自転車趣味も、骨董品も、建築も、家具も、絵画も、漆芸も、テキスタイルも、刀剣も、あるいは古書籍にいたるまで、
『最後の決め手は質感』であると思っている。
小学生の頃、ミノムシを集めていた(笑)。あの木の小枝をくっつけた、茅葺屋根のようなところが面白い。大人たちは「動かないし、変わったものを集める趣味があったもんだ」と理解者は少なかった。
鳥の巣の空になったものがたまに台風の後などに落ちていたが、あれにも見とれた。
そのあとは、縄文土器が面白くてしかたがなかった。親戚のうちの畑からザクザク出て来ていたので、よく見せてもらいに行っていた。あとは『かご』とツィード。ヨーロッパに行くと、各地でバスケットを買いまくっていた。
ツィードは中学生の頃から欲しくて仕方がなかった。これも古い物をカムデンなどで買い集めた。
高校の時、戦前の第一書房から出た限定350部の本を買ったのだが、その紙がスランスの水彩画紙,アルシュの荒目のもののようで、何ともよかった。
茶室の壁も質感勝負だし、日本の茅葺や、英国のサッチト・ルーフも質感の勝負だ。
伊蘭では、ずいぶん絨毯を見て歩いた。あれも質感のもの。
絵に関しては、キャンバスや紙の上に、絵の具がどういう質感でついているか?どういう質感でのびているか?それがない絵はまったくいけない。ゴッホは毛糸の半端糸を色とりどりに集めて、小箱に貯め込んでいた。それは、彼の絵の筆跡同様美しかった。
これは書における紙と、その上へ残る墨の質感がいかに重要かは言うまでもない。
ピカソはピエル・ボナールやルドンの油絵を見ると、その絵の具の画肌が、精神不安定になるくらい嫌で我慢できないと語っている。たしか『彼らの優柔不断がマチエールにああわれている』とか言っていた。
うちのブログをたまに見にいらっしゃる『浄法寺塗』さんが、秀衡椀のことを調べておられたので、ちょっと書き込みをした。私も古い漆のものが大好きで、うちのオークのリフェクトリー・テーブルの上に、桃山時代の漆のものなど置きたいと思って、ずいぶん見て歩いていた時期があった。骨董仲間が数百年物の、朱色がかなり枯れた色になったものを持っていて、よく見せてもらいに行っていた。
『良い味だな~~』と思うものは、足の裏から魂が抜けて行くほどいい値段がする(笑)。
そういう器が手に入ったら、布はこう言うのが欲しい、とか30代、40代の頃はさかんに妄想していた。いまは、歳も歳なので、あまりそういう執着はない。
ただ、古い自転車をやっていると、『鉄味』のじつにいいものがある。100年、120年かかって何とも言えない古色が付く。
こうした古い物を、汚く見せずに生かすというのは、使い方、センスの問題だと思う。
そのすごく古い物が、モダンに見えると言うことが理解されない。いつもそうしたものが、剥離され、再塗装され、あるいは再メッキされたりしてだいなしにされているのに、心を痛めているのは、そういう人たちは『自転車だけやっていて、絵画や書、漆芸、骨董、陶磁器に趣味がないからではないかな?』と、最近は思うようになった。
パソコンのファイルを見ていたら、ツール・ド・フランス幕開け時代のレーサーのフレームの細部写真が出てきた。なぜ、これをまず、こびりついた汚れを落とし、ワックスで磨かず、段ボール箱がとどくやいなや開けて、いきなり紙やすりで塗装を全部落としたのかわからない。いまだに残念でならない。