ネットでイタリアの帽子メーカー、ボルサリーノの倒産が載っていました。あのメーカーは、じつに良心的な仕事をしており、またその理念が立派でした。私の友人でヘルメットも『超特大でもキツイ』編集長の友人がいるのですが、ボルサリーノはその彼がしっくりかぶれる帽子を作っていました。
また別の友人は、こどもサイズがあうくらいで、なかなかしゃれたものがない。その両者がボルサリーノを愛用していました。
先月、フランスの友人に電話をしたら、フランスもイタリアもたいへんな不景気だと言っていた。そういう中で、ボルサリーノのような経営は難しかったのでしょう。一つのカタチ、一つの色に対して、いくつのサイズと在庫を持たなければならないのか?たいへんな数になるはずだ。在庫と販売量の釣り合いを考えればかなり苦しかったはず。
もうひとつは、帽子の文化が弱まって来ていて、被っている人はニットであるとか野球帽であるとか、そういう方向の人が多い。ツィードの帽子をかぶっている人すら日本では稀だ。ましてやつば付きの帽子は世界的にかぶっている人が減っている。
こうした変化で老舗すらもやってゆけなくなるのは、『時代の変化』なのだろうと思う。一方で、その変化が早すぎて、多くのところが順応する前にやられてしまう。
ところが、その順応したところが、薄利多売で内部の環境はド暗真っ黒だったり。あるいは、その勝組商品がどうにも退屈でやりきれない。
私は遠からぬうち、自転車もそうなるのではないかな?と言う気がする。『大量生産のスキーのような、カラフルで樹脂感満載の運動系自転車』と『安い街乗り車とキャッシュカードで使う乗り捨て自転車』あとは『航続距離が短い、近距離自動車移動やバイク移動の代替品としての電気式、あるいはアシスト・バイク』、この3つに自転車は集約されてゆくのではないだろうか?
昨日は塗師といろいろ話した。彼も長年、塗料を吸い込んでいるので、この急激な気温変化で咳がとまらくなって、家族が寝られなくなるので作業場の方を暖かくして寝ていたという。
自転車でも服でもそうですが、『物としてしか見ていない人』、『自分は金を払ったからそれを所有し、また売り手、作り手に対して上手に出られると勘違いしている人間が増殖しすぎた』。物が作られる背景が見えていない。
職人と言うのは、最大の武器は『作ってやらないこと』だと考えている人たちだと私は思っている。また、そのためであれば、破産しても餓死しても筋を貫く人たちだとみんな思い知ったほうが良い。
私が見た英国やヨーロッパの職人、日本の職人、みんなそうだった。自転車界でもクロード・バトラーもサクソンもサンビームも、ベィツも、バイク界でもノートンもブラフ・シューペリアもすべてそういう道をたどった。アストン・マーティンなど、いったい何回倒産したのか?
そういう中でしか、ほんとうのドラマ性のある物は生まれてこないのだと私は思っている。
トップ写真はボルサリーノではありませんが、帽子をかぶったW.O.