今年も一年の切り替わりの冬至が近づきました。今年はずいぶん多くを学んだ年になりましたが、食事に関して言えば、『ものを飲み込むこと』という、それまであまり意識もしなかったことの重要性を考えることになった。『嚥下』の問題。
実際に、母の緊急入院まで、『なぜ高齢者は肺炎でNAKUなる人が多いのか?』などは考えてみる機会もありませんでした。誤嚥によって気管のほうへ入ってしまったもので肺が炎症を起こして肺炎になる。熱が出たりすると、ますます意識がぼんやりして誤嚥のリスクが高まる、という悪循環になる。
炎症を止めるのに、薬を摂っていると、しだいにその抗生物質などがきかなくなって、最終的には肺炎でNAKUなる、、こういう流れらしい。
『飲み込み』は筋肉で行われているので、これは使わなければ衰える。衰えてしまった筋肉を80歳~90歳代から鍛えるのは容易ではないので、衰えないようにするのが重要でしょう。
前の日記で書きましたが、鼻から管をとうして胃に栄養物を直接落とす『イロウ』は、その管を通している不快感や痛みにくわえて、しゃべることも困難になり、ほぼ不可能。また飲み込み機能をまったく使わなくなるので、ある程度の期間それにしたら、あとは最後までそのまま、というパターンになるでしょう。
なので、私は同意しなかった。医師は『100%誤嚥します』と『イロウをやってもあと1か月』と言われた。こういわれてやらないという判断を下すのは、母とは言え私以外の人の命にかかわることだから、たいへんな決断力を要した。
『これは神仏、御先祖、深層意識による直観、すべて総動員でお伺いをたてねばならぬ』とがらにもなく、毎日香を焚き、中国皇帝が重病に倒れた時、不空三蔵が7日7夜となえて快癒したというお経を読んでいた。
結果、1週間である程度回復の兆しが見え、3週間でどうにか、普通の会話ができ、看護婦と軽口をかわすまでになった。しかし、90歳過ぎてからの月単位でのベッド生活は、完全に歩行能力を奪いました。食事自体も、普通食というわけにはゆかず、いまだに手作り誤嚥防止食を食べるような具合。
ひとくちひとくち、誤嚥しないように飲み込む。これは真剣勝負。これほど食べることに集中し(自分自身の飲み込みではないけれど)『食べる』という行為を意識したことはない。一回の誤嚥が致命的になりかねないのですから。
まさにビルからビルへ渡されたロープの上を歩いているような感じ。その『タイト・ロープ』な感じが一日3回ある。消耗します。
嚥下は筋肉を使うので、あまりに一口分が少ないと、回数が増えて、飲み込むための筋肉が疲れる。なので、あっさりしたものをある程度の量食べるということは、こういう場合難しい。
そこで、『栄養が集中した食事』をこころがける。やっていると不思議なことにいろいろ気がつきます。一度、ヨーグルト入りのバナナ、デーツ、ブラックベリー、林檎、ラズベリーのスムージーを数日間やめてみた。そうすると、病室特有の病人の臭いがするのです。やはり、乳酸菌やフルーツが体内の細菌バランスをそうとう整えているのがわかる。再開すると臭いはしなくなった。
たった一日1杯のスム―ジなのですが。寝付いたご家族が家にいて、病人臭いのが気になる方は、ヨーグルト、バナナ、ラズベリー、ブラックベリー、林檎、レモン搾り汁のスムージーをお薦めします。乳酸菌などの働きを活発化させるのに、キビの黒砂糖を少し入れる。
一般には、蕎麦や麺類は、高齢者にはいけないことになっていますが、それは歯がなくて噛み切れない、すすりこむので危ない、という理由でしょう。しかし、蕎麦もうどんも、『米粒の長さ』に切ってお粥にしてしまえばよい話です。これで、食事に変化を付けられる。
高校生時代にヨガをさかんにやっていましたが、その中で舌の運動とか、首の運動とかが入っていて、『これはやらなくていいな』と思った。しかし、今回の母のことで、嚥下のトレーニングの専門の方にきてもらったのですが、その運動が舌の運動とか、ヨガのものによく似ていたのでビックリした。
私のやっていたスムージーも、考えてみればスジャータの乳粥に近い発想がある。あちらはレーズンとかデーツ、ココナッツ、などを米の粥に入れる。
これぞ、『醍醐味』。お祭りの時など、ミルクを何時間も煮詰めて、焦げ付かないようにして、濃くしたりもする場合があるらしい。
この一口で、命が維持できると実感する食べ方というのは、現代では薄れている。うちでは冬至の日には一陽来復で、インドのバハマティ・ライスで、デーツ、レーゾン、ココナッツパウダー入りのミルク粥を作るつもりだ。
私は常にキッチン・はさみを持って歩いていて、写真のかきたまのようなものでも、食べさせる直前に卵やネギなども適当な大きさにはさみで刻んでいる。ミキサーにかけると味が変わってしまって、何を食べているのか、病人のほうは味で判断できなくなる。それは楽しみがそがれるだけでなく、食べること、味わうことの感動もそぎ落とし、あまり良いことではないように私は考える。