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Channel: 英国式自転車生活
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気が付く人

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私のまわりはみなさんそれなりの年齢になっている。それが何時、どういうきっかけでいままでのように行かなくなるかは誰にもわからない。いままでの人生で見ていると、その人の人徳とか行為とも関係なくさまざまなよろしくないことが起こっている。

善良な良い人に良いことが起こってくれるようにと思うが、そうも行っていないのを見かける。ヨーロッパ文明だと「それは理にかなわない」と神に直談判するのが、旧約聖書のヨブ記に出てくる。『しかし、お前は被創造物ではないか』と言われる、つまり作ってもらった分際で、自分が自分を作ったように思うな、というわけです。ヨブは神と和解する。

お釈迦様はどうかというと、虫けらのようなものに生まれず、人間として、こうして生まれてきたということは、たいへんなことだ、とこの自分の人間としての存在を貴ぶ。

科学的に言えば、有機物と無機物の集合体が生命活動を地上でいとなんでいることには、人間もねずみも変わりはない。その生命活動をしているものが脳をもち、こころを持つようになる。かつては巨大なシダや三葉虫や恐竜を作っていた炭素や鉄分やナトリウムなどが、今の自分の身体になっているかもしれない。

「誰かに頼んだわけでもないのに、生れ落ちてここにいる」。その不思議さ。この神秘感情が東洋の思想の源にあるが、現代生活でそれに気が付く人は多くはない。小学校へ上がる前からゲームをやり、小学校へ上がってもゲームをやり、社会人になってもゲームをやり(笑)。ゲームという人の作った枠組みのなかで遊びほうけている人が多い。まずそういう点に気が付く人は少ない。

お釈迦様はあるお経の中で、弟子に向かって、地面の土を爪の上に乗せて「この土と大地とどちらが多いと思うか?」と訊いた。そして、その生まれてきて存在している滅多にないありがたさをわかる人は、この爪の上の土ぐらいしかいない、と語った。

それを無駄に使うな、というのが、東洋的なわけです。『今がダメでも、次回でリセット』と無邪気に考えますか(爆)?この人生をよく生きれば、それ以上の生はないと道元さんなども言っている。『人身得ること難し、、、生死の中の善生、最勝の生なるべし』。この生をいまここで頑張らず、どこで頑張るというのか?それを次のステージに回すのは「来世あすなろ主義」だというのが、昨今の最近で来たものを横目で見て感じることだ。もし来世がなかったら、『リセットできないゲームで、ゲームオーヴァーまで遊んでしまった』ようなものだろう(爆)。

だいたい、見ていると、自分の身に不幸や災難が降りかかるまでは、人はあまり同情心というものを持たない傾向がある。どん底まで行ったことのない人にはなかなかどん底の人の気持ちになって理解することは難しい。

人の不幸を見て、ザマぁ見ろとか天罰とか因果応報とか、さまざまなことを言う人がいる。これはその段階で、すでにその発言者が良からぬ世界の住人になっていると私は考える。

日本語で『悲』という漢字に、同情心や慈愛の意味があり、同時にかなしいという意味があるのは、東洋の思想をよく体現していると思う。ざまあみろと言った瞬間、同情心、慈愛、人間愛、思いやりの世界から踏み外している。

インターネット上にはそうしたよからぬ、地獄的な泥沼掲示板が無数にある。

実際、知っている人で、さんざん他人のことを「あれは天罰だ、業病だ」と言っていた人が、自分がそれと同じような境涯に落ちた人を知っている。その人は自分のことをどうとらえるのだろう?

私は『この世界を、慈愛に満ちて生きて、肯定できる世界に近づけようとしている人を礼賛する』。

昨晩、私の友人の晩年をずいぶん面倒を見た若手から電話があった。その友人なきあと引き受けた犬がまだ彼のところにいるのを聞いて驚いた。もう13歳を超えているはず。もともとは足を骨折しているのを飼い主に捨てられていた猟犬だった。私の友人が拾って、獣医に連れて行き、手術をして、ずっと飼っていた。

山で野垂れ死にさせず、平和な一生を全うさせてやろうとしてきたわけです。

これは人間が相手なら、もっとそうあるべきだろうと思うが、逆に人間相手だと出来ない人が現代社会では増えている気がする。

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