このところ、きわめて強く感じるのは『ブログ病』とでもいうべきこころの病。Youtubeのほうでもカウンターを稼ぎたいがために、問題のあることをアップしたり、サムネイルやタイトルで引っ掛けたり、動物を虐待したりと、かなり多くの問題がある。
これはブログのほうでもそうで、正攻法で自分のちからで開拓している人と、そうでないまた聞き『拡散屋』がいる。
私は雑誌の頼まれ仕事が多かったので、『これは不特定多数の人に知らせてしまっても良いことなのかな?』と一応考える習慣がある。
実際の話、私はレストランや私の行きつけの店の名前は詳細に書いたことがない。知られて金が儲かってよいことだと考える店主ばかりではない。『これは自分の店の客ではない』という客に来てもらっては困る店主もいる。Jの故神谷さんなどはそうだった。『雰囲気を壊す客には来て欲しくない』とはっきり言っていた。『キャラメル・フラペチーノはないんですか?』という客が、私がいるときに、たまたまいた。神谷さんは苦笑いをして『そういうものがあるところが通のための店で、それがメニューにないところはたいしたことがないとは限らないんだ。珈琲が苦いだけでまずいから、ミルクを入れたりキャラメルを入れたりして、甘くしないと飲めないからそうやっている場合もある。うちはよそに絶対ないような珍しいJAZZのレコードがある。そういうのをしっとり聴いて、その音楽に合うような珈琲を出そうとして、このメニューになっているんだから、そこは尊重してほしい。うちのこのメニューの中から選んで試してみたらどうですか?』
ズバッと言っていた。これは、たくさん客を呼んで儲けようというモーチベーションではない。一方は、もっと金を儲けたいから全世界にネットワークを作り、喫茶店の元祖のあるウィーンにまで出店するところもある。『他人の経済領土を取りに行く』行動だろう。
さて、ブログにさまざまなことをアップするのも、プラス面もマイナス面もある。まずは、その人の行動パターンが筒抜けになる。私は正直、自分が休まる場所に、自分のブログの読者がいたら鬱陶しいと思う。
これは自転車でゆく場所に関してもそうです。誰にも会わない良い場所があって、誰も知らない場所があったとする。しかも、そこの地主が『ワラワラやってくる人たちが畑に入ったり、農道にはいったりしやしないかと、気が気ではない』場合がけっこうある。
『ここは良い場所だ。人も滅多にいない』とブログに場所付きでアップされると、農作物を盗みに来る奴がいる。うちの近所でもそういうところがある。スクーターやクルマで来て野菜やタケノコを盗んでゆくのがいるということだ。
地主に『あなた一人ぐらいが自転車で散歩している分にはかまわないが、ここは軽自動車で畑まで行く道でもあるので、たくさんの自転車乗りが大挙してやってこられたら、こちらも事故の不安もある。場所はどこだか書かないで欲しい』と言われた。私はその約束を守り、そこがどこであるか一切ブログでは書ないわけだかが、そこへ一度連れて行った人がGPSの位置情報を携帯でチェックして、あたかも彼が自転車の上で思索瞑想しながら発見したかのように場所情報入りで、SNSで公開した人がいる。また、そのSNSで見た人が、あたかも自分が発見したかのように一般向けのブログで場所の情報付きでアップしたりする。
昔、NCで『車走派風』というシリーズがあって、その方が、「甲府盆地」とか漠然と言うだけで、どこかは一切書かなかったのを読んで、『ああ、この人はヴェテランだ。昔ながらの暗黙のルールをよくわかっている』と感心した。そもそも撮影者の名前も書いてなかった。そういう人は『本物』なのだ。
自動車の写真をアップするときは、ナンバープレートを見せないのがエチケットなのではないか?なぜレストランや無防備な畑はOKなのか?
多くの他人の迷惑もかえりみず、レストランを実名で書いて、そこの料理をあれこれ言ったり、それはその店の人の生活も、その店主のこども達の生活も、すべてかかっていることを危うくしている。あるいは、その店主はまだ開店資金のローンを返しているさなかかもしれない。誰かの一家の生活基盤すべてを危うくするかもしれない。
しかし、『ブログ病の患者たちはおかまいなし』。ひっそりと佇んでいる自然豊かな道が、『ブログでみました』とハイカーや自転車乗りの行列になってしまいかねない。そんなことも気にしないのだろう。野菜を踏み荒らされたり、盗まれたり、種をまいたばかりの畝を踏んづけられたりしたら死活問題なのだ。
私は店の実名の入っているランク付けブログや、詳細な場所・位置情報が入りの『ここへ行ってきました』というツーリング記事を不特定多数の人間に公開するのをみると、どうにも我慢が出来ないくらい不愉快になる。
そういう記事を見せられれば見せられるほど、『映画のプロットをネタバレされたようで、あとから行く人の感動をそぐのだ』。そういう記事を書く人は、結局、自分が「はしごを登りたい」のだろうなと思う。