人の一生の間にはずいぶん世の中の変化があるもので、私がこどもの時、うちにあった最初に見た冷蔵庫は木製だった。中はブリキで出来ていて、氷を入れるようになっていた。その氷をどうするかというと、氷屋さんを呼ぶわけです。サイドカー(リヤカー)付きのバイクで来て、冷蔵庫の中の大きさに氷を切ってくれた。
それが日本製の電気冷蔵庫になり、その木製冷蔵庫は自転車の部品戸棚になり、その日本製の後は、アメリカ製の大型のGEの冷蔵庫になって、それは30年以上一度も壊れず家にあった。しかも、それを最新型のパナソニックにしたら、逆にうるさく、かつ電気代が高くなったという話は以前、最初の頃のこのブログに書いた。昔の物はホーローの鉄板ボディで、今のものは下敷きみたいに薄い外販ですから、断熱も遮音もしずらいのだろうと思う。
30年の間に「冷蔵庫の定義が変わった」と言っても良いのだろう。50年のスケールで考えれば、大量の肉や魚を使うので、前もって材料を買っておかないといけない時にのみ、氷屋を頼んで冷蔵庫を使ったわけです。普段は御用聞きが持ってくるか、毎日買い物かごを下げて商店街へ行った。
同じことはたぶん、すべてのもの、ことがらに言えると思う。サントス・デュモンは飛行船に乗ってパリの町をウロウロし、『なわばしご』でカフェまで降りてきていた。そんな乗り物は今はないし、そういう生活も不可能だろう。では最新型の小型飛行機がその代わりになるか?というとならない。
これはじつは、モーターサイクルでも自動車でも同じだと私は考えている。
もう20年ほども前のこと、暑い夏の夕涼みに、古い自転車とバイクで深夜営業のペイヴメント・カフェに集まりましょう、と故ジンダ君とよく原宿や代官山で待ち合わせた。彼は角タンクで、私は自転車で、どちらも『火を燃やす前照灯』で集まっていた。ある時、彼がちょっと乗ってみませんか?と言って水平対向の角タンクのバイクで一周乗せてもらう機会がありました。
「こいつはねぇ。なんだか複葉機に乗ってるみたいな気分になれるんだな。2輪の飛行機ですよ。」
彼は声もしゃべり方もポルコそのものだった。ジブリで誰か彼に会ったことがあるひとがいたのではないか?と思えるほどそっくりだった。たしかにそのバイクは面白かった。どんなにあれより速くても、加速が良くても、壊れなくても、あの面白さは現代の2輪車にはない。なぜあれを現代の技術で簡単な操縦で、よく利くブレーキで再現しようとするメーカーがないのだろう?
まったく同じことは、自動車にも言えると思う。
以前も書きましたが、自動車デザイナーたちの集まりの場所で、
「最近のクルマのサイズ感、圧迫感、フロントシールドが額に迫ってきている鬱陶しさ、パロマのガステーブルみたいなねずみ色の計器盤、Aピラーの太さ、オレはそれらすべてが嫌だ。」
と大放言した(笑)。そういうことを言っているから呼ばれなくなるわけですが、偽らざる本音です。それも一番言いたいことだからしかたがない。
みんなしかし、納得してくれた。
「それはおっしゃる通りなんです。我々もR&Fさんの言うような、かつてのアルファやランチアやベレットみたいな、あのサイズで作りたいと思うんですけれど、安全基準の問題があって、ドアにはビームを入れ、エアバッグを付け、パッドを付け、客室がつぶれないようにAピラーを強くとやっていると、今のデザインと寸法にならざるおえないんですよ。」
と言われた。
このあいだゲストブックにだるたに庵さんが「ディアーヌ」の話を書き込んでこられて、「ああ、類は友を呼ぶ」と思った。
私の友人たちで、21世紀の今なおシトローエンの2CVにヨーロッパで乗っているのが8人いる(笑)。しかもそのうちの3人は『ナマコ板ボンネットの初期型』に乗っている。DSに乗っているのが3人。CXに乗っているのが4人。これはクルマを知っている方ならわかると思いますが、たいへんな『はみ出し者の集合』だと思う(笑)。
2CVとかディアーヌは自動車としての向いているベクトルがまったく違う。なぜあれの延長線上の低環境負荷の現代版を作らないのか。『対衝突性』を問題にするなら、戦車のように頑丈な大型で大馬力のものが走っている限り、どうせ小型車に衝突時に勝ち目はない。むしろ兵器のような頑丈な大排気量乗用車を禁止すればよい。
その昔、父と出かけた時、2CVを都内で見かけた。父が、
「いやぁ、日本であえて2CVに乗るのはかなり変わったタイプの人だが、女性で乗っているのはもっと珍しい。あのドライバーは女性だぞ。オレははじめて見た。個性強い人なんだろうな。」
と言った。父は知らなかったのですが、『きききりんさん』でした(確か当時は違う名前だった)。
CXに乗っているのが多いのは、ものすごい量の自転車の工具と、撮影機材と、ブーツセールに不要部品を積んで出かけて行くのにリアのサスペンションの腰が抜けないから。
第二次世界大戦前のヨーロッパの、都市と乗り物の関係は、特有の『空間意識』があったと私は考えている。アンドレ・シトローエンは、たしか、『自動車は空間と時間の意識を変えるもの』というようなことを言っている。
私の好きな映画のシーンに、大脱走でジェームズ・コバーンがカフェで新聞を読んでいるシーンがある。ウェィターが「電話です」と告げにきてあっけにとられる。彼が電話のところへ行くと、クルマがやってきて、窓から別のテーブルにいたナチの将校を撃つ。ああいう道路とカフェの関係は『フランス的な乗りつけ感覚』だと思う。
北米だったら巨大なカープールに停めるか、プラザの建物の中の駐車場に入れるか、ドライブインの前の砂ホコリがたつスペースで、ヨーロッパのように、路上カフェへ乗り物を『犬を連れてカフェに入るように連れて行くわけにはゆかない』。
2CVもディアーヌも、村のマルシェに行き、そこで花束からタマゴから野菜から、すべてクルマに放り込み、あるいは配達をして、知り合いに会ったのでちょっとカフェで珈琲でも。農村でのライフスタイル自動車なのです。
必要とあれば自転車も放り込める。
こういう自動車は残念ながら日本では定着しなかった。一部の軽自動車はこの路線だが、あまりに実用に振りすぎて趣味性がない。また、そうした町の市場も路上カフェもクルマのブーツセールの場所もない。
ドイツでも多くの場所でそうだと思う。ベルリンの壁が壊された直後に私はベルリンにいましたが、東ベルリンには、まだ戦前のそうした路上カフェの空気が濃厚に残っていた。西ベルリンは港区によく似ていた(笑)。ミュンヒェンにもそういうフランスやオランダのような路上カフェはあまりない。『道路からいきなりビルが建っていて、カフェはビルの中にある』。たぶん、そうした都市の個性とかがすべてからみあって、自転車とかバイク、自動車のデザインが決定されている。
この前、ホンダのクルマがレクサスに似ていると記事にしましたが、今日のネットのニュースで、『あれは北米のアキュラをテコ入れするための、レクサス追撃を考えた、最高級フラグシップ・モデルだ』というコメントが出ていた。だって誰が見ても似ていますから。あれは『向いている方向が北米エネルギー浪費文化のクルマだ』。
トヨタはじつはフランスから少なからぬ『おかげ』をこうむっている。トヨタ・スポーツ800のエンジンはフランスのディナ・パナールのエンジンの焼き直しだし、カローラ、カリーナ、と続いた半球形燃焼室のエンジンはフランスのタルボ・ラーゴのエンジンによく似ている。
フランスにはそのパナールの空冷二気筒水平対向エンジンを積んだ、2座のスポーツカーが存在した。アマチュアが簡単に自分で整備でき、空力に優れ燃費が良い。こどもが生まれファミリーカーが必要となる前までのスポーツ。レースにも出られる。これがヨタハチのコンセプトでもあっただろう。これから見るとハチロクはずいぶん違うと思う。あの時代より地球環境はさらに厳しくなり、自動車関係者は地球環境問題を無視してかかれないにもかかわらず。環境的視点からみて、私にはハチロクは後退していると思える。モータースポーツやらハィスピード・ドライヴイングが遊びとして許される時代ではもはやない。
クルマに関しては『別物になったのが良いことだとは思えない』。携帯電話のように誰もが持って化石燃料を燃やして空気を汚す。それがどうしても必要であるならまだしも、運転の楽しみのために、人よりも速くく走るために環境を汚す。いかなる思想でそれが正当化できるだろうか?
私は、アメリカのデス・ヴァレーをレクサスやNew NSXでかっ飛ばしたいとは思わない。そういうものは、現在の中東の情勢を考えれば、あまりに多大なる石油をめぐる悲惨さと裏表になっている。『好ましからざるもの』だと思う。ケントかドーセットの小さい村から村へ、2CVかディアーヌを、ヨットのように派手にロールさせてティーショップへ行く方が楽しいと感じる。