なくて、残業が多いわけではない。なぜっかって?ですか?その奥さんのほう、じつはかつては国際線のキャク・シツ・ジョームインだったからです。あれは、ほぼ滞りなくすべてこなせないと務まらない。しかも、仕事は乗る前から始まっている。
いまや、たしかに、そのギュードン屋、店員は海外からの出稼ぎがすごく多い。コンビニもそうです。あとはBREADの大量生産工場。このあたりもキツイので有名だ。ようするに、『海外からのロード―リョク』とせーじ屋が騒ぐのは、そういうところへ押し込むロード―リョクが欲しいところからの圧力でしょう。そういうところで、たいへんな働かせ方をやって、母国へ戻すわけですから、安い労働力を使って、自分たち一部は儲けて、日本の評判を卑しめているに等しい。
私は威蘭にいたとき、『日本に来たことが無い人は親日派、出稼ぎできていたことがあって、代々木公園で休日集まっていたような人たちは、ひどい雇い主だった。こりごりだ』と言っていたのを思い出す。
そうした『ばかっぱたらき』を『勤労』ととりちがえているひとたちが90年代から増え続けた。
私が学生時代、普通にアルバイトをしていれば、中古の1.6~2リッターの自動車が買えた。そういう消費をしない者は、250cc以下のバイクか親のクルマを使って、年に2回ヨーロッパ旅行やオーストラリアへサーフインをしに行ったり、アメリカへ遊びに行き、向うで珍しいレコードを大量に買ってくるようなことをしているのがまわりにけっこういた。
現代の若者で、それだけ余裕のあるアルバイト料をもらっている人はいないだろう。つまり、世の中がそれだけブラック化しているのだと、私はみている。
日本で多くの人たちが勘違いしているのは、『ばかっぱたらきしている時、肉体ばかりでなく、それに指令を出している脳も疲れている』そこに、さらに『嫌な対人関係や満員電車でストレスが加えられると、脳もまたそれで疲れる』。
私はだいたい早朝に起きて、一仕事して、それから坐る。そのあと、お茶にしてぼーっとしているわけですが、この坐るというのは、たいへん自分の場合リラックス効果がある。
昔、中学生時代にお坊さんの読経に上手い下手があって、上手いお坊さんの読経では、なぜかす~~っとリラックスして、眠くなるのを発見した。ダメなボーズのはつっかかったり、咳払いしたりで、『お・し・ご・と』で、読んでいる最中から、封筒に入ったお札を数えているような期待感があるのか、まるでしらけている(爆)。
英国にいたとき、短期で私の家に住んでいたチベットの人がマントラを唱えているのも、妙に聴いていてこちらもリラックスしてきたのを覚えている。『オン・タレ・トゥタレ・トレ・ソーハー』という観音様の眷属のマントラだった。
そして、脳は『あれもしよう、これもしなくては、』といつも、『やらねば症候群』にこづきまわされていては休まる暇がない。医学的には『外界から感覚器の刺激を通して、あーせい、こうせいといわれることなく、ぼーっとしている中で、自分の真自我の考えをまとめさせてやることが必要だと言われている。『デフォルト・モード』と最近は言われるようですが、これが、鬱や自閉症、アルツハイマーではうまくデフォルト・モードが機能していないことがわかっている。
自分の場合、自転車を停めて河原や丘の上にいたり、神社仏閣の庭を散策しているような場合が、このデフォルト・モードの役を果たしていると思う。
そうした『糸巻きボンレスハムのようにがんじがらめになった脳』を解きほぐしリラックスさせる部分と、ぼ~~っとしている時間、この2つの絶対必要なものが得られないために、このところ鬱の人の話をよく耳にするのではないか?
効率よくだとか、便利だとか、そういうものを追いかけて、『自分の脳を糸で縛っている』。
マントラを唱えるようにペダルをこぎ(爆)。自然の流動的な風景のエーテルに浸り、林の中、静かな庭園の中でぼーっとする至福の時、年末の今こそ、この1年のリフレクションを味わうのにやって欲しい。