長年、自分はただ一つのことを気にしてきたと思う。それは自由でいること。もうこれは幼稚園の時からで、私は幼稚園は半年行かなかった。中退(笑)。
この傾向は英国へ行ってますます強くなった。むこうで仲がよくなった人はほとんどみんな自由人でしたから。
俳優だったり、音楽家だったり、画家だったり、骨董屋だったり、古本屋だったり、職人だったり。
これは定義が難しいのですが、こうした職業の人たちでも、組織の中で『上昇・出世』を考えて、ノルマと義務感に追われている人は自由人ではない。
出家したように、そうした世俗的なことをすべて捨てて、自分の好きな仕事に没頭している人が清々しい。実態はその日暮らしでも、何とも言えない落ち着きと、満ち足りた感じが漂っている。
これは、『芸術的な分野での宗教生活に近い』。
西洋的に言えば『明日のことを思い煩うな』。野の花を見て、ソロモン王ですらこれほど美しく着飾っていなかった、と考える。東洋的に言えば『相好をもって輝かしく着飾る』ということになろう。
こういう世界に生きている人は、お互いに相手がすぐわかる。芸術関係者ばかりでなく、職人の中にもこうした人たちがいる。こういうサークルには組織人は決して最後の最後で喰い込めない。世界観が違うので、水と油のようで混じらない。
『良い学歴を持って良い学校を出て、良い会社に就職し、、』あるいは『英才教育を受けて、賞を総なめして、重鎮になり、やがては勲章でももらう』こういう人たちは、やはりベクトルが少々違う。
自由人はそんなことは別にどうでもいいと考える。作曲家のモーリス・ラヴェルがレジョンドヌール君集を辞退したと聞いて、エリック・サティは『重要なことは、そういうものをもらうような人間にならないことだ。彼の作品はレジョンドヌールをもらうに値するよ。』と言ったのはたぶん、本音だろう。
私は西暦2000年を超えた頃から、ますます世の中からそうした自由が蒸発しつつあるように見える。とくに日本では『非自由人』、あるいは『不自由人』がものすごく規則の締め付けをしてくる。
『禁止条項がめったやたらにたくさんあって、がんじがらめの社会は私はくだらない世界』だと考えている。日本は『なんでも、資格とか検定とか肩書を問題にしたがる』。
これは日常生活から最後の最後までつきまとっている。カードの色が何色だとか、そのもらえるグレードはほとんどの場合、給料によるわけだが、それを決めるのは第三者で、その持ち主ではない。最後のお名前『買いミョー』もそうだ。発掘された壺には最も近かった弟子の壺ですら『モッガラーナのほね』としか書いていなかったではないか。
なんとなく、組織や団体に飼われている人がいる。『伝統ではなく、因習を伝えるのにパワー全開の人もいる』。自由人はそういう人たちと本能的に距離を置く。
昔の商店街では、レジスターすら稀だった。ゴム紐を付けたザルにお金を入れて、お釣りもそこから出す。暗算でお釣りを計算するし,傷んだ野菜などは値引きをして、お得意にはオマケをして、こども連れのお客には、やはりこどもになにかあげ。つまり、コミュニケーションで頭を使い、人間関係は濃厚であった。
昔の商店主のなかには、気に入らない客を『お前なんかに売るものはない。とっととけぇれ!』などと言う人もいた。そういうことを言う自由も反逆も許された。
いまはそういうことはない。客と世間話をするスーパーのレジ打ちの人はいないし、暗算もする必要はない。おまけも値引きもしない。最近はセルフレジが増えて、品物をバーコードの読み取りにかざすだけで、お金を受け取ることもお釣りを渡すこともない。
客のかごに入れて持ってきたものを、バーコード・リーダーにかざし、ピッと音がすればよし、しなかったらもう一回かざすというのは、教えればチンパンジーでもやるだろう。これは、あらゆる職場がそれに近くなってきている。こういう社会はじつは『人間が幸福に働く』という観点からは、どんどん退歩しているのではないのか?
いまや、ネットでものを買うのにもカードが多用され、振込みやコンビニ決済が出来ない商品もけっこうあらわれてきた。しかし、そうした決済方法は、基本的に『他人から給料をもらう人たち、非自由人』のものだということは、意外に理解されていない。
私の知り合いの職人の中にも、珈琲の関係の職人であるとか、機械加工の人などで、カードが持てない自由業の人がけっこういる。芸術関係の人なども、『毎月、決まった日に振込みがなく、次の展覧会まで収入がない』という人はカードが持てなかったりする。舞台芸術の関係者も、『毎月必ず定期公演とかはあるはずがないので、どこかで教えていない限りは難しかったりする。
それは不便かもしれないが、その自由な感覚は何ものにも代えがたい。じつは、学校で勉強させられ、『レールの上を走らされるようにしつけられ』、意外に成人しても自由の味を知らない人が増えている気がする。