食事に入ったインド料理屋に日本人の夫婦がいた。それが客のインド人を、こっちのテーブルに来いと命令形で呼び寄せて話を始めた。歳の頃39~42歳。
まぁ、ひどい英語を話しているというか、中学1年生の単語と文章を羅列して、出鱈目な英語を話していた。いや、英語というのもおこがましい。
その夫婦、ただ、『寿司が好きか?』『カツ丼が好きか?』『お前はカツ丼を知っているか?』、では、『お前は懐石を知っているか?』と5分ぐらいやっていたか。その夫婦『今日は英語のよいプラクティスができた』と言っていた。『やがて、お前は結婚しているか?』などと訊き始めた。そのインド人は嫌気がさして『いや、自分はこれから行くところがあるから』と答えたのだが、『では行かせてやる。もう行け』と言った。レストランへ入ってきたにもかかわらず、そのインド人は何も食べずに出て行った。
いやぁ、みっともない。こういう奴が同じ日本人かと思うとムカつきます。日本の評判を卑しめている。
昔、1970代、万博の頃からあとに、日本の英字新聞で『英会話を練習させてもらってよいですか?』と話しかけてくる無作法な迷惑人間の話題がさかんに出たことがあった。同じような事態がまたオリンピックの前に来るのかな?と今日思った。
あの時、みんな日本に滞在している英米人の間で、自衛策がやりとりされていたのを思い出す。そういう具合で、英語で話しかけられたら『フランス語』で答えると言っているのがいた。念入りだったひとりは『フランス語で答えるのではまだ危険が残ろ。オレはいつもウェルシュ(ウェールズ語)で答えている』と言っていた(爆)。
かつて、16年ぐらい前のこと、ヨーロッパの某国大使館の大使とその夫人をお寺の境内の骨董市へお連れしたことがありました。ところがです。露店で何やら焼いていた男が『シッ,シッ』と犬か何かに言うように言った。たいへんな外交上の無礼だ。江戸時代なら私が『斬り捨て御免』でその男の焼いていた鉄板の上に、その男の『イキチ・ソース』が広がる状態だっただろう。
そういうことは、たとえ一回でも経験すると、『その国全体の評価にキズが付く』。
私がアメリカへ行かない理由のひとつは、似たような体験がいくつもあったからだ。ボルチモアで、ドアがいつもロックされているレストランの話は以前に書いた。そのドアの前に立つのが東洋人だったり、アフリカ系だと決してドアを開けない。気がつかないふりをする。また別のところで『ここよりホワイトゾーンはじまる』と書いた札が頭上にぶら下げられているバーも見たことがある。
私がアメリカを好まない理由はいくつもあるが、少なくとも、そのような不愉快な体験と無縁ではない。
ドイツでは、少しでも英語を混ぜると、『ここはドイツだ。英語でなくドイツ語を話せ』と言われたことがあった。英国はじつに忍耐強く相手を尊重する美風が1990年ごろまであった。地図を広げると、必ず道を教えるのに人がよってきた。
なにしろ、スーパーの入り口にイヌのひもをゆわえて行く時ですら、丁寧にイヌにこれから何をして、何を買って戻って来るから、無駄鳴きしてはいけない。知らない人のズボンに前足をかけて汚してはいけない。おとなしく待っていなさい、と説得・説明してスーパーの中に入って行く国民だ(笑)。
階段で大きいスーツケースを持っていると、必ず誰かが手伝って持ってくれる。これは文化レベルを感じます。『シッ,シッ』というのは、私は世界中旅行して日本だけだ。
日本では、自分が語学が出来なくてコミュニケ―ション・バリアがあると、そのバリアのせいで、自分が『ダぁ、ダぁ言っている乳幼児ぐらいの英語力しかないのに、自分基準で、相手の知性も乳幼児並み』と誤解する傾向があるようだ。
昔、『荒れる教室に恐れをなして教師が逃げてしまった日本語学校の講師を頼まれたことがありました。そのとき、他の教師たちのなかは、やはり生徒を乳幼児並みに扱う人が少なからずいた。
しかし、相手はその語学教師より、はるかに知的レヴェルが高い、母国ではひとかどの人物である場合もすくなくないのです。
だから、ケンブリッジ・オックスフォードで学ぶ海外からの学生は、将来の国家元首かもしれない。だから、『タウニーではない(町の人ではない)学生には』、みんな、文の最後にSirをつけて、学生を紳士として扱ってきた。(女性もしかり)
今度の海外からの労働力確保のための法案にしても、ずいぶん、これは日本の評判を卑しめ、貶めるだろうなという気がしてならない。彼らは『利益のみを考えている連中よりは、意外と知的レヴェル上だったりする』と私は思いますね。1980年代末に、彼らはみんな、雄弁にその職場環境とシステムそのものに内在している偽善を告発して、熱く語っていましたから。
このあいだ事件になった語学学校の、KOROされた校長の話の映像を見て、私はどうかな?本当に慕われていたのかな?と思った。日本での我が身に置き換えてみたらよい。
日本人の若者が、安いブラック給金で働きに海外へ出て、一言教師が言うたびごとに机を定規でパシッと叩いて、
『ここは東京じゃないんだ(バシッ)、大阪でもないんだ(バシッ)。わかるか(バシッ。XXなんだ。だからXX語を話せ(バシッ)。OK?』
そんなことをやられて、学校へ語学を気持ちよく習いに来続ける人間がいるだろうか?私は、NAKUなられた方には悪いけれど、起こるべくして起きたことではないかな?と思った。あの叩く机の音のひとつづつにメラメラと目の中で燃え上がる怒りと反感があったのだろうな、と私なら考えますね。
私なら、『一言ごとにその机をひっぱたく音を、いますぐやめろ!俺たちは生徒で、おまえにムチで脅かされる家畜じゃない!』
と怒鳴っただろうと思う。
まぁ、ひどい英語を話しているというか、中学1年生の単語と文章を羅列して、出鱈目な英語を話していた。いや、英語というのもおこがましい。
その夫婦、ただ、『寿司が好きか?』『カツ丼が好きか?』『お前はカツ丼を知っているか?』、では、『お前は懐石を知っているか?』と5分ぐらいやっていたか。その夫婦『今日は英語のよいプラクティスができた』と言っていた。『やがて、お前は結婚しているか?』などと訊き始めた。そのインド人は嫌気がさして『いや、自分はこれから行くところがあるから』と答えたのだが、『では行かせてやる。もう行け』と言った。レストランへ入ってきたにもかかわらず、そのインド人は何も食べずに出て行った。
いやぁ、みっともない。こういう奴が同じ日本人かと思うとムカつきます。日本の評判を卑しめている。
昔、1970代、万博の頃からあとに、日本の英字新聞で『英会話を練習させてもらってよいですか?』と話しかけてくる無作法な迷惑人間の話題がさかんに出たことがあった。同じような事態がまたオリンピックの前に来るのかな?と今日思った。
あの時、みんな日本に滞在している英米人の間で、自衛策がやりとりされていたのを思い出す。そういう具合で、英語で話しかけられたら『フランス語』で答えると言っているのがいた。念入りだったひとりは『フランス語で答えるのではまだ危険が残ろ。オレはいつもウェルシュ(ウェールズ語)で答えている』と言っていた(爆)。
かつて、16年ぐらい前のこと、ヨーロッパの某国大使館の大使とその夫人をお寺の境内の骨董市へお連れしたことがありました。ところがです。露店で何やら焼いていた男が『シッ,シッ』と犬か何かに言うように言った。たいへんな外交上の無礼だ。江戸時代なら私が『斬り捨て御免』でその男の焼いていた鉄板の上に、その男の『イキチ・ソース』が広がる状態だっただろう。
そういうことは、たとえ一回でも経験すると、『その国全体の評価にキズが付く』。
私がアメリカへ行かない理由のひとつは、似たような体験がいくつもあったからだ。ボルチモアで、ドアがいつもロックされているレストランの話は以前に書いた。そのドアの前に立つのが東洋人だったり、アフリカ系だと決してドアを開けない。気がつかないふりをする。また別のところで『ここよりホワイトゾーンはじまる』と書いた札が頭上にぶら下げられているバーも見たことがある。
私がアメリカを好まない理由はいくつもあるが、少なくとも、そのような不愉快な体験と無縁ではない。
ドイツでは、少しでも英語を混ぜると、『ここはドイツだ。英語でなくドイツ語を話せ』と言われたことがあった。英国はじつに忍耐強く相手を尊重する美風が1990年ごろまであった。地図を広げると、必ず道を教えるのに人がよってきた。
なにしろ、スーパーの入り口にイヌのひもをゆわえて行く時ですら、丁寧にイヌにこれから何をして、何を買って戻って来るから、無駄鳴きしてはいけない。知らない人のズボンに前足をかけて汚してはいけない。おとなしく待っていなさい、と説得・説明してスーパーの中に入って行く国民だ(笑)。
階段で大きいスーツケースを持っていると、必ず誰かが手伝って持ってくれる。これは文化レベルを感じます。『シッ,シッ』というのは、私は世界中旅行して日本だけだ。
日本では、自分が語学が出来なくてコミュニケ―ション・バリアがあると、そのバリアのせいで、自分が『ダぁ、ダぁ言っている乳幼児ぐらいの英語力しかないのに、自分基準で、相手の知性も乳幼児並み』と誤解する傾向があるようだ。
昔、『荒れる教室に恐れをなして教師が逃げてしまった日本語学校の講師を頼まれたことがありました。そのとき、他の教師たちのなかは、やはり生徒を乳幼児並みに扱う人が少なからずいた。
しかし、相手はその語学教師より、はるかに知的レヴェルが高い、母国ではひとかどの人物である場合もすくなくないのです。
だから、ケンブリッジ・オックスフォードで学ぶ海外からの学生は、将来の国家元首かもしれない。だから、『タウニーではない(町の人ではない)学生には』、みんな、文の最後にSirをつけて、学生を紳士として扱ってきた。(女性もしかり)
今度の海外からの労働力確保のための法案にしても、ずいぶん、これは日本の評判を卑しめ、貶めるだろうなという気がしてならない。彼らは『利益のみを考えている連中よりは、意外と知的レヴェル上だったりする』と私は思いますね。1980年代末に、彼らはみんな、雄弁にその職場環境とシステムそのものに内在している偽善を告発して、熱く語っていましたから。
このあいだ事件になった語学学校の、KOROされた校長の話の映像を見て、私はどうかな?本当に慕われていたのかな?と思った。日本での我が身に置き換えてみたらよい。
日本人の若者が、安いブラック給金で働きに海外へ出て、一言教師が言うたびごとに机を定規でパシッと叩いて、
『ここは東京じゃないんだ(バシッ)、大阪でもないんだ(バシッ)。わかるか(バシッ。XXなんだ。だからXX語を話せ(バシッ)。OK?』
そんなことをやられて、学校へ語学を気持ちよく習いに来続ける人間がいるだろうか?私は、NAKUなられた方には悪いけれど、起こるべくして起きたことではないかな?と思った。あの叩く机の音のひとつづつにメラメラと目の中で燃え上がる怒りと反感があったのだろうな、と私なら考えますね。
私なら、『一言ごとにその机をひっぱたく音を、いますぐやめろ!俺たちは生徒で、おまえにムチで脅かされる家畜じゃない!』
と怒鳴っただろうと思う。