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Channel: 英国式自転車生活
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財布の貧乏、こころの貧乏

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人間を長いことやっていると、自分自身の貧乏もあったし、他人の貧乏を見る機会もけっこうあった。

たぶん、これからの若い世代は、我々の時代以上に深刻な貧乏を体験するのではないか?という気がする。

私の青春時代、本を古本屋へ持って行くと、最悪でも3分の1ぐらいの価格で引き取ってもらえた。モノによっては60%ぐらいの価格で買い取ってくれたものだ。

いまは、なんでも本一冊100円とか、CD一枚10円とか、まあ、ひどい買い取り価格だ。

いまの大学の授業料がバカ高くなっている話はちょっと前に書きましたが、昔、私の時代にはアルバイトをして学費を捻出しているのがいた。今の学費はアルバイトで捻出できないくらい高いところがけっこうあるようだ。

我々の世代、授業料はなんとか自分で捻出して、払ったあとは無一文。何とか生き延びるために、古本屋,古レコード屋、中古カメラ屋へものを売りに行って、『親の合力をいさぎよしとしない』ものがけっこういた。

今では、難しいでしょう。さっき、NHKを見ていたら、モンカショーのお役人様が医大の親玉と話しているところをこっそり録音した取材テープが流れていた。そこで2人の間で使われていた用語が『予約入学』。

いや~、くだらない世の中になったものです。

欧米諸国では、不正や日本でいうところのカンニングが発覚した場合、その人は一生、学術的な世界に戻ることはできない。ランス・アームストロングのドーピング発覚の記録剥奪、競技分野からの追放と同様、そういう人物が『不正やごまかしの上に何か学術発表して、それを基礎にすえて、多くの研究者が、莫大な時間と研究費をついやして無駄な努力をさせられるかもしれない。それは人類の文明の発展のために有害である。ということから、そういう人は追放される。

日本はどうもそうではないらしい。


今回のお役人様の子息の『下駄ばき入学試験』の問題もそういうところの意識がないのだろう。


こういうのは、また連鎖を生む。貧しさの連鎖。これは『肩書ハンター』から『肩書だのみ』の貧しさ、あるいは『肩書のデフレ』。そこへ加えて『実際の現金欠乏の貧しさ』。


ある方が、自分の持っている自転車から部品を別のフレームに移植したいということを言ってこられた。それで、うちの工具を貸してくれというのですが、これはいかなる分野でも、ヨーロッパでは自分の道具は金を払うと言われても貸しません。

こころみに、イタリアでもフランスでも、英国でも、ドライバーを貸してくれと言ってみるとよい。決して貸してくれません。

道具というのは、そのくらいのものです。

日本のどこかの絵画院とか、書道院とかで、メンバーの間で筆や硯や墨の貸し借りをするのか?そんなことを言ったり、訊いたりしたら『常識のない人』だと思われるだろう。

あるいは、ヴァイオリニストに『貴方のグアリネリウスを1週間かしてください』と言って、その人が素人で、それでも貸す人いたらお目にかかりたい。


お寺に行って、『うちで自分でお経をあげたいので、独鈷とおりんを貸してくれ』と言って貸してくれるだろうか?

数珠の貸し借りですら、本来タブーだ。


『ではやってください。1万円ならお支払いします。』と。しかし、その自転車は長年、まともに整備されたことがなく、乗られていなかった。つまり、分解掃除、回転部品洗浄、グリスアップからやることになる。それはこの残暑続く35℃超えの中、2日以上かかる作業になるはずで、実労働時間18時間ほどの作業になる。組み上げた後に調子も見てくれというわけですから。そうすると、それに対して『1万円』というのは時給550円ほどなわけで、それって、『最低賃金法違反』でしょう。その方にとって、自転車とはそのくらいのもの。大先生のお仕事からしたら、『自転車ごときは、その程度のもの』であることが、職人側からは透けて見える。

そういう意識は、多分、本人にはない。

私などは、そういう人には、どういう処置をするか?『ああ、ふところ具合も厳しいご時世でございましょう。たいへんな権威のところの大先生ですから。無料でやらせていただきます』とお答えするつもりだ(爆)。


なんでも、たいそうな名門の団体の重鎮らしいが、『何のネームヴァリューもありません』と、このところの懐具合を嘆いていた。

それは、しかし、私からすると国立一期校(今や死語か?)を出たから高給が約束されていると信じ込むようなものではないのか?知らず知らずのうちに『肩書にすがっている』。自分とはずいぶん世界が違うな、と考えざるを得ない。好きなことを一途にやる、ということは貧乏をしてでも好きなことをやる、ということの覚悟あってのはずだ。

私のヨーロッパの友人が、私がかつてプレゼントした自転車をこちらへ送り返したと言ってきた。最近腰を痛めて乗れなくなったので、乗らないままでは自転車に申し訳がない。アップハンドルにするとのこと。『ああ、それじゃ、差し替えよう』と替わりのものを送ることにした。

その友人はバルセロナからパンプローナまでクルマで送ってもらって、ツール5勝のミゲール・インデュラインの生家とファンクラブを訪ねた。その時の恩義がある。そのことがなければ、フランシスコ・ザビエルの育った修道院を訪ねることもなかっただろう。

そういう人には、ただで一台渡しても良い。職人の頭の構造とはそういうものだ。


その友人、ベルナール・イノーの関係のショップの人に手伝ってもらって、自分ですべて分解して磨いて、梱包して、発送したとのこと。自転車のことはまったくの素人。機械いじりとかをする人ではない。ピアノの鍵盤より重いものは指で扱ったことがないくらい。その人がすべての部品を外し、磨いて梱包して送り返してきた。

そういう人だから、ますますタダで一台わたしてもよいと思える。

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