22日は友人のMEI-NICHIだったわけですが、さて、何をするかな?と思った。意外に思われるかもしれませんが『SHIN-だ人に聞かせるお経と言うのは本来インドには存在しない』。よく法事で読まれる「大悲震陀羅尼」も「千手観音に帰依したてまつる、我、願わくばすみやかに一切の法を知らんことを、我すみやかに般若(智慧)の船に乗り苦海を超えて行けることを得んことを~、」と読んでいるわけで、読んでいる坊さんの話であって、もうこの世の人ではない人とはかかわりがない。
彼の人生の生きざまを語り、そこに何かを見つけ、彼の人生に感謝し、彼を称えん、という英国国教会的なスタンスがいいのではないかと思った。
彼は人ぞしる紅の豚のような人生だったのですが、声もそっくり、喋り方もそっくり、しかし、おおよそ彼の人生を理解する人は少なかった。私などは『人生さまざまな事情がある』ことを理解しているので、彼とは最後まで良好な関係を持った。おおよそ世の中で、もっとも手間がかかり割に合わない仕事をやっていて、世の中は彼を決して儲けさせなかった。
彼が都落ちする時、私は手伝ったが、エイヴォンとダンロップのタイヤが10mぐらいあった。
「すごいね。英国で探してもなかなかないぜ。」
「いやぁ、開店の時から持ってるんですが、決してみんな買わない。みんな乗ってないからタイヤは減らないし、あいつが持っているから自分で持っていなくてもいいや、、そう思うんですな。ひどいもんです。」
その彼が廃業したドライブインへ引っ越した。広いし、床がしっかりしているから旋盤なども置ける。駐車場には作業途中のものも置ける。アメリカあたりで乗り物をいじっている連中は、そういう『場所とスペースがあるから出来る』。実際の話、もし、都心で車一台バラして徹底レストアするとなったら、20坪の室内で作業して、1年かかったら、スペース代だけで250万から300万円はもらわないと合わないはずだ。
その場所はかなり『英国的』な生活が可能で、彼は近所の農家の農作業車両のエンジンの修理や調整をやって、かわりに野菜をもらったりしていた。裏の川では魚が釣れた。それで、彼は一時期息をつくことが出来た。やがて、親の具合が悪くなり、そこを離れて郷里へ戻らないといけなくなった。
その彼が、或る時、「TORAさん」と「釣りBAKA」が大嫌いだという話になった。『だいたい、あの2つのシリーズって、お互いの内容が人生観で矛盾してるじゃねぇですか。あれをどっちもつくるってぇところがすでに監督の『安全圏からしか人生見れない姿勢』が出てるんで、そこが鼻持ちならないんだな。R&Fさんは好きですか?』と言われた。
私も嫌いだ。釣りBAKAに至っては、1本最後まで見られない。
やがてはTORAも老年になる。彼女もいない。「良い人ね~」は決してそれ以上の人間関係にはならない。もっとズバッといえば、ベットで朝までの関係には決してならない。所詮はどんなに親しそうに見えても、親切な他人のことなのだ。そのTORAの悲哀には監督は目をつぶる。『あ~よかった、自分には配偶者もこどももいて、会社もあって』という観客の安心を、風来坊を出しにして、供給する。一方でTORAの自由な生き方を『ダイジェスト版』で楽しませる。同情や憐憫は一時期のこと『どうせ大丈夫よ、あの人のことだもの』現実は大丈夫ではない。独り住まいのアパートで眼が見えなくなって大変だった人などもいる。それは『脚本で次作があるから大丈夫なだけだ』。私はそこがものすごく臭いと感じる。
TORAの側に「コミットメント回避」の姿勢があるし、女性の側にも実利的な姿勢がある。『関わりがない、人生が本当に深い部分で交わらない人に楽しませてもらう』ことでしかない。
チャップリンのシリーズを頭に置いているのはあきらかだが、チャーリーでも何本かでは最後は彼女と手にと手を取って地平線に消えて行く。
私のまわりには、そういう人生を『地で行く』人が何人もいた。そういう人たちははっきり2つのタイプに分かれた。一つのタイプはほんとうに、そのまんま。終生独りで、孤独で終わる悲惨な感じの人。もう一タイプは、ある時、徹底した強い結びつきの人が現れるタイプ。
例をあげると誰だかすぐわかるのであげませんが(爆)。自転車界でもたくさんそういう人がいるのは御存知の通りだ(笑)。彼女がまったくいない人と、生活も不安定で変わり者のくせに妙にロマンがあって、もてている人。
私の絵の兄弟子は、金もなく、ガンを宣告され、屋久島かどこかで絵を描きながらSHIのうと思って、東京から徒歩で旅に出た。京都の後援者のところに滞在しているという話を聞いて、彼を知るある女性が家宝の熊谷守一の絵を売って現金を持ってあとを追った。
別の音楽家の友人は娘ほどの若い女性に追いかけられて、貧乏共同生活を始めた。
人生は「あすなろ」で生きるには短すぎる。TORAには何の参考になるものも私は見ない。人生は映画より奇なり。私は後者のタイプしか認めない。TORAのあすなろは大嫌いだ。若い人でフリー人生を目指すなら後者を目指すべきだと言っておく。けっしてTORAになってはいけない。タイムアウトのとききわめて悲惨なのをあまりに多く目にしてきた。
第三者視点の人間には、悲喜劇の当事者の心境は決してわからないだろう。
彼の人生の生きざまを語り、そこに何かを見つけ、彼の人生に感謝し、彼を称えん、という英国国教会的なスタンスがいいのではないかと思った。
彼は人ぞしる紅の豚のような人生だったのですが、声もそっくり、喋り方もそっくり、しかし、おおよそ彼の人生を理解する人は少なかった。私などは『人生さまざまな事情がある』ことを理解しているので、彼とは最後まで良好な関係を持った。おおよそ世の中で、もっとも手間がかかり割に合わない仕事をやっていて、世の中は彼を決して儲けさせなかった。
彼が都落ちする時、私は手伝ったが、エイヴォンとダンロップのタイヤが10mぐらいあった。
「すごいね。英国で探してもなかなかないぜ。」
「いやぁ、開店の時から持ってるんですが、決してみんな買わない。みんな乗ってないからタイヤは減らないし、あいつが持っているから自分で持っていなくてもいいや、、そう思うんですな。ひどいもんです。」
その彼が廃業したドライブインへ引っ越した。広いし、床がしっかりしているから旋盤なども置ける。駐車場には作業途中のものも置ける。アメリカあたりで乗り物をいじっている連中は、そういう『場所とスペースがあるから出来る』。実際の話、もし、都心で車一台バラして徹底レストアするとなったら、20坪の室内で作業して、1年かかったら、スペース代だけで250万から300万円はもらわないと合わないはずだ。
その場所はかなり『英国的』な生活が可能で、彼は近所の農家の農作業車両のエンジンの修理や調整をやって、かわりに野菜をもらったりしていた。裏の川では魚が釣れた。それで、彼は一時期息をつくことが出来た。やがて、親の具合が悪くなり、そこを離れて郷里へ戻らないといけなくなった。
その彼が、或る時、「TORAさん」と「釣りBAKA」が大嫌いだという話になった。『だいたい、あの2つのシリーズって、お互いの内容が人生観で矛盾してるじゃねぇですか。あれをどっちもつくるってぇところがすでに監督の『安全圏からしか人生見れない姿勢』が出てるんで、そこが鼻持ちならないんだな。R&Fさんは好きですか?』と言われた。
私も嫌いだ。釣りBAKAに至っては、1本最後まで見られない。
やがてはTORAも老年になる。彼女もいない。「良い人ね~」は決してそれ以上の人間関係にはならない。もっとズバッといえば、ベットで朝までの関係には決してならない。所詮はどんなに親しそうに見えても、親切な他人のことなのだ。そのTORAの悲哀には監督は目をつぶる。『あ~よかった、自分には配偶者もこどももいて、会社もあって』という観客の安心を、風来坊を出しにして、供給する。一方でTORAの自由な生き方を『ダイジェスト版』で楽しませる。同情や憐憫は一時期のこと『どうせ大丈夫よ、あの人のことだもの』現実は大丈夫ではない。独り住まいのアパートで眼が見えなくなって大変だった人などもいる。それは『脚本で次作があるから大丈夫なだけだ』。私はそこがものすごく臭いと感じる。
TORAの側に「コミットメント回避」の姿勢があるし、女性の側にも実利的な姿勢がある。『関わりがない、人生が本当に深い部分で交わらない人に楽しませてもらう』ことでしかない。
チャップリンのシリーズを頭に置いているのはあきらかだが、チャーリーでも何本かでは最後は彼女と手にと手を取って地平線に消えて行く。
私のまわりには、そういう人生を『地で行く』人が何人もいた。そういう人たちははっきり2つのタイプに分かれた。一つのタイプはほんとうに、そのまんま。終生独りで、孤独で終わる悲惨な感じの人。もう一タイプは、ある時、徹底した強い結びつきの人が現れるタイプ。
例をあげると誰だかすぐわかるのであげませんが(爆)。自転車界でもたくさんそういう人がいるのは御存知の通りだ(笑)。彼女がまったくいない人と、生活も不安定で変わり者のくせに妙にロマンがあって、もてている人。
私の絵の兄弟子は、金もなく、ガンを宣告され、屋久島かどこかで絵を描きながらSHIのうと思って、東京から徒歩で旅に出た。京都の後援者のところに滞在しているという話を聞いて、彼を知るある女性が家宝の熊谷守一の絵を売って現金を持ってあとを追った。
別の音楽家の友人は娘ほどの若い女性に追いかけられて、貧乏共同生活を始めた。
人生は「あすなろ」で生きるには短すぎる。TORAには何の参考になるものも私は見ない。人生は映画より奇なり。私は後者のタイプしか認めない。TORAのあすなろは大嫌いだ。若い人でフリー人生を目指すなら後者を目指すべきだと言っておく。けっしてTORAになってはいけない。タイムアウトのとききわめて悲惨なのをあまりに多く目にしてきた。
第三者視点の人間には、悲喜劇の当事者の心境は決してわからないだろう。