私が若かった時、ダ・ヴインチの手稿がマドリッドの図書館から発見されて、大きな話題になった。
ファクシミリの完全版も発行されたが、とても手が出なかったのを覚えている。
これはけっこう今までも定期的に頭の中で考え直していたのですが、天才の手帳は興味深い。彼のノートの貼りつけられた裏側に、ダ・ヴィンチ以外の人間の描いた自転車の絵があって、それがダ・ヴィンチの弟子が描いたものなのか、あるいは、誰かがいたずらで描いたフェイクなのか、大きな話題になっていた。
その真偽の議論は友人のハンス・レッシング博士にまかせるとして、私が長年、ダ・ヴインチのマドリッド手稿で気になっているのは次の1文である。1勝の最終ページにある。
『私は父より先に産まれた人間だ。人類の3分の1を殺して、ふたたび母の胎内に入った。』
これが気になって仕方がなかった。どこかの「むぅな奴」とか「と仮名の記事」ではなく、天下のレオナルドがノートに書いていた。
そのまま読めば、彼には前世の記憶があって、しかも「未来の記憶」があったかのようだ。あるいは我々の知っている歴史の前にもうひとつ文明があったかのような記述。
このダ・ヴインチの一言がまったく問題にされないのが不思議でならない。
江戸時代に程久保小僧というのがいて、日野のあたりにいた。ある時、遊んでいる時に『じつは自分はこの家の子ではない。ここから離れたある家のこどもだったのだが、夭折して、ここの家のこどもに生まれ変わった。このことは誰にも言ってはいけない』と兄弟に告げたという。ところがそれをこどもが親に話したために、おとなたちが調べに来て、ついに将軍の耳にまで入った。
もし本当だとするなら、これは重大事件だと将軍が学者に命じて調べさせた。たしかにそのような家は存在し、家の様子もその程久保小僧の言う通りだったという。
それだけなら「ぜんせ」は関係なく、以前に書いた「つきもの」が離れた家で今何を食べているかわかったことでも、説明が付く。それをそのこどもが「ぜんせ」で起こったことだと感じたらそういうことも起こるだろう。
しかし、このダ・ヴインチの一言はどうなんでしょうね。また、ダ・ヴインチは肉食を嫌ったことが知られている。また、彼の岩窟の聖母やモナリザの背景が、東洋の墨絵のようで、掛軸か何かを見たのではないか?と言われている。岩窟の聖母の足元にある花は金色で、仏具の花のようだ。
また、ジョルジョ・ヴァザーリによると、『神のごときレオナルド』は市場で鳥が売られているのを見ると、必ずそれを買い求め、放してやっていたという。それは仏教徒の間にもそういう習慣があった。
古本のマドリッド手稿の本をめくりながら、そんなことを考えるのもなかなか面白い。
ファクシミリの完全版も発行されたが、とても手が出なかったのを覚えている。
これはけっこう今までも定期的に頭の中で考え直していたのですが、天才の手帳は興味深い。彼のノートの貼りつけられた裏側に、ダ・ヴィンチ以外の人間の描いた自転車の絵があって、それがダ・ヴィンチの弟子が描いたものなのか、あるいは、誰かがいたずらで描いたフェイクなのか、大きな話題になっていた。
その真偽の議論は友人のハンス・レッシング博士にまかせるとして、私が長年、ダ・ヴインチのマドリッド手稿で気になっているのは次の1文である。1勝の最終ページにある。
『私は父より先に産まれた人間だ。人類の3分の1を殺して、ふたたび母の胎内に入った。』
これが気になって仕方がなかった。どこかの「むぅな奴」とか「と仮名の記事」ではなく、天下のレオナルドがノートに書いていた。
そのまま読めば、彼には前世の記憶があって、しかも「未来の記憶」があったかのようだ。あるいは我々の知っている歴史の前にもうひとつ文明があったかのような記述。
このダ・ヴインチの一言がまったく問題にされないのが不思議でならない。
江戸時代に程久保小僧というのがいて、日野のあたりにいた。ある時、遊んでいる時に『じつは自分はこの家の子ではない。ここから離れたある家のこどもだったのだが、夭折して、ここの家のこどもに生まれ変わった。このことは誰にも言ってはいけない』と兄弟に告げたという。ところがそれをこどもが親に話したために、おとなたちが調べに来て、ついに将軍の耳にまで入った。
もし本当だとするなら、これは重大事件だと将軍が学者に命じて調べさせた。たしかにそのような家は存在し、家の様子もその程久保小僧の言う通りだったという。
それだけなら「ぜんせ」は関係なく、以前に書いた「つきもの」が離れた家で今何を食べているかわかったことでも、説明が付く。それをそのこどもが「ぜんせ」で起こったことだと感じたらそういうことも起こるだろう。
しかし、このダ・ヴインチの一言はどうなんでしょうね。また、ダ・ヴインチは肉食を嫌ったことが知られている。また、彼の岩窟の聖母やモナリザの背景が、東洋の墨絵のようで、掛軸か何かを見たのではないか?と言われている。岩窟の聖母の足元にある花は金色で、仏具の花のようだ。
また、ジョルジョ・ヴァザーリによると、『神のごときレオナルド』は市場で鳥が売られているのを見ると、必ずそれを買い求め、放してやっていたという。それは仏教徒の間にもそういう習慣があった。
古本のマドリッド手稿の本をめくりながら、そんなことを考えるのもなかなか面白い。