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Channel: 英国式自転車生活
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最後の最後は???

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この夏、母の入院の様子と、同じ階にいた患者さんを見ていて思ったのですが、最後の最後にセメントの天井と壁、メタルとカーテンに囲まれ、それまでの人生でやっていたことが出来なくなり、住み慣れた部屋や家から離れて、友人たちにいつも囲まれているわけでもなく終わりを迎える時の心境やいかに?ということでした。

担当の医師に、私が目撃したように『やっべ~、こんなことになってるよ。これは日勤の医師のすることじゃねぇっす。やっといてね。』と看護婦に頼んでどっかへ行かれてしまったらどうか?医師や看護婦がその患者と同程度の知的レベル・道徳レベルでない場合は珍しいことではないだろう。

『持って行けるものは、頭の中身だけ』だが、それすらも病気や高齢の時はあやうい。

また、そういう状態で、天井を見つめつつ、何を思うのかな?と考える。私の友人で保険にはいっていないのがいて、けっこうな資産家なのですが、決して入ろうとしない。
『うちの主人の場合はわかってるんですよ。自分がSHINだあと、そのお金で家族が海外旅行へ行ったり楽しくやるのが、想像するのも嫌なんですよ。』
『アッハッハ。長年一緒にいるだけによくご存じで。』

その自分の家も、そこから切り離されて、自分はセメントの病棟へ入れられて、家族はいままでどおり、『主がいなくても、同じ生活を続けている』わけです。私の知っている画家で、脳溢血になった時、都内の高級住宅地から東京のはるかはずれの施設に移されて、まだ生きているうちに画室をこどもたちが取り壊し、家を建て替えてしまった例がある。

ほんとうは都が記念館として保存してもよいくらいのアトリエだった。ロダンの手ひねりの小品とか、公立美術館が欲しがっていた作品が多数あった。

いわば、自分の慣れ親しんだ『庵』から引き出されて、ほかの、趣味も人生観も違う人たちと共同の場所の、セメントの入れ物に投げ込まれたに等しい。

これはいままでの人生がどんなに成功しても、達成感があろうと、役に立たない。そこにいる期間が数年とか10年ともなるといたたまれないだろう。人間の精神は『今』を軸に動いていますから、『過去に良かった』だけでは救われない。

ピカソは『自分が世を去った後の、後世とは仮定であり、それに託して今を生きるわけにはゆかない』と、今の自分と後世とは直接の関わりがないことを言った。

さて、過去にすがるわけでもなく、後世に思いを託しても関わりがないとするならば、その『締めくくり』はどうするのか?それを考えることなく、その見通しがないまま、突然に終わりが来てあわてるのはたいへんだろう。

自分は幸いにして、それを考えるだけのところになんとか来た気がする。

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