4時のお茶休憩でネットのニュースを見ていたら、コメディアンのハッサン・ミナジ氏がトランプ大統領をこき下ろしていたと言う記事が出ていた。
動画を見てみましたが、まったく面白くない。エスプリのかけらもない。しかも、ユーモアに不可欠な『その場の状況を変えて、緊張をやわらげ、なにか創造的なアイデアを誘発する』という作用に欠けている。
いま、アメリカが極東に空母を派遣し、世界中が緊張している時に、ハッサン・ミナジ氏のような単なる欠席者こき下ろしで笑いをとろうとする行動は卑しい。
名前からして彼の宗教は明らかだが、私は長年の体験から、中東では宗教の制約によりジョークやユーモアの対象にしてはいけないタブーがものすごくあることを知っている。
アメリカは大統領すらもジョークやあざけりの対象にすることが出来て良いではないか。
ロンドン・オリンピックでミスター・ビーンは『炎のランナー』をちゃかしたが、炎のランナーはきわめて国粋的で、かつ宗教的な映画だ。ユダヤ教徒のハロルド・エイブラハムズの葬儀が英国国教会の教会の中で行われているところから映画がスタートする。ハロルドが「I am a Cambridge man first and last. And I am an Englishman first and last.」というシーンを思い出して欲しい。ハロルドが対抗心を燃やすライバルのランナーのエリックは牧師だ(たぶん頑なな長老派、プレスビティリアン)。「我をたたえる者、我も称えん」。
オリンピックのオープニングのビーンの中に『自分はそんな立派なもんじゃない。何をやっても勝って、ヒーローになりたいと、ある種の自己露悪的なユーモアがあった』。そこには見えないように『オリンピックにまつわる勝利への執着や、国粋的なものへの揶揄が含まれている』。
私の中では「ユーモアと言うものは、固着して偏屈になった視点をやわらげ、バランス感覚を取り戻すためのものであるべきだ」という考えがある。
幼稚園児に「川の上の方から大きな桃が流れてきました」というところを「川の上から桃といっしょに大きなウン✕が流れてきました」というと笑いますが、いつまでもそのレベルでは困る。
昔、中東のあるホテルの支配人が、チェックインの時に、私が日本人だということで宗教的なお説教を始めた。日本の宗教は立ち遅れた偶像崇拝の未開文化の宗教だというのです。私はじつとこらえて聞いていた。最後に、
「君たちの宗教では、天国には白い女性たちがたくさんいて、いくら関係しても彼女たちは妊娠しないと書かれているそうだが、女性たちの天国はどうなのかな?」と質問した(じつは一切記述がない)。
「もちろん、同じような待遇が彼女たちにも用意されているはずだ。」と支配人が答えた。
「もし、その天国で、私が昔の彼女と鉢合わせしたら、そんなふしだらな状況は自分には耐え難いだろうな。ところで、もうひとつ質問なのだが、その天国には思想・言論の自由はあるのだろうか?」
その支配人は耳まで真っ赤にして、答えませんでした。
私はほんの軽い戯言のつもりだったのですが、怒らせてしまったらしい。彼の地でのユーモアは命がけになりそうなので、以後は軽口は慎んだしだいだ。
英語では『チェック・メイト』を決める一行を『パンチ・ライン』と言いますが、詰まった相手に言論封殺されたらたまらない。
動画を見てみましたが、まったく面白くない。エスプリのかけらもない。しかも、ユーモアに不可欠な『その場の状況を変えて、緊張をやわらげ、なにか創造的なアイデアを誘発する』という作用に欠けている。
いま、アメリカが極東に空母を派遣し、世界中が緊張している時に、ハッサン・ミナジ氏のような単なる欠席者こき下ろしで笑いをとろうとする行動は卑しい。
名前からして彼の宗教は明らかだが、私は長年の体験から、中東では宗教の制約によりジョークやユーモアの対象にしてはいけないタブーがものすごくあることを知っている。
アメリカは大統領すらもジョークやあざけりの対象にすることが出来て良いではないか。
ロンドン・オリンピックでミスター・ビーンは『炎のランナー』をちゃかしたが、炎のランナーはきわめて国粋的で、かつ宗教的な映画だ。ユダヤ教徒のハロルド・エイブラハムズの葬儀が英国国教会の教会の中で行われているところから映画がスタートする。ハロルドが「I am a Cambridge man first and last. And I am an Englishman first and last.」というシーンを思い出して欲しい。ハロルドが対抗心を燃やすライバルのランナーのエリックは牧師だ(たぶん頑なな長老派、プレスビティリアン)。「我をたたえる者、我も称えん」。
オリンピックのオープニングのビーンの中に『自分はそんな立派なもんじゃない。何をやっても勝って、ヒーローになりたいと、ある種の自己露悪的なユーモアがあった』。そこには見えないように『オリンピックにまつわる勝利への執着や、国粋的なものへの揶揄が含まれている』。
私の中では「ユーモアと言うものは、固着して偏屈になった視点をやわらげ、バランス感覚を取り戻すためのものであるべきだ」という考えがある。
幼稚園児に「川の上の方から大きな桃が流れてきました」というところを「川の上から桃といっしょに大きなウン✕が流れてきました」というと笑いますが、いつまでもそのレベルでは困る。
昔、中東のあるホテルの支配人が、チェックインの時に、私が日本人だということで宗教的なお説教を始めた。日本の宗教は立ち遅れた偶像崇拝の未開文化の宗教だというのです。私はじつとこらえて聞いていた。最後に、
「君たちの宗教では、天国には白い女性たちがたくさんいて、いくら関係しても彼女たちは妊娠しないと書かれているそうだが、女性たちの天国はどうなのかな?」と質問した(じつは一切記述がない)。
「もちろん、同じような待遇が彼女たちにも用意されているはずだ。」と支配人が答えた。
「もし、その天国で、私が昔の彼女と鉢合わせしたら、そんなふしだらな状況は自分には耐え難いだろうな。ところで、もうひとつ質問なのだが、その天国には思想・言論の自由はあるのだろうか?」
その支配人は耳まで真っ赤にして、答えませんでした。
私はほんの軽い戯言のつもりだったのですが、怒らせてしまったらしい。彼の地でのユーモアは命がけになりそうなので、以後は軽口は慎んだしだいだ。
英語では『チェック・メイト』を決める一行を『パンチ・ライン』と言いますが、詰まった相手に言論封殺されたらたまらない。