グローバル経済というのは、私は巧妙に出来た新形態の奴隷制度だと思っています。不思議なことに日本では『グローバル化』というのがポジティヴで素晴らしいことのように語られているのが不思議でならない。この違和感は20年ほど私は感じている。
昔、出張先の国で、かつては王女の宮殿だったところの庭園でチャイを飲んで5円ぐらいでした。ステーキからスパイスの利いたライスから、豆のスープ、山盛りのサラダと果物、アイスクリーム、それで230円ぐらい。
グローバリゼーションというのは、そういうコストの国と、すべての生活費が高い先進国の労働者が『コスト競争をさせられる』ということ。いまは、自転車、繊維から、100円ショップで売られている日用品、さらに家電に移ってきて、『あの会社が?』というような日本の巨大企業が海外資本になった。
グローバル化が進むと、これはやがては自動車産業もそうなると私は考えている。現時点でカメラのレンズは良い硅石などの材料がとれる隣国で作られている。日本のレンズ産業は風前の灯火。携帯電話も国産はほぼないと聞いた。
それは一度なくなってしまったり、生産拠点を移転させられたら、絶対に復興は不可能だろう。
4年ほど前、自転車のハブを作ってもらえないか、ある会社に訊いたことがある。不可能だとのことでした。それは日本国内に自転車のハブのような大きいものを一体で鍛造できる企業が一社も残っていないからだ、と説明された。隣国に頭を下げてお願いするほかない。
製造方法を全部を教えて、ノウハウを流出させたあげくがそういう状況だ。
家電メーカーなどは社員食堂だけで数千人規模のものがあったはずだが、それだけの人数を日々養ってゆくというのは生易しい話ではない。逆に言うと、巨大なところほど、ポッキリ簡単に折れる。自らの重さに耐えきれない。
インターネット上の記事で、日本の某メーカーが、フランスのメーカーに完全に飲み込まれるかもしれないということがでていた。それはフランスの親会社が国営で、そこの大統領はもと大財閥の銀行員でしたから、そういう風に動いて何ら不思議はない。日本の名前を付けたそのメーカーがフランスの会社になるというのは、なんとも象徴的な話だ。もし、そうなったら、明治時代からの彼らの日本コントロールの野望がついに実を結ぶことになる。また、それはフランスがドイツに対して自分の自主性のカードをキープするために、どうしても手に入れたいのだろう。
ラレーという、かつて世界最大の英国の自転車メーカーが今は見る影もなく、英国には一切工場がない。それどころか、今はオランダに買い取られている。何を買い取ったかというと、商標権を持っているので、その名前の権利を使わせることで得られる収益があるので会社がオランダに買い取られた。
ラレーの名前だけでなく、世界最古のセィフティー自転車のブランドであるラッジ・ウィットワースも、あまたの長距離レースにその名を残したハーキュレスも、サンビームも、すべてオランダに移ったことになる。
100年間、ノッティンガムでみんなが働いて、レジナルド・ハリスなどが世界選手権で優勝して作り上げた名声が、わずか10年、20年で、縁もゆかりもないところへ売られてしまう。
同じ時、やはり英国のサドル・メーカーのブランドは、イタリアの革サドルをそれまで作ったことがなかったメーカーに、売却された。何世代にもわたってその国で培われた、いわば100年単位の努力の蓄積が、そっくり横取りされたと、私には見えて仕方がない。
アレックスは最後まで、彼の関わった自動車のブランドがドイツの手に渡ることが我慢ならなかった。
『あれは、ビートルズやミニ・スカートがドイツ人が作ったものでないように、あの車は英国の60年代のカルチャーそのものなのだ。』
アレックスはよくそう言っていた。
日本には、創業100年を超える老舗がものすごくたくさん残っている世界でもまれな国だ。それにみんなが目を付けている。円が安くなれば巨大な企業は輸出で増えて儲かるので喜ぶ。一方で日本の老舗や水源地を買おうと虎視眈々と狙っている海外勢力には、安く買えるので円安は願ったりかなったりだ。
ある種の人たちは、これから、そうした世界的な再編成の下で、『決してコントロールする側にまわれない永代経済奴隷』となる時代が来るように思えてならない。日本の若い人たちは、しっかり考えて100年、200年先のヴイジョンをしっかり持ったほうが良い。