自転車というのは自動車よりはるかに道の制約を受けないと思う。これは『自転車は押せば徒歩だ』というところと大いに関係がある。
私のこども時代、『電池を持たない自動車のおもちゃを、ぐるぐるサーキットを走らせる』遊びがありましたが、あれは『ブラシ』を溝にはめこんで、そこから電気を受けてモーターが回って、定められたコースを走る仕組みだった。コースから出ることも、逆走することすら不可能。ただ、ただ同じところをぐるぐる回る。風景が変わるわけでもない。
2台ぐらい買って、カーブでひっくりかえらないように、釣りの鉛の錘を仕込んだりして、やっていましたが、ほどなく飽きてしまった。
最近の自動運転とか、自動で車間をとるとか、衝突しないとか、地面に埋め込まれたものから信号を受けて走るとか、最近の自動車は限りなく、あのおもちゃに近づいていると感じる。
それは遊園地のコーヒーカップの乗り物とかエレベーターに限りなく近い乗り物になっている。
自動車の場合『道は決まっている』。道筋もほぼ決まっているので、『いつも同じ道を通っている』。東京の神泉から浅草浅草寺まで自動車で何通りの道があるだろうか?あるいは京都の三十三間堂から上賀茂神社まで、自転車の方が比較にならないくらい多くのルートがある。
自動車も乗っている時は自分のクルマのボディシェイプは見えません。シートに座った『操作の面白さと快適さ』が重要なはずだが、最近のクルマは『家電を操作しウィンドシールドというテレビ画面を見ているようなつまらなさ』を感じる。世界的な若者の移動者離れは、そうした巨大な家電的な乗り物に極めて大きいパーセンテージの金額を収入から費やす人が激減しているということだろう。
自転車の場合も、乗っている時の爽快感が重要で、人に言えぬ乗りにくさをこらえて使うのは御免こうむりたい。ところが、自転車の場合、カッコよさを作るのも、乗り良さを作るのも、ほんとうは乗り手、持ち主なのです。
自転車のポジションは『眼鏡の検眼』のようなもので、ほんとうのところ、その当の本人にしかわからない。専門の人にやってもらえば、最高のポジションになるというほど単純なものではない。また、自転車の場合、ホイールなどでもブレてきたら調整の必要があり、エンジン付きほど乗りっぱなしにできない。タイヤの空気圧も、自動車よりもはるかにこまめに、本来は三~四日に一度チェックするのが本来だ。
そういう面があるために、自動車やバイクの世界などで『コレクター』としてトップをとった人が、自転車世界に来て、自転車趣味でトップに立ったことは、古来ほぼ皆無です。
我々は『三蔵法師』とよく言いますが、理論がよくわかって知識が広範で、良い自転車と資料を持ち、さらにそれを使って味のある世界を構築している自転車乗り、これを仲間内では『三蔵法師』という(笑)。
すごい自転車を数十台、あるいは100台ぐらい持っていても、それでどこへ行くというのでもなく、我々がみて『ああ!良いところへ行っている』という写真一枚無かったりする。家の周りとショップの往復。『一蔵』で終わり(爆)。
この間、仲間が関西から来た時に、冬から春の間にしか通れない鎌倉古道を一緒に走った。春を過ぎればもう通れなくなる。私もそう考えると、あと何回冬に走れるのか?と考えてしまう。そこで鎌倉時代に思いをはせ、その彼は『鎧甲冑を見て歩くのが趣味』なので、これは『自転車の先に、自転車で何をするか?』というところへ話が膨らんでゆく。
私は平家物語が好きで、また琵琶の音色が好き。その彼に『琵琶のおすすめ』を教えた。
Youtubeで、琵琶演奏『那須与一』~伝統音楽デジタルライブラリー で出ます。私は田原順子さんの演奏がもっともしっくりくる。
古道を通った昔の人のことを想いつつ、笹鳴りにタイムスリップして、頭の中には琵琶の音が鳴る。こういう旅は電気自動車には到底無理だろう。