中学生の頃、京都を一人でフラフラ歩いていた時(親戚を訪ねた)、京都には『何の店かわからないところがけっこうあった』。普通の家の板塀に60cmぐらいの窓があって、何やら並べてあった。看板も何も出ていない。たぶんわかる人、わかっている人しか中に入らないのだろうと思った。最近はみかけない。
なんというのか、『謎をかけている』というのか『判じ物』というべきか。タクシーの運転手さんに訊いたら『声なくして人を呼ぶ』というのが京都のやり方だ、と言われてうなった。
これは英国とよく似ている。たとえば、TCR-1やウィンドチータ、ロータスのバイクをやったマイク・バロウズに会おうと思っても、店はないし、どこで会えるのかわからないだろう。私は偶然何回か出くわして言葉を交わし、のちに彼のいる場所がわかった。
たいへんな場所です。シティセンターからクルマを飛ばして40分ぐらい。公共交通手段は一切ない。
『住所はここです』とタクシーの運転手に言われて降ろされたところは、工業団地の中。看板もなく、どこに何があるのかさっぱりわからなかった。
レーシングカーのスポイラーのようなものを作っている人がいたので、『この辺で自転車を作っている人を知らないか?』と訊いてみたら、『いや、わからないな。みんなこの中で何をやっているのか、お互いまったくわからないからな~。』
『訊くなら乗り物系の人間だろう』と思って、試行錯誤5~6回。なにやらスペースフレームのようなものを溶接している人に訊いたら、やっとわかった。
そこは哲学的な空間でした。彼の最新の自転車とともに、彼が愛用しているWW2の前の重量運搬車が置いてあり、天井からは1930年代のレコード・エースがぶら下がっていた。
工作機械は戦前のミルウォーキーなどがずらりと並んでいて、日本で仁さんに写真を見せたら『オレもこういうのが欲しい』と言っていた(笑)。『そりゃ~、なんたって、日本だってアメリカ製の工作機械使って戦闘機作ってたんだからね。推して知るべしだよ。こーゆーのは一生もんだよ。』
区切られた事務所には、彼が描いた水彩画と娘さん(奥さんだったか??)の描いた水彩画が飾られていた。どちらもノーフォークブロードの風景画やFEN(沼沢地)を鳥が飛んでいる絵だった。
マイクは気前よく、カーボンファイバーモノコックのフレームや、その制作に必要な型や気泡を抜くための道具、冶具などすべて見せてくれた。
それは、見せてくれるまでに信頼されるまでがたいへんな話。私はアレックスにも彼が振動減衰性などを考えるのに使っていた方程式などを黒板によく書いていたのを写真に撮らせてもらった。どこかにあるはずだ。
まず、そういうところへは、職人も芸術家も人を入れない。『Mind your own business』と言って終了。
とても『乗ってみてもいいか?』などとは訊けない。ウィンド・チータにしても、マイクに頼んでボブ・ディクソンのところではじめて乗ることが出来た。英国を反対側まで横切っての話だ。
『試乗』というのは、日本でも1960~1970年代には高級自転車には普通ではなかった。一般の自転車店でもハタキを毎朝かけてホコリを払い、クロームメッキの部分をセーム革で拭いて指紋などを落とし、ピカピカに磨いて展示してあったのを思い出す。そういうものを試し乗りさせたら中古車になりますから。また、高価だったので『試し乗り用の車両を準備できる店など無かった』。大量生産車で大卒の一か月の給料以上だった。
1960年代、山王スポーツにモンテローザとかエミネンザとか、ジタン、プジョー、アンドレ・ベルタンとかを見に行ったが、試乗などというのは思いもよらなかった。荻窪の太宰さんのパターソンズ・ハウスには3台ぐらいぶら下がっていたが、『28本スポークの、室内競技用のチェコのチューブラータイヤをはかせた、8.7kgの蘭ドナー』とか書いてあって、とても『試乗させてください』とか切り出して言えませんでしたね(笑)。
ゼファーなどはもっと難しかった(爆)。店内にはシャンソンが流れ、パリの地図が描かれた変速器の箱が100個ぐらい並んでいて、ゼファールやラピーズの色とりどりのポンプが50本ぐらい並び、クラウン・プリンス、クラウン・プリンセスに献上された自転車に関する新聞記事が額に入れて飾ってあった。
とても、試乗車は?と切り出せる状況ではない。それは『エルメスやヴィトンへ行って、ちょっと表の光で30分ばかり見ても良いですか?』と訊くようなものだ。
仁さんのところは、馬事公苑の裏の方でやっていて、『しもたや風というか、手製の冶具がたくさんあり、馬の蹄鉄を直す鍛冶屋の風情があった』(爆)。天井にはたらいとか金物がぶら下がっていて、彼はしばしば下駄であらわれた。その話を後年したら『イ~~~ッヒッヒ。うるせぇ。野鍛冶と一緒にすんな。名人ってのはそういうもんなんだ。洒落た前掛けして軍手をして作業しているような奴に名人なんかいやしねぇよ。』(彼は『指先の微妙な感覚を損なう』と軍手で作業する人を一切認めていなかった)と言っていた。
その彼のところにも試乗車などはなかった。みんな、それに乗っている人がどういう人かと、乗っている人がどういう判定を下しているか?だけで選んでいた。そもそも、ハンドビルトの車両で試乗車は不可能だろう。1台づつすべて違うんだから。大量生産ならば、1個目と2個目は同じと考えて良い。ハンドビルトでは1台づつすべて違う。
TOエイさんのところだって、試乗させてから『ああ、これは気に入った注文しましょう』なんてことはやったのを聞いたことがない。試乗というのは『買ってくださいという大量生産メーカーの営業活動だろう』。職人がすることではない。
刀匠のところへ行って、『試し切りさせてください、気に入ったら発注します』と言ったら、『貴方には私の刀はもたせない』と言われるだろう。どんなに素晴らしい刀でも下手な人間か扱えば、刀は折れたり曲がったりする。その点で、刀匠は買いに来た人より評価で立つ場所が上なのだ。古来『城一つか?刀一振りか?どちらが欲しいか?』と言われた。
これはヨーロッパでも同じで、イタリアの超高級自動車の中には、発注する時、客のためのイスがなく、客はひざまづいて注文書にサインする。
仁さんはチェンステーにサインを入れたが、他のビルダーでそういうことをした人はいない。『刀匠かい?』と訊いたら、やはり意識したと言っていた。太宰さんもヘッドマークは剣だった。
私のところで今週上がった28号のフレームは595mm、610mm、625mm、のシート・サイズだ。172cmの身長の人でも乗れない。いま、まだ組み上げていないフレームには465mmのフレームサイズの28号もある。こうした車両はすべて、本来1台だけのもの、試乗してから決めるものではない。また、そうした対応をするところでは、広報車両を作ることすら無意味だ。何台用意するのか?465mm、480mm、505mm、525mm、540mm、560mm、575mm、585mm、600mm、625mm ? 10台試乗車を用意して数百万円。それを15畳の場所を借りて、毎月倉庫代に家賃をいくら払うのか??サイズの区分けを半分にして、バルケッタと28号にしても総台数は同じだ。
『自転車は刀と同じ、、』そうした伝統もこの先5年ぐらいで、ほぼ完全に消滅するように思う。