昨晩、とぼとぼと親戚に会った帰り、食事場所を探す。表になかなか品の良い蕎麦猪口を並べている店があったので入った。
私はけっこう感心した。蕎麦もつゆもよい。天麩羅の揚げ具合もコロモも良い。唯一のマイナス点は御飯の炊き具合だが、まあ、そういう日もあるさ、と許せる。
近くだったら週に2~3回来ても良い。気取ったところがなく、駅の立ち食いソバ屋と100円~150円ぐらいしか違わない。それでいてワサビはチューブから出したものではない。ネギもよく切れている。
ネットで調べたら星を3つしか付けていない人もいる。『何が不満なのかな?』と少々理解に苦しむ。
最近どうもそういう人が、インターネットの影響で強まった気がする。
5~6百円の蕎麦、700円ぐらいの天丼を注文して、いったいどのくらいの『超絶贅沢品を期待しているのか?』
こうした『減点制度で成り立っているひとは気の毒だと思う』。その裏には、『最高のもの、少しでも人より良いものを持ったり、食べたり、飲んだりしていれば、人より幸福』という、『相対地獄』(爆)に落ちているように私には見える(笑)。
他人との比較によって、優越感を得て安心する、、というのは決してほんとうに幸福だとは言い難い。
絶対の物などありはしないし、濃い真っ黒の天麩羅がうまいと言っては喜び、あっさりサクッとした天麩羅がうまいと言っては満足し、多様性を楽しむ。懐が寒ければ、ちくわの揚げたのが入った立ち食いのかけソバでも、うまいところののはそこそこうまい。
私は人生、ずいぶん浮き沈みしたので、『底』でも満足を見つけられる。50円の古本の岩波の文庫本に100円のハンバーガー屋のコーヒーでも、そこには『安心満足は見つけようと思えばできる』。もし、そういう生活しかできない境遇になったら、不満に呻きながら日々を送るのだろうか?
2か月ほど前に、じつはそういう人がいた。骨董市で偶然再会したのだが、露店をみては『ああ、つまらない』と言い、喫茶店に行けば『ああ、まずい』とぼやき、駅前の手作り市をのぞけば『ろくなものじゃない』と言い。彼にとってはつまらない、最悪の日であったようだった。
すべてに順位を付けて、ただひとつのものしか認めないというのは、ある意味、ずいぶん不幸なことだ。