『しんよりいでくる』とは世阿弥の言った『『心よりいでくる』という音をとった文ですが、心は芯に通じる。
これはさまざまな分野に言えることですが、絵画でも書でも踊りでも、年齢がゆくにつれ、身体的な衰えが出てくると同時に、ますます『眼』は冴えて来る。身体と相談しながら、切りつめに切り詰め、無駄を省き、最後の最後に本質だけに削り込まれたものが残る。
『芯だけ』、あるいは『本質の白骨』がほのみえるような凄みを漂わせたもの。
私は踊りの世界では、最後は椅子に座って踊っていた人を知っている。絵の世界でもじつに枯れた、すべての技術や手先の器用さが蒸発したような、それでいてどうやって出来上がったかまったくわからないような、飽きの来ない深みをたたえた絵がある。
もちろん、手も自由に動かない。それでも最も深いものが、器用な若い手よりつかめる。
ルノアールの晩年は、筆を握ることも出来ず、手の甲に筆を縛り付けて描いていた。それでもあきのこない深い絵を描いている。書でも白隠の晩年の書などはうまさなどとは『次元が違うところ』にいる。
そういうものに対して、『下手だ』とか言う人がいる。下手の対になる語は『上手』だろうが、『何のために書くのか?描くのか?』ということと上手い下手は関係がない。
『下手であっても、じぶんの気持ちがよく定着できた』と思う時がある。そこが肝心なのだから、『いくら上手であっても感じたものが定着できなかったものはゴミ』なのだ。
世阿弥の能にはそういう世界が語られている。画家の世界で、『エカキ』というのは、一切の権威も肩書も名声も離れて、純粋に自分が描きたいと思うがままに描き、人が何と評価しようと、売れなかろうが、貧乏のどん底であろうが、気にしない人たちのことだ。『生活のために売り絵を描くひとは、硬派からはエカキと呼ばれない』。
私の知っている人で、描いた絵を一切売らず、欲しい人にはただで進呈し、生活費はこどもに絵を教え、腹が減ると自分の座っているところのまわりの雑草をちぎって食べている人がいた。
21世紀の現代ではとうていそういう人は生き延びられないだろう。
それでは、『自転車に乗る』ことは、その考えでゆけばどうなるのか?もはや速く走ることも出来ず、登坂で息もきれ、ものすごく遠くへ行くこともままならず。それをどんどん最新機材へ乗り換えて行き、最後は電動自転車になるのだろうか?それだと、捨てて、捨てて、そぎ落として本質だけになろうとするのと真逆だろう。歳とともにどんどん複雑になる。
それは『どのくらいの時間でどこの山を登った』とか『AからBまで何時間で行った』などというのは、生まれつきの肉体的資質もあるし、歳とともにどんどんタイムはダメになって来る。
ある年齢に到達したら、『他の人には真似のできない自分だけの時間、他の人とはまったく違う自分の人生時間を豊かに過ごすやりかた』に集中するべきだろう。
私は歳をとったら、変速器すらない車両で、どこでも登れるぐらいのギア比で、歩くのよりは楽、というぐらいで良いかもしれないとこのごろは考える。
シンプルでよくできたものほど、自転車の原初的な喜びは深く味わえる。
円ははじめもなければ終わりも無い。自由にまわる。そこで回転を止めずに回ることですべてが可能になる。如意輪観音さんに輪がいつもあるのはそういう意味だろう。まわることではじめがなく、おわりもない。そこに一切が如意の如くなる自由がある。
歳をとったら、『必ずどこそこへ行って、何を見て、何を食べて、』という目標がなくてよい。その乗っている時間が、自分の人生時間でかけがえのない、永遠とつながる今であればいい。
エカキには「絵に残そうという欲望すら捨てる境地がある」。描かれなかったもの以外、描かれたものはすべて失敗。眼とこころのなかで創っては壊し、そのプロセスそのものに遊ぶ。
それを自転車旅行の世界でするには、自転車のことだけやっていてもはじまらない。
これはさまざまな分野に言えることですが、絵画でも書でも踊りでも、年齢がゆくにつれ、身体的な衰えが出てくると同時に、ますます『眼』は冴えて来る。身体と相談しながら、切りつめに切り詰め、無駄を省き、最後の最後に本質だけに削り込まれたものが残る。
『芯だけ』、あるいは『本質の白骨』がほのみえるような凄みを漂わせたもの。
私は踊りの世界では、最後は椅子に座って踊っていた人を知っている。絵の世界でもじつに枯れた、すべての技術や手先の器用さが蒸発したような、それでいてどうやって出来上がったかまったくわからないような、飽きの来ない深みをたたえた絵がある。
もちろん、手も自由に動かない。それでも最も深いものが、器用な若い手よりつかめる。
ルノアールの晩年は、筆を握ることも出来ず、手の甲に筆を縛り付けて描いていた。それでもあきのこない深い絵を描いている。書でも白隠の晩年の書などはうまさなどとは『次元が違うところ』にいる。
そういうものに対して、『下手だ』とか言う人がいる。下手の対になる語は『上手』だろうが、『何のために書くのか?描くのか?』ということと上手い下手は関係がない。
『下手であっても、じぶんの気持ちがよく定着できた』と思う時がある。そこが肝心なのだから、『いくら上手であっても感じたものが定着できなかったものはゴミ』なのだ。
世阿弥の能にはそういう世界が語られている。画家の世界で、『エカキ』というのは、一切の権威も肩書も名声も離れて、純粋に自分が描きたいと思うがままに描き、人が何と評価しようと、売れなかろうが、貧乏のどん底であろうが、気にしない人たちのことだ。『生活のために売り絵を描くひとは、硬派からはエカキと呼ばれない』。
私の知っている人で、描いた絵を一切売らず、欲しい人にはただで進呈し、生活費はこどもに絵を教え、腹が減ると自分の座っているところのまわりの雑草をちぎって食べている人がいた。
21世紀の現代ではとうていそういう人は生き延びられないだろう。
それでは、『自転車に乗る』ことは、その考えでゆけばどうなるのか?もはや速く走ることも出来ず、登坂で息もきれ、ものすごく遠くへ行くこともままならず。それをどんどん最新機材へ乗り換えて行き、最後は電動自転車になるのだろうか?それだと、捨てて、捨てて、そぎ落として本質だけになろうとするのと真逆だろう。歳とともにどんどん複雑になる。
それは『どのくらいの時間でどこの山を登った』とか『AからBまで何時間で行った』などというのは、生まれつきの肉体的資質もあるし、歳とともにどんどんタイムはダメになって来る。
ある年齢に到達したら、『他の人には真似のできない自分だけの時間、他の人とはまったく違う自分の人生時間を豊かに過ごすやりかた』に集中するべきだろう。
私は歳をとったら、変速器すらない車両で、どこでも登れるぐらいのギア比で、歩くのよりは楽、というぐらいで良いかもしれないとこのごろは考える。
シンプルでよくできたものほど、自転車の原初的な喜びは深く味わえる。
円ははじめもなければ終わりも無い。自由にまわる。そこで回転を止めずに回ることですべてが可能になる。如意輪観音さんに輪がいつもあるのはそういう意味だろう。まわることではじめがなく、おわりもない。そこに一切が如意の如くなる自由がある。
歳をとったら、『必ずどこそこへ行って、何を見て、何を食べて、』という目標がなくてよい。その乗っている時間が、自分の人生時間でかけがえのない、永遠とつながる今であればいい。
エカキには「絵に残そうという欲望すら捨てる境地がある」。描かれなかったもの以外、描かれたものはすべて失敗。眼とこころのなかで創っては壊し、そのプロセスそのものに遊ぶ。
それを自転車旅行の世界でするには、自転車のことだけやっていてもはじまらない。