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Channel: 英国式自転車生活
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不幸への進歩

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日曜日の午後、お札を納めにお寺へ行ったときですが、午後4時半には店を片付けていた。5時には早いところはすべて閉まっている。同じような光景は四国の門前町でも見た。

12月の冬至の時のお寺の行事で、うどんが出たことはこのブログにも書きましたが、その時『このような夜遅くまで、、』と管主様のご挨拶があったのが印象的だった。『6時半で夜遅いんだ~』と感無量(笑)。

それと合わせて考えると、4時半から5時に店を閉め、夕食の支度をして、7時には家族そろって食事、しばらくの団欒のあと9時前にはみんな寝ている、そういうのが昔のリズムだったのだろう。これは世界各地でそうだったのではないか?英国の店は1980年代頭まで午後5時でどこも閉まった。パブは10時に『予告』をされて、10時半にはみんな追い出された。それがいつしか11時になったのは『20世紀も終わろうというころ』(笑)。

これは『イタチごっこ』なのだと思う。11時に閉まるということは、その店で働いている人が仕事から解放されるのは12時ごろ。そうすると、それに合わせて彼らが買い物をする店とか、使用する交通機関の人たちもさらに遅くまで働かくことになる。

こうした便利さは他人の不幸な長時間労働の上に築かれている。解決策は、みんなあまり長時間働かなくすればいい(笑)。これは哲学者バートランド・ラッセルが言っていることだ。みんなで組織的に労働時間を短くして、増えた個人の自由時間を人々の知的・精神的レベルを上げることに使い、社会全体の文化度をあげることに使う、という案だった。

実は、私はこの間の日曜日に、土鈴のお土産を見て、かつての昭和30年代の光景を思い出した。

たまの日曜日に家族で名所・古刹などへ出かけ、食事を一緒にして、楽焼などを作る。友人には絵葉書で一筆啓上。そこにはのんびりとした『非日常』があった。そこへ行った記念に何か、小さいお土産を一つ買う。それは人形ケースなどに入れられて、ひとつ、またひとつと溜まってゆくのだが、たいして価値のあるものではない。

極端に言ってしまえば、『なんでもいいのだ』。それは家族と過ごした時間、あるいは友人と過ごした時間の記憶の証拠だから。

よく古道具屋とかリサイクル屋に貝殻で作ったような手のひらほどの置物がたくさんあるのを見かける。こどもたちが大きくなり、巣立って行き、親や祖父母はいなくなって、そういう店にみんな一山持って行く。民芸的な値打ちのある物は救われるが、多くのものは捨てられてかえりみられない。

それは「幸福が月だとしたら、そういうものは月を指さしている指」なわけだ。そこには何もない。

これが興味深いところで、いつしか、その意味が入れ替わる。『幸福な時を過ごすより、値打ちのある置物を集めることが重要だと思う人が出てくる』。そういう人には『月は見えていない』。

ほとんどの経済的・社会的成功だとか、『物集め大臣』に私が興味がないのは、その退屈さによる。

たぶん、1983年ぐらいから、急速に『月を見るより、自分の手に握っているものを見る人が増えた』という印象だ。私は逆に物はどうでもいい。これは『写真』を突き詰めて行くと、ほんとうに素晴らしい瞬間にはカメラなどかまえたくないという心理と同じことだろう。

はたして、経済規模が地球規模に巨大化して、人が昔より幸せになったのかどうかは大いに疑問だ。

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