私はある意味、きわめて古い世界に生きている人間なので、お盆とか正月とかをどうでもいいとは考えない。今日も迎え火を焚いて、お盆らしい生活をしていた。
そうすると、いろいろと考えることがある。
古い初期仏典の中だったと思うが、閻魔様の前に引き出された男が、どうして生活を改めず、悪い道を歩き続けたのか?と訊ねられた。「お前は老齢に苦しむ年寄を見なかった?」「はい。大王様、たしかにそういう者がおりました。」「あれは、お前もやがては歳老いるということを、お前に知らせるために派遣した使者だったのだ。」また大王は訊いた「お前は病に苦しむ人を見なかったのか?」「はい大王様。たしかに病に苦しむ者をみました。」「あれは、お前も病に苦しむことがあるだろうということを知らせるために送った使者だったのだ。」そして、「お前は、SHIに行く者に出会わなかったか?」「はい大王様。たしかにそのような者がおりました。」「あれは、お前もやがてはRIN-JYUの時を迎えると諭すために送りこんだ使者だったのだ。」
ここまでで、『老・病・SHI』までの三苦が出されている。あとは生きることもめざめない限りは苦痛になる、ということを合わせて四苦。
時間は巻き戻せませんから、過去の出来なかったことの後悔は、その人がいなくなってからでは不可能だ。深い反省と改悟がないと、いつまでも、『鉄が内側から出る錆にやられるように蝕まれる』。『身から出た錆』というのは、じつは仏典に書いてある話から出ている。
お盆でさまざまなことを行うのも、そうした後悔をやわらげ、かつ、喪失した人たちへの『縁』と『恩』を忘れないためでもあっただろう。
迎え火を焚いた後、また病院へ戻った。多くの人たちは昼間お見舞いに行って、夜の8時過ぎには居ませんからご存じないだろうと思う。私は正直気が滅入る。
フロアのあちこちの病室から絶叫が聞こえてくる。タンが溜まったのを機械で吸い出している。そうとうな苦痛らしい。みんな、されている人は半狂乱で叫んでいる。「もうやらなくていい。どうせ誰でもやがては死ぬんだから。やらないでくれ。」と今日も叫んでいる人が4人ほどいた。「もう、いいからやめてくれ」と哀願している人もいる。「でも、やらないと肺炎でSHINじゃうんですよ。」「それでもいい。苦しいからやらないでくれ。」と叫んでいる人が今日もいた。
うちの母などもそれが聞こえると目を見開いて戦々恐々としている。その時間帯に一緒にいるということが大きな意味を持っている。
小学生の時代、注射の順番を待っているのが嫌でたまらなかった。同じように最後の最後の苦痛をフロア中に聞こえさせて、『予告している』に等しいのではないか?
やっている人は、30年後か、40年後か、今度は自分がやられてからはじめて、その苦しさを体験するのだろう。昔風に言うなら、『お前には、何人もその苦しさを知らせるために人を送ったではないか?その数十人分を今度は一人で体験しろ。』
知り合いから「YASUらぎの里」が面白いと言われてみて観た。う~~~ん。遠い話だなと思った。どこのホームがいい、とかいうのとあまり変わらない気がする。そこでピラティスをやっていたり、ようするに、仕事を終えて、時間と金があって、そののちは『Live happily ever since after』というおとぎ話で、現実の悲痛な感じがない。実際、どんな成功者でも大金持ちでも、そういう悲惨な最期や思い通りにならない人生の人は少なくない。
パスカルだったかデカルトだったがどこかで言っている「SHIんでしまうのは嫌じゃないんだ。SHIぬのが嫌なんだ。」
お盆の時に帰って来ると言われているといわれている人たちは、原則、苦しさを渡ってしまった人たちですから、こちらに最善を尽くした気持ちがあれば、この時期は平和な時期だと言える。
じつは、ここ3日ばかり体調を崩している。そういう中でぼんやりとしていて、普段は絶対そんなことはしない私が、ビンを落として急須を一つ壊した。「ああ、これは、当たり前と思っている日常が、ふとした外的要因で壊れることもある。どんなものや生活でもいつかは終わりが来る」という御先祖様よりのメッセージだなと理解して、肝に銘じたお盆の初日でした。