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Channel: 英国式自転車生活
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無駄を省いて

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日曜日は朝電話があって、旧知の仲間が急な出張でイタリアから東京へ出て来ているとのことで、夕方から会って食事を一緒にした。彼は巨大なアルミケースを持って、空港から直行してきたかのようなモード。月曜日から仕事の打ち合わせで、水曜日は日本を飛び立つ。ヨーロッパ行きはだいたい午前中か午後1時ぐらいまでのものが多く、夜こちらを立って、夜向うへ着くのはアエロフロートであるとか、主流でないところが多い。

私が若いころアエロフロートをよく使っていた理由は、そのあたりにある。飛行機の中で頑張って起きていて、向うへ着いたらそののまま眠れば時差調整が容易だからだ。ロンドンでの私の場所はノッテイングヒルゲイトだったので、ヒースローからは簡単に行ける。

夕方5時20分に会って、喫茶店で雑談ののち、食事を一緒にして、8時15分に別れて、私は母の介護に戻った。向こうも長旅と時差でたいへんなので、ワインはグラスで一杯。私もグラスで一杯。まあ、充分です。最近はムートン・ロスチ◎ルドの高級ワインを飲むことが多かったのだが、正直なところ、私は若いワインが好きだったりする(笑)。両者は別のカテゴリーの飲み物でしょう。

その話がたまたま2人で出た。ヨーロッパの金持ちや名家の出の人などは、質素な生活をしている。明治時代、日本の武家の出の人たちが、あれほど簡単にヨーロッパで受け入れられた背景には、武家の質素とヨーロッパの質素とどこか共通項があったからではないか?と言う気がする。ヨーロッパの旧家、名家の人たちは肉は『ローカル・ブッチャーの誰それのところから』、とか『このブルーベリージャムは、うちの庭で出来たものを自分で作った。だから店で買うもののように甘すぎない』とか、『このワインは、私の友人のところからいつも買っている』と言う具合。

だから、フルッチョ・ランボルギーニもチネッリも自分のワインを作っていた。

昨日行ったところは勝手知ったるところ。オープンした時から知っている。100%信用しているので、考えているのと違った味の料理が出てくることはない。珈琲も『泡がフランスの美味い珈琲』で、イタリアのエスプレッソとはまったく味が違う。東京でもずいぶんあちこち店に入りますが、『フランスのエキスプレス(エスプレッソ)の美味い味のものが出てくるのはそこしか思い当たらない』。

この歳になって思うことは、『無駄に過ごす時間』は本当にもったいない、ということだ。8か月分以上のキャッチアップの会話が、満足のゆく食事とともに3時間かからない間に出来て、食事もできる。一方でテレビやら運動やらで4時間とか5時間とか週末に使う人もけっこういるだろう。

自転車と徒歩で移動するのがほとんどな我々は、「運動しないといけない」という感覚が弱い。医学的にも運動は自然な日常生活の動きの中に入っていたほうが身体に良いことがわかっている。過激な運動、過剰な運動、集中的な運動などはかえって健康に悪い。

酒も嗜む程度でやめる。やはり、健康をなくした時の生活の質のことや、失う時間のことを考えると、とても量を飲むとか、毎日飲む雰囲気ではない。『長寿の薬になるぐらい』でやめる(笑)。糖尿があるのに酒がやめられず、眼底出血で眼が見えなくなって大騒ぎをしたひとを自転車界で数人知っているが、なぜやめられなかったのかよくわからない。

私は家事が終わると、だいたい本を読んでいるか音楽を聴いている。テレビはまずほとんど見ない。寝る前に45分ほど臨書で字の練習はいまだに続けている。そうすると、ゲームをしたりネットサーフインをしたりと言う時間がまったく入ってこない。

自分の残りの人生時間と、生きているうちに読んでおきたい本の量を考えると、『時間つぶしの番組』や『純粋なエンターティンメントの映画や読み物』『ゲーム』などをやっている時間はない。

英国にいたとき、その家にはテレビがなかった。『娯楽は日曜日にやってくる人たちとの会話』。それもかなり知的な会話。ケンブリッジのカーメン・ブラッカー教授などもたまに来た。モンゴル音楽の研究家なども来た。私が住むずっと前はギターのジュリアン・ブリームやベンジャミン・ブリッテンが来ていた。

私の居る「ひのたまはちおうじ」には大学がたくさんあるのに、そういう知的会話の場所の存在はまったく聞かない。ひとつだけアイルランド人のやっている昼食会が山の上であるだけである。

こういう英国・アイルランド系統の文化は、『することがないからパブへでも行くか』というのの上に、『知的会話を娯楽とする、パブより上の倶楽部か、もしくは自宅でそれにかわるものを』という発想なのだろう。

似たものはフランスでは『サロン』というかたちであった。日本では、明治時代に冷遇された幕府寄りの武家の家に書生を置いたり、大正時代の成功した芸術家が自宅に、金のない芸術家を住まわせたりした例がある(現在の朝倉彫塑館は元はそういう場所だった)。

現代ではまず、そういう例を聞かない。今の日本で、ヨーロッパの知識人と互角に渡り合える論客をあまり見かけない理由の一つは、そういうsettingが存在しないからだろう。大学が『会社奴隷の量産所』、あるいは『やがては会社の役にたつ研究者』の養成にやっきになるからだろうと私はみている。

ところが、自転車の世界でもそうだが、『壁を破るような視点は、無用の知識から生まれる』ことが多いのだ。今の日本の閉塞感も、そのあたりに根があるのではないか?

受験勉強は、『いかに理不尽な無駄なことをやらされても、文句を言わないでこなすか?』という組織への従順さと、メモリーの大きさを試すものになっていると思う。

かくして、大学は会社の研究室か、会社奴隷のための予備校に近づいて行く。社会人ともなれば疲れ果てて、テレビやインターネット漬け。ほんとうは自分にとって無駄なことで頭を休める。

それである程度の年齢に達した時、あるいは人生『強制終了』が目前に見えた時、それまでの数年間、数十年間の『無駄』は巨大なものになっているだろう。そこで健康が損なわれた時など、『いったい自分は何をやって来たのだろう?』という気分になる人たちをずいぶんたくさん見た。

無駄をなくす生活と言うのは、腰を据えてじっくり考えて見る必要がある。毎日やっていることでも、じつは無駄なことが少なくない。

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