このあいだ久しぶりに会った友人に『ずいぶん白くなったね』と言われた。
『それはだんだん俗気が抜けて『太白金星』のようになっているのだ。』と答えた。
これといって痛いところもないし、自転車に乗って遠くへ行くのがつらいということもない。昔のぼれた坂が今は登れないということもない。最近はむしろ、膝を悪くしたらつまらないと、急坂にきたらあえて押す。
自分より10,20,30、40歳若いのと会っているので、歳をとった実感がない。年齢を言われるのは鬱陶しい。
このままのペースで行って、最期は『パトラッシュ、僕はなんだか眠いんだ』と言って終了ならいいのではないか(爆)。中高年向けの自転車の商標に『パトラッシュ』というのはウケるかもしれない(笑)。
私は年齢と言うのはほとんど無意味だと思う。分母にその人の寿命があって、分子にその人の年齢が来るというのが考えだ。93まで生きる人が80歳だったら、『あと13年で出来る限りやり残したことをやっておこう』と考えるべきだ。その分母がわからないのだから、常に『まだまだ』と思っていればいい。
昨日は2輪仲間の命日だった。彼は50代まで行けなかった。しかし、これは不思議な感覚なのだが、人は『あきらめたところで終わる』のではないだろうか。彼は倒れる数日前に電話で話した時、なにやら英国のSPレコードをかけていて、また英国へ行ってみたいけれど、今の状況じゃしかたがない、このあたりはシャッター街で土地は家のものだが商売が出来るものでもない、ここで終了かなと言っていた。
何かをつなぐ、『強い関心』あるいは『生き甲斐、自己重要感』のようなものがないと、糸が切れるように終わってしまう人が多い。
鳥山先生はあと2年ほどで3桁。これは素晴らしいことで、100歳超級でぜひとも自転車健康法の実例として、オールド・パーのように150歳までも頑張ってほしい。
これは昔からそうなのだが、机のまわりに良いものを置いて居心地よくすると、決して仕事をしない(笑)。人間と言うのはそういうもののようである。ある程度の年齢になると、私の場合、過去の一時期の強烈な思いがよみがえるものは、手元に残すとなんだか意識が後ろ向きになる。居心地のいいところと、まだまだこれから、、のところとがいい具合に両方残っていないといけない気がする。
「こんな年齢ではそろそろ、、」と言う考えは禁物だ。画家のティツィアーノも、「私も高齢なので、お支払いを早くお願いします」と金の催促には年齢を利用していたが、妖艶なヌードを描きつつ、たいへんな高齢まで到達した(笑)。フェリペ2世にあてた手紙の生年月日でゆくなら116歳だ。これをありえないという研究者もいるが、70歳過ぎまで煙草を吸い、菜食中心の日本の現代の禅僧でも106歳まで到達するのだから、昔の環境が良かった時代なら、あるいはそういう人もいたのかもしれない。
年齢などはただの数字だ。人生は『密度』だろうし、『若いか老いているかは精神生活による』。
うろ覚えだが、ロード・バイロンがパーシー・ビッシュ・シェリーに会った時、『詩人のバイロンだ。14??歳』とか言ったのではなかったか?『詩人の年齢は詩の境遇の深さによる』と。
私は35歳ぐらいで『年齢と言うものが消滅してしまっている』感じがする(笑)。年齢消滅のこころの持ち方こそ、ひろく伝えたいところだ。
『それはだんだん俗気が抜けて『太白金星』のようになっているのだ。』と答えた。
これといって痛いところもないし、自転車に乗って遠くへ行くのがつらいということもない。昔のぼれた坂が今は登れないということもない。最近はむしろ、膝を悪くしたらつまらないと、急坂にきたらあえて押す。
自分より10,20,30、40歳若いのと会っているので、歳をとった実感がない。年齢を言われるのは鬱陶しい。
このままのペースで行って、最期は『パトラッシュ、僕はなんだか眠いんだ』と言って終了ならいいのではないか(爆)。中高年向けの自転車の商標に『パトラッシュ』というのはウケるかもしれない(笑)。
私は年齢と言うのはほとんど無意味だと思う。分母にその人の寿命があって、分子にその人の年齢が来るというのが考えだ。93まで生きる人が80歳だったら、『あと13年で出来る限りやり残したことをやっておこう』と考えるべきだ。その分母がわからないのだから、常に『まだまだ』と思っていればいい。
昨日は2輪仲間の命日だった。彼は50代まで行けなかった。しかし、これは不思議な感覚なのだが、人は『あきらめたところで終わる』のではないだろうか。彼は倒れる数日前に電話で話した時、なにやら英国のSPレコードをかけていて、また英国へ行ってみたいけれど、今の状況じゃしかたがない、このあたりはシャッター街で土地は家のものだが商売が出来るものでもない、ここで終了かなと言っていた。
何かをつなぐ、『強い関心』あるいは『生き甲斐、自己重要感』のようなものがないと、糸が切れるように終わってしまう人が多い。
鳥山先生はあと2年ほどで3桁。これは素晴らしいことで、100歳超級でぜひとも自転車健康法の実例として、オールド・パーのように150歳までも頑張ってほしい。
これは昔からそうなのだが、机のまわりに良いものを置いて居心地よくすると、決して仕事をしない(笑)。人間と言うのはそういうもののようである。ある程度の年齢になると、私の場合、過去の一時期の強烈な思いがよみがえるものは、手元に残すとなんだか意識が後ろ向きになる。居心地のいいところと、まだまだこれから、、のところとがいい具合に両方残っていないといけない気がする。
「こんな年齢ではそろそろ、、」と言う考えは禁物だ。画家のティツィアーノも、「私も高齢なので、お支払いを早くお願いします」と金の催促には年齢を利用していたが、妖艶なヌードを描きつつ、たいへんな高齢まで到達した(笑)。フェリペ2世にあてた手紙の生年月日でゆくなら116歳だ。これをありえないという研究者もいるが、70歳過ぎまで煙草を吸い、菜食中心の日本の現代の禅僧でも106歳まで到達するのだから、昔の環境が良かった時代なら、あるいはそういう人もいたのかもしれない。
年齢などはただの数字だ。人生は『密度』だろうし、『若いか老いているかは精神生活による』。
うろ覚えだが、ロード・バイロンがパーシー・ビッシュ・シェリーに会った時、『詩人のバイロンだ。14??歳』とか言ったのではなかったか?『詩人の年齢は詩の境遇の深さによる』と。
私は35歳ぐらいで『年齢と言うものが消滅してしまっている』感じがする(笑)。年齢消滅のこころの持ち方こそ、ひろく伝えたいところだ。